「安息日の主はだれか」          二章二三ー二八節

 今日は待降節の第二の聖日を迎えております。
 主イエスが悪魔の誘惑にあって、それを退けてから、いよいよ宣教を開始する時、イエスは自分が育った故郷のナザレにまず出かけて行ったとルカによる福音書は記しております。その日は安息日でありました。会堂に入り、聖書を朗読した。その箇所は預言者イザヤの書でありました。そこにはこう書かれておりました。

 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、うちしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。」
 
そう書かれている箇所をイエスは朗読して、この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就したと宣言されたというのであります。イエスがこの世になんのためにいらしたかと言うと、貧しい人々に福音を宣べ伝え、囚人を解放し、盲人の目を開き、うちしがれている者に自由を得させるために来たのだというのであります。そしてその事を安息日の日に宣言したのであります。イエスは何のためにいらしたかを一言でいえば、人々に、特に、うちひしがれている人々に真の安息をもたらすために来たのだということであります。
 
 先ほど読みました聖書の箇所には、「わたしは安息日の主だ」とイエスは宣言したと記されてりおます。「安息日の主」だという事は、「わたしは真の安息をあなたがたに与えるために来たのだ」と言う事であります。真の安息とは何でしょうか。われわれがすぐ頭に浮かぶ事は、まず静けさという事だろうと思います。騒がしくない、静かであること、そこに安らぎあり、安息があると思うのであります。イエスがこの世にいらした様子を、同じようにイザヤ書を引用してこう記している所があります。

 「彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、傷められた葦を折ることなく、煙っている灯心を消すこともない」というのであります。しかし実祭のイエスはどうだったでしょうか。イエスは争わなかったでしょうか。叫ばなかったでしょうか。そんな事はなかったのであります。イエスは激しく争ったのであります。あのパリサイ人、律法学者とあんなに激しく争ったのであります。そうでなければイエスは殺されはしなかったのであります。争ったという事は、時には大きな声で叫んだという事であります。イエスは人々に真の安息を与えるためには、ある時には激しく争い叫ばなくてはならなかったのであります。戦わなくてはならなかったのであります。

 イエスはわれわれに真の安息を与えるためには、本当に激しい戦いをしなくてはならなかったのであります。誰と争わなくてはならなかったのか。それは強い人、権力をふりまわす人々と争わなければならなかったのであります。

 ある安息日にイエスと弟子達は畑の中を通っていました。その時弟子達は歩きながら、麦の穂を摘み始めて、それを口にしたのであります。弟子達はイエスの宣教活動について歩いていて、疲れ果て、お腹もすいていたのだろうと思われます。それで畑の中を通りながら、麦の穂を摘んで、口にして、お腹をみたそうとしていたのであります。それをパリサイ人たちが見ていて、イエスを非難した。「あなたの弟子達は安息日にしてはならない事をしています。」するとイエスはこう言ったというのです。「あなたがたはダビデとその供の者たちが食物がなくて飢えていた時、ダビデがなにをしたか知らないのか。大祭司アビヤタルの時、神の家にはいって祭司たちのほか食べてはならにない供えのパンを自分も食べ、供の者たちにも与えたではないか」というのであります。

 この記事は旧約聖書のサムエル記にありますが、そこでは祭司アビヤタルではなく、祭司アヒメレクになつております。これはマルコの記憶違いだろうと思われます。この時ダビデはまだイスラエルの王になっていなくて、サウル王に命を狙われて、供の者数人と逃亡生活をしている時のことであります。その時食べる物がなくなってダビデは困って、祭司の所にかけ込んで助けを求めたのであります。ダビデは自分の飢えという事もあったかも知れませんが、サムエル記を見ますと、自分のためといういうよりは、自分の供の飢えをなんとかして満たしてやりたいと思って、祭司しか食べてはならないパンを供のために手にいれてあげたのであります。

 イエスはその例を引いて、だから安息日と言えども、お腹がすいているいる時には、麦の穂を摘んで腹を満たす事はさしつかえないではないか、というのであります。
 そしてこういうのであります。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」
 
 イエスがわざわざ旧約聖書の中のダビデの話を引用するのは、律法とか法律とか規則というものには、例外というものがあって、特例というものがあるのだ、例外のない規則はないのだという事を言うためなのでしょうか。イエスはそんなわかりきった事、平凡な事を言うためにわざわざ聖書を引用したのではないと思います。そうではなくて、そもそも安息日とはどういう日なのか、そもそも神がわれわれに与えた律法とは何のためにあるのか、そのことを聖書を通して教えるために、聖書を引用したのであります。

 「安息日は人のためにあるのだ」という時の「人のため」とは、どういう人のために、という事なのでしょうか。それはここの文脈で言えば、おなかをすかして飢えている弟子達のためにという事であります。さらにひろげて言えば、この世で疲れはて、飢え苦しみ、うちひしがれている人々、囚われている人々、貧しい人々、そういうこの世で苦しんでいる人、虐げられている人、そういう人々のためにということであります。

 ダビデはお腹をすかして飢えている供の者たちになんとかしてパンを与えたいと思って、祭司しか食べてはいけないとされているパンを手にいれようとしたのであります。そしてそれと同じように、イエスは伝道旅行で疲れ、飢えている弟子達のために安息日といえども、麦の穂を摘むという事を許しているのであります。この安息日こそ、そのように飢え、疲れ果てている人に真の安息を与える日だとイエスは考えているのであります。

 イエスが言う「安息日は人のためにあるのだ」というこの「人」とはまず何よりも、弱い人、貧しい人、捕らわれている人、盲人、うちひしがれている人の事をさしていると考えなくてはならないと思います。そうでないと、安息日は人のためにあるんだ、人が安息日のためにあるのではない、という事をただ常識的にとって、律法というのは人間のためにあるんだ、律法のために人間があるのではないのだから、われわれは律法にしばられる必要はないのだ、もう少し律法に対しても自由にふるまっていいではないか、という事になって、律法も結局は自分の都合のよいようにどんどん解釈して、すべてを特例にして、例外ばかり作って、自分のいいようにこれを利用するという事になりかねないのであります。

 それでは、二八節にある「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」という「それだから」という意味がよくわからなくなってしまうのではないかと思うのです。「それだから」というのは、何故「それだから」なのでしょうか。安息日は、弱っている人、疲れはてている人に、安息を与えるためにある。人の子としてこの世に来たわたしイエスもまた、あのダビデと同じように、疲れはてている人、重荷を負うて苦労している人のためにこの世に来たのだ、それだから人の子であるイエスは、安息日の主なのだ、安息日をもっとも正しく用いることができるという意味で、イエスは安息日の主なのだということなのではないかと思います。

 あの十戒にある「安息日の律法」には何がいわれているのか。出エジプト記の二十章にこう言われております。
 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」

 同じ事が申命記五章にはもう少し明確に記されています。
 「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにいる他国人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。あなたはかってエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命ぜられるのである。」

 つまり、安息日に一番休息をとらせなくてならない人は、使用人なのであります。奴隷なのであります。
 よく昔の外国映画でみましたが、日曜日になりますとみんなで教会にいくわけですが、そのために召使いとか奴隷に子どもの面倒を見させて過重な負担をかける、日曜日の礼拝で一番恵みを受けるのは主人一家で、というのでは、安息日の過ごしかたとしては、もっとも悪い過ごしかたという事になるのではないかと思います。
 
 安息日は人のためにある、人が安息日のためにあるのではない、というのは、まず第一に、安息日はふだん虐げられている人、重荷を負うている人、そういう人々のためにあるという事なのではないかと思います。ところが、当時のパリサイ人はまるで秘密警察のように、安息日には何歩以上歩いている人はいないか、労働している人はいないか、そんな事ばかりを監視しているのであります。重荷を負うて苦労している人に休ませようとは一つも思わないのであります。

 「安息日にはなんのわざをもしてはならない」というのです。われわれのわざとはなんでしょうか。それはよく考えてみれば、人をこき使い、人に過重な負担をかけさせるわざと言えないでしょうか。日本人の働きすぎが問題になっておりますが、今日の日本の会社がどんなに人々をこき使い、そして弱い立場にある人々をこき使っている事か。そして東南アジアの人々の環境を破壊し、そのために働きすぎていることが今問題になっつているのであります。
 
それがどんなに真剣な真面目なわざであったとしても、あるいは社会奉仕というわざであったとしても、人間のわざには、どこかひとりよがのところがあって、知らず知らずのうちに、人を傷つけたり、裁いたり、過重な重荷を与えているのではないでしょうか。真面目であれば真面目であるほど、その人の行為と発言がどんなに周囲の人々に重荷を与え、裁いてしまっている事か。「安息日にはなんのわざもしてはならない」という事のうちには、われわれが考えるよいわざ、正しいわざも含まれているのではないか。

 この次の日曜日に学びたいと思っております箇所ですが、そこでは、安息日をめぐってのイエスとパリサイ人たちとの論争がありますが、そこではイエスはわざと安息日に片手の不自由な人の手をいやしてあげて、パリサイ人に挑戦するのですが、その時イエスは、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言っております。そこではイエスは安息日には善を行わなくてはならないと言っておりますが、それはイエスだからそう言えるのであって、イエスの行う善にはなんの心配もないのですが、われわれ人間が考える善の中にはどこかひとりよがりのところがあって、そんなに手放しで、これはよい事だから、日曜日にでもばんばんやりましょうと言えるかどうかであります。それがどんなに立派な仕事であったとしても、七日目ごとに、自分の仕事を中断する勇気を持たなくてはならないと思います。

 この世の法律も、もともとは弱い立場にある人のために造られたのではないでしょうか。弱い人の立場にある人の権利を守るために、強い人の力を抑え、強い人の自由を制限するために法律は作られていったのではないでしょうか。強い人は法律がなくてもやっていけるし、自由なのであります。しかし弱い立場にある人は法的に守られないと、自由はどんどん侵害されていくからであります。
 まして神がわれわれに与えられた律法こそ、強い人の立場を抑え、弱い立場にいる人の権利を守り、自由を守ってあげるためにあるのではないでしようか。そのために人間の傲慢さを戒め、人間のわがままを抑える律法を神はわれわれに与えられたのであります。

 安息日には人間のわざをすべて休まなければならないのであります。しかしそれだけで、自分のわざをやめられるか、人間の傲慢なわざ、ひとりよがりのわざをやめられるか、また月曜日からは同じわざを繰り返すことにならないか。人間のわざをやめるためには、神がわれわれにどのようなわざを望んでおられるかを静かに聞かなくてはならないのではないか。そのためにわれわれは日曜日ごとにこうして礼拝をまもって、聖書の言葉を聞こうとしているのであります。そうしてこの世を造りたもうたかたがいましたまうという事、人間がこの世を造ったのではない、人間がこの世界の、この宇宙の主人公ではない、造り主なる神がいまし給うことを肌で感じるためにこうして礼拝をしているのであります。

 主イエスが安息日の日に、イザヤ書を引用して、「主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれことを告げ知らせ、うちひとがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」と宣言された事を心にとめたいと思うのであります。