「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」         二章一八ー二二節

 加藤周一という評論家がこの間ある新聞に、「宗教の役割」という題で文章を書いておりました。そこで彼が言っている事は、今日の社会的な問題のうち、深刻な問題として三つの問題を取り上げていて、この問題を解決するのに宗教の役割があるだろうというのであります。そしてその宗教は、今日はやりの新宗教などではなく、既成の伝統的な宗教、仏教やキリスト教に自分は期待するというのであります。

 三つの問題とは、一つはソ連邦の解体によって現実化してきた核兵器の拡散の問題、であります。今まではアメリカとソ連という二つの超大国によって、核兵器は抑止されて来た、しかし今はその抑止するたががゆるんだ結果、核兵器が色々な国に拡散される可能性が出てきた、この核拡散ということで、核使用問題が何時起こるかということが予測できなくなって、にわかに現実的な問題になったという核問題であります。

二つ目は、環境問題、オゾン層、森林破壊、核燃料廃棄などの諸問題であります。これは人類にとって深刻な問題になつている。

そして三つ目は、南北問題、南の国と北の国の生活程度の格差はますます拡大する傾向にある。この北側と南側の経済的軍事的な力の極端な不均衡は、テロリズムを引き起こす事は避けられないだろう。そして先進国がGNPの一%を政府援助資金に当てるということでは解決されない。北側の先進国での生活程度の何らかの切り下げを覚悟しなくてはならない。そういう政策に大多数の国民の賛同が得られるとすれば、それはその国民の物質的な消費に対する態度が根本的に変わったときであり、さらに利他主義、自分を利するのではなく、他を利するという意味ですが、その利他主義が社会の支配的な価値の一つとなった時だというのであります。
 
このような地球的な今日の問題は、もはや技術的な対策だけでは解決され得ない。世界の有力な国の価値体系が根本的に変わることが必要であるというのであります。

そしてそのような価値観の転換をもたらすものとして、伝統的な宗教である仏教やキリスト教に期待するというのであります。仏教やキリスト教には、その根本に利他主義の精神があ。社会が全体としてその方向を変えるためには、その支配的な価値、富と力が全てだという価値観を変えるためには、その力があるのは伝統的な宗教が本来備えていた価値転換のダイナミズムであって、それが何らかの貢献をなしえるのではないかというのであります。
 
今日の人類滅亡という危機を救い得るものは、今までの価値観を根本的に変えない限りもう駄目だというのであります。
 
もう一つ、最近見たテレビで考えさせられたものがありました。それはNHKのテレビで放映した「アインシュタイン・ロマン」という番組であります。アインシュタインはドイツに国籍を持つユダヤ人ですが、ドイツがヒツトラー政権になってからユダヤ人迫害が激しくなってアメリカに亡命するのです。アメリカが原子爆弾を作る計画を立てるわけですが、アメリカの政府は世界的な物理学者アインシュタイの名声を利用してこれを押し進めようとして、それに賛成する署名をさせるわけであります。それまではアインシュタインは平和主義者でその方面ては世界的に活躍していた。その人がそれに賛成する署名をした。

それを知ってロマン・ロランなどは大変怒るのですが、後に、敗戦後日本のある雑誌の編集長がアインシュタインに、「あなたのような平和主義者がなぜ原子爆弾を作る事に賛成したのか」と問いつめる手紙を書いて送りましたら、アインシュタインから大変激しい怒りの返事が来たというのです。アインシュタインは礼儀に反して、その人が送った手紙の裏側に返事を書いて来た。その様にして手紙を送り返して来たというのです。その返事には、人を批判する時には相手の事をよく調べてから批判すべきだと怒りをあらわにして書いてきた。自分が原爆をアメリカが作る事になぜ賛成する署名をしたかというと、既にドイツが原子爆弾を作る計画を進めていたからだ、ドイツよりも先に原子爆弾を開発していなかったら大変な事になると思ったからだと書いて来た。
 
そして平和主義者である自分が、戦争が許される条件として、このことを考えるといって、それはわたしに敵があって、その無条件の目的がわたしと私の家族を殺すことである場合だ、その場合には戦争をする事もやむを得ないというのであります。
 
わたしがそれを見ていて強く心に残った事は、アインシユタインが戦争の許される条件として示した条件のうち、わたしが殺されると言う事につけ加えて、わたしの家族が殺される場合という条件を示したという事なのであります。自分の家族の命を守るために、原爆の開発に賛成する書面に署名したという事、ただの数人の自分の家族の命をを守るために何十万人という命、いやこれからの事を考えてみれば、何千万人の命が危険にさらされる原爆の開発に賛成した。その破壊的な力は底知れないものがあると思いますが、それがただ数人の自分の家族の命守るためにという事で、署名したというアインシユタインの言い分であります。

勿論彼が署名しなくても原爆は開発されたわけですが、しかし彼の影響力は強いわけです。そしてこの自分の家族を守るためにという理由は、実に強力な理由になり得るという事を深く考えさせられたのであります。自分を捨てると言う事は案外できるかも知れない、アインシュタイン位立派な人ならばそれ位の覚悟はできるかも知れない、しかし家族のためにという事は実に強力な理由になる、多くの優れた人が、自分の命なら喜んで捨てる事のできる人が、この理由のために自分の信条を捨てる場合が実に多いと思うのです。そして権力者が人に転向を迫り迫害する時、一番有力な手段として用いるのが、この家族を迫害すると言う事であります。それは国家も、どこかのマフィアのボスも人をおどす時に用いる常套の手段であります。
 
自分が殺される覚悟は容易に、容易にではないかも知れませんが、それはできるかも知れない、しかし自分の家族が殺される覚悟ができるか。

 自分の家族を守るためにという考えを超えるためには、そういう価値観の変更を迫るもっと強い価値観が与えられないとこの問題は乗り越えられないのではないかと考えさせられたのであります。

 今日からイエス・キリストのご降誕を待ち望む待降節が始まります。イエス・キリストが来た事は新しい時代が来たのだと今日のテキストはわれわれに教えるのであります。新しい時代が来たのだから、新しい時代にふさわしい価値観をもって、新しい生き方をしなくてはならないというのであります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなくてはならないというのであります。古い着物を保持しようとして、新しい布切れでつくろうとしたら、その古い着物を裂いてしまうというのです。イエス・キリストによる救いとは、古い生き方の仕立て直しではないのだと、ある人が言っております。

 イエスがその事を言われたきっかけは、イエスの弟子が断食をしないという事からでした。当時のユダヤ人は、そして特に真面目なパリサイ人は週に二度断食していたのであります。またあのバプテスマのヨハネの弟子達も断食していたのであります。断食は人が信仰生活を維持し、また神に特別にお願いするためには必要ななくてならない事だったのであります。恐らく断食をしない信仰生活などは、不真面目な信仰生活に映ったに違いないと思います。

 それに対して主イエスは「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるだろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。」というのです。「断食はできない」と言うのです。「断食する必要がないではないか」というのではなくて、「できない」というのです。

 確かに婚礼の喜ばしい席で、料理が一杯でている席で、そして花婿と花嫁がうれしそうな顔をしている中で、断食をしたらおかしいのです。花婿に対して、自分を招待してくれた花婿に対して失礼にあたるのです。

 断食とはなんなのでしょうか。われわれにすぐ思い浮かぶのは、ダビデが神の裁きを受けて子供が病気になった時、その子供の命を助けて貰おうとして、断食をしたという記事であります。それはダビデの必死の悔い改めの姿勢だろうと思います。神様に対してこちらの誠意を示すという態度であります。それは祈りの具体的な姿勢であります。それは真剣な祈りの姿勢ですから、悪いわけはないのです。

しかしこの断食には、一つの危険な要素も含まれるわけであります。イエスがパリサイ人の断食を厳しく批判して、あなたがたの断食は偽善者の断食だというのです。断食をする時に、わさざわざ苦しそうな顔つきをしてする。自分はこんなに苦しんでいるんだ、こんなに悲しんでいるんだという事を神に訴えようとする、そうしますとその場合は、神の慈悲にすがるとか、神の愛に訴えるというよりは、自分の熱心さ、自分の誠意を押し出して、それを根拠にして神を動かそうとすることになるわけであります。神に頼るのではなく、自分はこんなに熱心に祈っているのに、あなたが聞いてくれないのはけしからんと、自分の義を主張する事に必死になるわけです。それはもう祈りとはいえないわけであります。それはもう神に従うというよりは、自分を主張して神を動かそうとする姿勢になってしまっているのであります。
 
それに対して、イエスは「花婿が一緒にいるのにどうして断食できるだろうか」というのであります。大切な事は、決定的な事は、そこに花婿がいるという事なのだ、その事実なのだと言う事なのであります。この花婿とは言うまでもなく、イエス・キリストの事であります。神の独り子であるイエス・キリストがこの世に来た、われわれを救う為に自らこの世に来たのだ、それならばわれわれはその事を信じ、受け入れ、もう自分に目を向けるのではなく、このかたに、このかただけに目を向けようではないかという事であります。

 婚礼の席に呼ばれて、花婿を祝おうとしないで、その婚礼に出かけていく自分の衣装は何にしようかと考えたり、その婚礼の席についていても、花婿など一つも見ようとしないで、自分の今日の衣装はどうだろうか、花婿の衣装よりもずっとセンスがあるではないかと、ひそかにほくそえむようなことをしていたら、どうでしょうか。それは花婿に対して失礼な事になるばかりではなく、そのように自分の事しか考えようとしていないという事はあまりにも情けない事になるのではないでしょうか。

 「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに断食できるだろうか。」というのです。ここの所をマタイによる福音書は「婚礼の客は、花婿がいるのに悲しんでおられようか」となっております。断食は、悲しいことなのであります。悲しみや苦しみから何か生産的なものが生まれるためしはないのです。その悲しみや苦しみから解放された時、その悲しみや苦しみが、喜びに変わった時に何かが生まれるのであります。

悲しみや苦しみからは、ただ憎しみとゆがみと復讐が生まれるだけなのではないでしょうか。確かに、多くの苦しみや深い悲しみは、その人を深いものにするかも知れません。苦しんだ人、悲しみの深い人の芸術は、厚みのある深い芸術作品を生みだします。何の苦労もない、人生の悲しみも痛みも味わった事のない人の作品は、音楽にしろ絵画にせよ、小説にせよ、うすっぺらなものになります。しかしその苦しみや悲しみが意味をもってくるのは、その苦しみや悲しみが何らかの形で解決されてからだと思うのです。喜びに変わってからであります。救われてからであります。
 
イエスは、花婿がいる時には、もう断食はできないというのであります。花婿がいない時、つまり神の存在とその神のみこころがはっきりしない時は、われわれは断食したりして、なんとかしようとするのです。そうしてはうっかりすると、偽善的になってしまったり、ただ自分を主張してみたりという事になるわけですが、花婿であるイエス・キリストがもういらしたのだから、断食は、そしてわれわれの律法的な行為は、必要がないばかりか、もうそんな生き方はできないのだというのであります。

 断食という行為は、律法主義を生み出す行為になりかねないのであります。そしてそれはやはり人間のわざが中心になるという事で、人間が中心になる思想であります。人間が中心になる思想という事は、自分が中心になる思想という事にどうしてもなっていくのではないでしょうか。そしてそれはアインシュタインの思想、自分の命と自分の家族の命を守るためには原爆もやむを得ないという思想につながっていくのではないか。

 イエスは、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう。」と言われたのであります。

 そして聖書には、神がアブラハムに対して、わが子イサクを燔祭として捧げよと命令する記事があります。これは家族の命を守るという事よりももっと大事な事がある事をわれわれに教えようとしていないでしょうか。

 先日ある人と話をしておりましたら、その人が子供の事で悩んで、ある人の所に相談しにいったら、こう言われたというのです。そのかたは仏教のかただそうですが、子供の事は長い目でみてあげなさい、場合によっては、この世を超えて、来世のことまでも含めて、長い目でみてあげなさい、と言われて、目が開かれたというのであります。

 われわれもまた来世の事までも含めて、つまりキリスト教的に言えば、終末のことまで含めて、自分達のことを考えていかなくてはならない。ただ自分達が生きていければいいとか、自分達が生きている間安全であれば、それでいいというのでは、環境問題は正しく解決されないのであります。人間の問題はただ人間の視点からだけでは、正しく解決されないのであります。イエス・キリストとその教え、そしてあの十字架の死と復活を真剣に考えたいと思うのであります。

 イエスは、しかし花婿が奪い去られる日が来る、その時には断食するだろう、と言われました。婚礼の席で花婿が奪われるなどと言う事は本当はありえない事であります。これはイエスの十字架の事を指していると思われます。その時は断食する事になるというのであります。そして事実初代教会においては、断食をしたようであります。しかしその断食はユダヤ教の断食と違って、このイエスの十字架を決して忘れてはならないという事のための記念のための断食で、自己修養とか、何かを祈るための断食ではないのであります。

 われわれにとって大切な事は、イエス・キリストという花婿がいましたまうという事なのであります。そのかたが十字架についてくださって、決定的に、愛の神の存在をあらわしてくださったという事なのであります。待降節に入って、しっかりと花婿であるイエス・キリストをお迎えしたいと思います。