「義人を招くためでなく」        二章一三ー一八節

 イエスはまた海辺に出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らに教えられた。また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従ったというのであります。
 
当時の取税人、税金取りは、ユダヤの社会の中でみんなから嫌われていたのであります。それは当時のユダヤの社会はローマの植民地でしたから取られた税金の殆どは、自分達を支配しているローマにもっていかれてしまうからであります。みんなに憎まれ、いわば敵国の奴隷になっている売国奴とされて軽蔑されていたのであります。そうした事が彼らの心をゆがませいた。そのために彼らは必要以上に税金を取り立てて、私腹をこやしていった。その事が、取税人を、女性の中の遊女と同じように、最もいやしい者としてみられるようになったのであります。

 そのレビが収税所に座っていた。収税所の玄関の前に座っていたのであります。そうして、道行く人をぼんやりと見ていたのではないかと思われます。その前をイエスの一行が通り過ぎようとしたのであります。みんなはそんなレビに何の関心も示そうとしないのであります。レビももうその人々は自分とは別世界の人になってしまったと見ていたのかも知れません。恐らくレビもイエスの評判は知っていたと思われます。できる事ならみんなと一緒にイエスについて行きたいと思っていたかも知れません。しかしもうその人々は別世界の人々になってしまったと思っていたのだろうと思います。

 ルカ福音書にでてまいりますあのザアカイはみんなの後から一人おくれて、イエスを見に行きましたが、レビはただぼんやりと眺めていただけでした。そこにレビの孤独がありました。罪を犯している人間は一人になっている時が一番寂しいのではないでしょうか。仲間がいる時、同じ取税人がいる場合には、お互いに自分達の罪を弁明したり、開き直ったりして、ごまかす事ができますが、一人になった時、自分の罪が自分の前にあらわにつきつけられのであります。

 イエスはその一人になっているレビに声をかけ、「わたしに従ってきなさい」と言われたのであります。
 
 イエスは、後に「自分が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」のだと言われますが、それではイエスは悪の巣窟と言われている所に積極的にでかけていって、伝道したのかと言えば、どうもそういう事はしていないようであります。たとえば、たとえが悪いかも知れませんが、今日で言えば暴力団の事務所にでも積極的に出かけていって伝道したのかと言えば、どうもそうではなかったのであります。収税所に入り込んで、悔い改めを迫りにいったという事はなかったのであります。

 後に、イエスはエルサレム神殿に行って、そこで悪徳商法をしていた商売人の所に出かけていって、その商売道具をひっくりかえしたという事をしていますが、しかしその場合、イエスはそういう悪い事をしている人間に「わたしに従ってきなさい」とその人たちを召すためにいったのではないようであります。その人々の悪を糾弾するために、エルサレム神殿に出かけていったのであります。
 
イエス・キリストは、確かに「罪人を招くために」この世に来られたのであります。しかしその罪人とは、自分の罪に気づいた人、自分の罪に悩み苦しんでいる者、あるいはそこまで行かなくても、自分の罪に寂しさを覚え、悲しんでいる人のことであります。「重荷を負うて苦労している者はわたしの所に来なさい」と、罪の重荷を感じている人をイエスは招いたのであります。その人が自分の罪に気づくまでは、イエスはその人の心の外に立って、その人が自分の方から自分の心の扉を開くまでじっと忍耐強く待っておられたのであります。
 
 レビが収税所の玄関の前でひとりで座っているのをイエスは見て、そのレビに「わたしに従って来なさい」と声をかけられたのであります。

 人は一人になった時、自分の罪に気づくのではないでしょうか。仲間と一緒に罪に気づくという事はないのであります。そのグループにいる時はなかなかそのグループの罪に気づく事はない。軍隊の中にいる時には、その罪の恐ろしさに気づく事はできない、会社という組織の中にいる時には、もし会社が何か悪い事をしていても、自分達の犯している罪に気づく事はないのではないでしょうか。

 しかしそれでは一人になりさえすれば、罪に気づくか。一人の時われわれは確かに罪に気づくかも知れませんが、しかしまた同時に一人の時と言うのは、罪を隠しやすい時なのではないでしょうか。自分ひとりならばいくらでも罪は隠せる、人に知れない限りどんな罪を犯していても大丈夫だという思いがわれわれの中にあるのではないでしょうか。一人の時というのは、自分の罪に気づく時でもあるし、またその罪に気づいた時、すぐそれを隠してしまいやすい時でもあります。

 そうしますと、ただひとりになれば自動的に罪がわかり、罪を悔い改める事ができるかと言えば、そうではなく、そこにイエスが、神が、登場しなくてはならないのであります。神という絶対的な他者、自分の都合でどんなにでも自分のいいなりにさせる事のできる他者ではなく、神と言う絶対他者、自分のいいなりになってくれない他者、そういう絶対的な他者の存在、そういうかたが自分の前に現れないと、われわれは自分の罪に気づき、自分の罪を悔い改める事はできないのであります。

 レビの前に、イエスが現れたのであります。イエスから「わたしに従って来なさい」と招かれたのであります。だから彼は、イエスに従って、収税所を後にして、収税所を離れることができたのであります。
 
 イエスはその後、このレビの家にいって食事を共にしたのであります。レビがどんなにイエスと一緒にいる事を喜んだか。それはまたイエスの方でも、このレビと一緒にいて、そして食事を共にするほどにレビと一緒にいる事を喜ばれたかという事であります。

 イエスは「わたしは罪人を招くために来たのだ」と言われます。ここのところをルカによる福音書は「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と「悔い改めさせるため」という句をつけ加えております。あの取税人ザアカイの場合には、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します。」と言っておりますが、レビはそのような事は何も言っておりません。ただイエスと一緒に食事をしているだけであります。しかしそれが悔い改めると言う事の本当の中身なのであります。今までひとりだった人、人生なんて所詮孤独なものだ、頼りになるのは自分ひとりだと思っていた人間、そのためにただ自分のためだけにしか生きようとしない人間、そういうレビが今イエスと一緒に食事をしているという事、これが悔い改めるということなのであります。

 その後レビが取税人という自分の職業を変えたかどうかわかりません。あのザアカイもイエスに会ってから、これから正しい税金の取立をしますとは誓っても、取税人をやめた形跡はないのであります。恐らく取税人という職業を続けたたのだろうと思います。そして本当はその方がもっと厳しい事だし、もっと真剣な悔い改めの道ではないかと思います。仲間は、不正な取立をしないザアカイやレビをあざわらったりする、そういう中で生き続けるのであります。これは大変厳しい事であります。

 あの弟子達のように一切を捨ててイエスに従う道の方がよほど楽かもしれない。伝道者の道とか牧師の生活の方が、この社会の荒波の中で生きる事よりもずっと楽かも知れないと思うのであります。

 悔い改めるという事は、今までの職業を変える事でもなく、今までの環境を変える事でもなく、言葉に出して何かを誓う事でもなく、イエスと共に食事をする事、イエスを自分の心の中に入れる事であります。
 
 レビの家でイエスが食事の席についておられると、多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子達と共にその席について一緒に食事したのであります。レビはひとりで収税所の玄関の前に座っている時に、ひとりになっている時に、イエスに招かれましたが、イエスと出会った後は、もう一人ではないのであります。一緒に食事する仲間がいるのであります。もう一人でいてはいけないのであります。一人の方が気楽でいいなどと言ってはならないのであります。仲間ができれば、イエスを信じている仲間だと言っても、色々と面倒な事が起こることはわれわれもよく知っている事であります。しかしそれを避けて、一人の方がいいと言ってはならないと思います。別に社交家になる必要はありませんが、仲間を避けてはならないのであります。聖徒の交わり、教会の交わりは必要なのであります。

 そこにパリサイ派の律法学者たちがやって来て、イエスの弟子達に「なぜイエスは取税人や罪人などと食事を共にするのか」と非難したというのであります。それをイエスは聞いてこう言われました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」大変分かりやすい言葉であります。

 イエスはここでご自分のメシヤとしての使命、救い主としての使命を医者にたとえて「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」と言っております。しかしイエスの救い主としての歩みと医者の立場とは少し違うのではないかと思います。と言うのは、医者が丈夫な人はいらないという場合には、丈夫な人には医者は必要とされないという事ですが、イエスを必要としない義人という人がいるのでしょうか。

 第一に、この世に義人がいるのかという事であります。パウロがいうように「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」というのが本当でであって、義人はこの世にいない、少なくともイエスを必要としない義人というような人がこの世にいるはずはないのであります。

 そうしますと、イエスが「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、」という意味は、義人は招く必要がないというのではなく、わたしは義人は招かないというイエスの強い意志表明、断言なのではないか。義人はわたしの所に来なくてもいいのだというような事ではなく、義人はわたしの所に来ても、わたしは受け入れない、わたしは断固拒否する、そういうイエスの強い意志をあらわした言葉なのではないか。
 
イエスはあのパリサイ人律法学者、自分を義人だと自任して取税人を見下げているパリサイ人律法学者に対して、どんなに厳しい言葉で、彼らを拒否しておられるか。義人が義人のまま、自分の正しさにあぐらをかき、自分は「見える」と言い張り続ける限りは、イエスは断固拒否するのであります。もしわれわれが義人のまま、自分の正しさをほんのちょっぴりでも、引きずってイエスの所にいこうとするならば、イエスから拒否されるのであります。

 「わたしが来たのは、義人を招くためではなく」というイエスの言葉は、非常に厳しい、非常に激しいイエスのわれわれに対する裁きの言葉なのであります。
 「わたしは罪人を招くために来たのである」とイエスは言われました。罪人とは誰の事でしょうか。罪人とはどういう人のことでしょうか。

 渡辺信夫という人が「罪人とは、キリスト以外からは受け入れてもらえない人のことだ」と定義しております。そしてこういうのであります。「罪人とは、わたしたちがよく言うように、神の前における在り方を抽象的に述べたものではない。どこへ出ても恥ずかしい人のことだ。だから、もしわたしたちが自分を罪人だといいながら、一面において、罪を自覚しない人たちに対する優越感を抱いているのならば、そのさい罪人という言葉は、パリサイ人がおのれを義としていたその義人という言葉と内容的には殆ど違わない。」というのであります。

 つまりあのイエスのたとえに出てくる、パリサイ人の姿、自分を義人だと自任し他を見下げているパリサイ人、「自分は一週間のうち二度断食しており、収入の十分の一を捧げています」と祈り、傍らにいる取税人に対して「この取税人のようでない事を感謝します」と祈っている人が、イエスから招かれる事を拒否されると同じように、自分はこの誇り高い義人、このパリサイ人のようでない事を感謝しますと、神の前で自分は自分の罪を知っていると少しでも誇る気持ちをもっているならば、もうその人はイエスが招こうとしている「罪人」ではなくなってしまうのだ、という事であります。

 そうかといって、何か大罪を犯した人が罪人でもないのであります。人を殺したりしないと罪がわからないというのではないのです。第一、人を殺したからと言って罪がわかるわけではないと思います。平気で人を殺すことのできる人は罪が一つもわかっていないから、人を殺せるのではないでしょうか。

 罪人とは、キリスト以外からは受け入れてもらえない人のことだという罪人の定義を心に刻んでおきたいと思います。
 自分の事を考えて見れば、われわれもまた、やはりイエス以外に受け入れてもらえなかった人間ではないでしょうか。世間の人がなんと言おうと、あるいは、あなたのような人がどうして教会に悔い改めに行く必要があるのですか、と言われるかもしれないし、そのように見られるかもしれないけれど、そういう見た目の世間の評価とは別に、われわれもみな、イエス以外に受け入れてもらえなかった人間ではないでしょうか。

 他人がどう思おうが、少なくとも自分では、自分はイエス以外に受け入れてもらえない人間だという事を自分自身よく知っているのではないでしょうか。そんな事を大きな声で証したりする必要はありませんが、自分ではその事をよく知っているのではないでしょうか。だからわれわれはこうして教会にきて、こうして日曜日ごとに礼拝をまもっているのではないでしょうか。そしてこのイエスの言葉「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」という言葉を本当に有り難い言葉だと思うのではないでしょうか。