「悪霊を追い出す権威」 マルコ福音書三章一三ー二七節

 イエスは十二人の弟子を選びました。それは宣教に遣わすためでありました。そのためには、イエスはその十二人をなによりもご自分のそばに常に置こうとしたのであります。イエスと共にいようとする人が、福音を正しく宣べ伝えることができるのであります。
 竹森満佐一が説教の中でこう言っております。

「キリストといつでも一緒にいるということが、はっきりしない者がどうして、キリストの証人になれるか。われわれはキリストに救われて、キリストのために働くという人をよく知っているけれど、その人たちの中に、残念ながら、いつでもキリストと共にいると思えない人がある。いつでもキリストと共にいる、これはその人がとうも性格がおかしいとか、あるいは、その人の生活に欠陥があるというようなことではなくて、どのように強い人であり、何の欠陥もない人であっても、いつでもキリストと一緒にいる、ということがはっきりしていない人は、キリストを証しすることはできないのである。他の事はできるかも知れない。雄弁に語ったり、人に教えたり、何かすばらしい事をすることはできるかも知れない。しかし、キリストを証する、キリストを人に示すという事は、できるはずがない。したがって、まず、いつでもキリストと一緒にいるために、キリストがこの十二人をお選びになったと言う事は、非常に大事な事である。」
 
宣教するとか伝道するという事は、自分はキリストに救われて、こんなに強くなったとか、病気がなおったとか、真面目になったとか、というように、キリストに出会って自分が変えられた事を証しすることではなく、自分のことを証しすることではなく、キリストと共にいる生活がどんなに力強いか、どんなに安心がいくことか、正しいことかを証しすることなのであります。それはキリストを証しするのですが、キリストを証しするという事は、キリストと共にいる生活を証しするということでもあるのであります。

 ある人と共にいる事の楽しさ、力強さを証しするのであります。それは逆に言いますと、自分は一人では生きて行けないという事をあらわしていくという事であります。人を感心させるような自分の立派さとか強さを証しすることではなく、「共にいる」楽しさと力強さを証しするのであります。

 イエスは十二人の弟子に、「悪霊を追い出す権威」を授けられました。イエスは宣教の内容の一番大切な事として「悪霊を追い出す」という事を考えているのであります。イエスは弟子に対して、奇跡を行う力を授けたのではなく、「悪霊を追い出す権威」を授けたのであります。

 悪霊とは何でしょうか。イエスが病人をいやしたり、悪霊に憑かれた人をいやしたりしていますと、エルサレムから律法学者たちが来て、イエスに対して、「イエスはベルゼブルにとりつかれている。」と言ったというのであります。また、「イエスは悪霊どものかしらによって悪霊を追い出しているのだ」とも言ったのであります。ベルゼブルというのは、悪霊の親分、悪霊のかしらのようであります。

 聖書の記事の中の悪霊につかれた人の様子を見ますと、何か今日でいう精神病になった人のように感じられますが、そういう精神病を治す力が弟子たちに与えられたというのではないのであります。悪霊とは、神に反対する力という事であります。人は病気になりますと、もう駄目だと絶望してしまう、神も仏もあるものかと自暴自棄になってしまう、神を信じられなくなってしまう、そうさせるのが悪霊の力であります。

 イエスは多くの病人をいやし、今日なら精神病といわれかも知れない、悪霊に憑かれた人をいやしながら、ただ病気をいやしたり、精神病を治したりしたのではなく、それらの人がそうした病気を通して、神を信じられなくなっている姿を憐れみ、もう一度神がいまし給う事を信じさせようとしたのであります。

 ですからイエスは病気をいやしながら、いつも悪霊と闘っていたのであります。悪霊と対抗しながら病気をいやしていたのであります。

 そのことをイエスは、こういう「たとえ」で語っております。
「だれでも、まず強い人を縛り上げないと、その人の家に押し入って家財を奪いとることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。」イエスからみると、人間はみな悪霊という強い人に縛られている状態なのであります。特に病気になった人とか、悪霊に憑かれた人はそうなのであります。なぜなら、彼らはみな何か望みを失っているところがあるからであります。

 人間の不幸とか悲惨は、聖書の考えからいきますと、人間の罪が原因だということになります。そういう意味では、人間の責任であり、われわれ人間は加害者なのであります。しかし、聖書は同時に、人間の魂は、悪霊という強い者に縛られている状態なので、そういう意味では、人間は不幸な被害者なのだと言うのであります。

 聖書の最初の罪の物語は、アダムとエバが禁断の木の実を食べた所から始まるわけですが、それはヘビが女を誘惑する所から始めていくのであります。アダムとエバが何か自分から罪を犯し始めたわけではないのであります。

 ですから、人間の罪の背後には、いつもこのヘビの誘惑、つまりサタンの誘惑がある、と聖書はみているのであります。われわれは罪を犯す時は、何か自分が一番やりたい事をやってやるんだという気負いのようなものがあります、罪を犯す時は何か自由を感じるのではないでしょうか。しかし罪を犯してしまった後は、なにものかにそそのかされてやってしまったという気持ちをもつのではないでしょうか。 パウロの嘆き、「私の欲する善はこれを為さず、欲しない悪がこれを為してしまう」という嘆き、「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだから自分を救ってくれるだろうか」というパウロの告白は、よくわかるのであります。人間は罪を犯すという事から言えば、加害者ですが、罪を犯すようにそそのかされてしまうという意味から言えば、被害者なのであります。その惨めな人間を救う者は自分の中からは現れないのであります。よし、もうこんりんざい罪は犯すまいと決心一つで罪から脱却することはできないのであります。誰か、悪霊に対抗できる本当に強いかたが現れて、わたしという家に押し入ってわたしを虜にしている強い人を縛りあげてくれないと、わ れわれは罪から解放されないのであります。

 悪霊の特徴は、自分ひとりでは存在できないということのようであります。悪霊はなにものかを住まいとして、そこに寄生虫のように寄生して始めて生き延びるようなのであります。イエスによって悪霊に憑かれたものがいやされた記事の中で、イエスから追い出された悪霊は、自分たちを豚の中に住まわせてくれと懇願したという話があります。またいったんは人から追い出された悪霊、汚れた霊はどこか住む場所はないかと、休み場を求めて、水のない所を歩きまわるが、なかなか見つからない、それでもといた場所に戻ってみると、その人間の魂はそうじがしてあって、かざりつけがしてある、それでこれは住みごこちよいと思って、他の七の霊を引き連れて再び住み着いてしまったという話があります。悪霊は自立できないで、どこかに寄生しないと生きていけないものとして描かれております。そういう意味から言えば、悪霊は自分の姿をいくらでも変えて、人間の中に住み込もうとするのであります。

 イエスの生きていた時代には、それこそ悪霊は何か幽霊のようなそこいらへんをうろうろ歩き回っている存在、目にみえるような存在として感じられていたのではないかと思います。そういう感じかたは、あの宗教改革者ルターの時代でもあったようで、その時代も悪霊はそのようにリアルな存在として信じられていたようであります。ルターがある時、書斎で聖書の勉強していた時、悪霊を見つけて、インク壷を投げて、それが壁にぶつかって、壁にインクが染みついた、そのシミが、今でもルター記念館に残っていて、これはルターが悪魔にぶつけ時についたシミであるという説明がついているそうであります。

 今の時代には、悪霊の存在をそのような形で考える事は無理があると思います。しかし何か人間を狂気にかりたてる存在として、われわれはやはり悪霊の不気味な存在を感じざるを得ないのではないでしょうか。科学的な考えが発達している今日、依然としてというよりは、ますます占いとかオカルト的なものがはやっているというのは、昔の人の感じ方とは形を変えているかも知れませんが、悪霊の存在を無視できないという事であります。

 イエスは弟子達に「悪霊を追い出す権威」を与えたのであります。悪霊を絶滅させる力を与えたわけではないのであります。悪霊を絶滅させようと思う必要はないのです。悪霊を自分から追い出せばいいのです。イエスの語ったたとえに、良い麦と毒麦のたとえがあります。良い麦だけを蒔いたつもりが、いつのまにか毒麦が生えていた、それでしもべが主人に「毒麦を全部引き抜いてしまいましょうか」と主人に言いますと、主人は収穫の時までは、そのままにしておきなさい、毒麦を抜こうとして良い麦まで抜いてしまう事になるかも知れないから」と言われたのであります。つまり、毒麦を根絶させるのは、神がなさる事なのである、神が終末の時になさるので、われわれ人間が毒麦を根絶してしまおうなどと思いだすと、自分が正義の味方だなんていって、勢い込んで、悪霊刈りを始めて、いつのまにかその悪霊刈をする本人が、悪霊に住みつかれて、悪魔に乗っ取られてしまうという事であります。悪霊を根絶するのは終末の時、神がなさる、神だけがすることができるのであって、われわれ人間はただ、悪霊を追い出すことができるだけなのであります。ですから、追い出すだけなので、根絶する わけではありませんから、われわれが少しでも油断していれば、いつでも悪霊はまたわれわれの心の中に住みついてしまうという事なので、悪霊との闘いはわれわれの生涯の闘いになるという事であります。
 
 そして、イエスは弟子達に、悪霊を追い出す「権威」を与えたのであって、悪霊を追い出す「力」を与えたわけでもないのであります。

 この事を説明してある人がこう言っております。
「ここに力が与えられた、と書いてないことが、おもしろい。われわれは伝道に出かけて、この世と戦って、すぐに勝てるような力が、自分に有るわけはない。悪霊に勝つ権威がわれわれに与えられているのだ。人の前に立って、神の方がほんとうなのだいう権威が、われわれに与えられているのだ、力はないも知れないが、権威はあるのだ。そしてその権威のゆえに、力があたえられたのだ」というのであります。

 力と権威とどう違うのか。たとえばわれわれは死に打ち勝つ権威を与えられているのであって、死に勝つ力が与えられたわけではないというように考えたらわかるのではないでしょうか。われわれは信仰を与えられたからと言っても、死なない力が与えられたわけではない、みな死ぬのであります、しかしその死ぬ時にも、死の恐怖に、死の不安に襲われぱなしではない、その死に際しても神に祈り、神の助けをかりて、自分の死を神に委ね、そんなにじたばたしないで死を迎えられるかも知れない。見た目にはわからないかも知れない、他人がみたら信仰をもっている人も持たない人も同じようにあわてふためいているように見えるかも知れない、しかし死んでいく本人の心の奥底には、やはり人知ではとうてい測り知れることのできない神の平安がその人を包んでいるのであります。 それが死に勝つ権威が与えられているという事であります。

 腕力には、腕力のケンカには負けるかも知れない。しかし負けても毅然としていられる、それが権威をもっているということではないかと思います。それが力はないけれど、権威が与えられているという事ではないかと思います。

 われわれがキリストから与えられたのは権力ではないのであります。権威なのであります。悪霊を根絶してしまう権力を与えられたわけではないのであります。悪霊を追い出し、たとえ悪霊がそのへんをうろうろしていてもそれに毅然として立ち向かう権威を与えられているのであります。

 それはパウロがいうように、「この宝を土の器の中にもっている。そのはかりしれない力は神からのものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためなのだ」ということであります。そういう形で、悪霊を追い出し、悪霊に打ち勝つ権威を与えられているのであります。だから四方から患難を受けても窮しない、倒されても転んでも、それにうち勝つ権威を与えられているのであります。自分の力によってではなく、あのイエス・キリストの十字架と復活において示されたキリストの勝利によって示された権威と力、それによってわれわれも悪霊に打ち勝つ権威を与えられているのであります。