「ゆるされない罪」 マルコによる福音書三章二八ー三○節

 イエス・キリストは、すべての罪は赦されると言われました。しかしただ一つ赦されない罪があると言われました。それは「聖霊を汚す罪」だと言われたのであります。「聖霊を汚す者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。」と言われたのであります。
 そのようにイエスが言われたのは、律法学者たちが「イエスは汚れた霊につかれている」と言ったからであります。イエスが病人をいやしたり、悪霊にとりつかれている人間をいやしていますと、律法学者たちがやって来て、イエスは悪霊の頭、ベルゼブルによって、悪霊を追い出しているのであって、イエス自身が汚れた霊にとりつかれているのであるから、悪霊を追い出しているからと言って、なにもイエスを神の子だとか、メシヤだとかいって、崇める必要はないと言ったのであります。

 彼らもイエスが病人をいやしたり、悪霊にとりつかれている人間から、その霊を追い出し、その病をいやしてあげている、その事実は否定しようがないわけであります。しかしその事実を冷ややかにしか見ようとしないのであります。イエスは神の愛をもって、病人をいやし、霊につかれた人をいやしているのであります。しかし律法学者たちは、その神の愛を皮肉るのであります。神の愛に対して、真っ向から立ち向かうのではなく、あれは悪霊のしわざと言って、皮肉るのであります。皮肉るというのは、愛に対して一番失礼な態度なのではないでしょうか。
 
この律法学者の姿勢、「イエスは汚れた霊につかれている」とイエスの愛の行為を皮肉る彼らの姿勢は、イエスの言われた言葉、「よく言い聞かせておくが、、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も赦される」という、赦される範囲のイエスに対する罪なのか、あるいは、この事がそのまま、「聖霊を汚す」という罪になるのか、はっきりしないのです。ただ少なくともわかる事は、そのようにしてイエスに示される神の愛を受けとめず、それを皮肉るという姿勢は、聖霊を汚す罪につながる、それ故に、赦されない罪を犯す事になるという警告の言葉であることは確かだと思います。

 この「聖霊を汚す者」という元のギリシャ語は、「聖霊を汚し続ける者」という意味を含んだ動詞が使われているとある人が指摘しております。ですから、イエスはこの律法学者に対しても、あなたがたがその様に、神の愛を素直に受け入れず、皮肉る態度を取り続けるならば、という警告をしたのだと言えるのかも知れません。

「聖霊を汚す罪」というのはなんなのでしょうか。そもそも聖霊とはなんなのでしょうか。聖霊とは、われわれに働きかける神の霊であります。神がなんとかしてわれわれを救おうとしてわれわれに働きかける神の愛であります。その聖霊の働きと導きで、われわれは「イエスはキリストである」と告白できるのだと聖書はいうのであります。(コリント第一の手紙一二章三節)
 
聖霊とは、われわれに働きかける神の愛であり、神の赦しの宣言であります。それをわれわれが拒否し、皮肉っていいのか、という事であります。

 つまり、神はすべての罪を赦してくださるのであります。それを神は主イエスの十字架において示してくださったのであります。主イエスはあの十字架の上で、自分を十字架にかけた人々に対して「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからずにしているのです」と祈っているのであります。ですから、あのイエスの十字架によって赦されない罪はないのです。すべての罪は赦されるとイエスは言われるのであります。しかし、ただ一つどうしても赦されない罪があるとすれば、それはその罪の赦しを受け入れようとしない人、それを皮肉り、それを信じようとしない人、神の赦しを否定しつづける者、聖霊を汚し続ける者、その人を神は赦す事はできないと言われるのであります。

 イエスはある時、ペテロが「人が罪を犯した場合、何度ぐらいまで赦さねばなりませんか。七度までは赦さねばなりませんか」と尋ねたのに対して、「七度までとは言わない。七度を七十倍するまで赦し続けなさい」と言われたのであります。そこでもイエスは、罪は赦し続けなさいと言われたのであります。それは、ある意味では、すべての罪は赦される、という宣言であります。

 しかし、おもしろい事に、そのイエスの、すべての罪は赦し続けなくてはならないという話の締めくくりの話は、ただ一つ赦されない罪があるという話で終わるのであります。 イエスは、罪は何度でも赦し続けなさいと言った後、こういうたとえ話をするからであります。

 「ある人が一万タラントの借金があって、それが返せなかった。待ってくれるように主人に懇願した。最後に主人は哀れに思って、その一万タラントをまるごと棒引きにして、赦してくれた。ところが、彼はその帰り道、自分が百デナリ貸している男に出会った。借金を返せと迫った。その男は百デナリの借金を返せなかった。彼はその男を訴え牢屋に入れてしまった。その事が一万タラントをゆるしてあげた主人の耳に入った。主人は大変怒り、その一万タラントの借金の棒引きを取り消して、彼を牢屋に入れてしまった」というのであります。

 そしてイエスは言うのであります。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」

 この主人とは、神のことで、一万タラントの借金のある者とは、われわれの事ですが、神によって罪赦されたわれわれが、人の罪をゆるせないならば、その罪の赦しは取り消されてしまうというのであります。

 七度を七十倍するまでに人の罪をゆるしなさいと言われたイエスが、ただ一つ自分にも赦せない罪があるというのであります。それは何かというと、罪赦された人間が他の人の罪を赦そうとしない時、その人をイエスは赦せないというのです。何故なら、それはその人が神の罪の赦しをまともに受けとめていないからであります。神の罪の赦し、あの無条件の罪の赦しの宣言を真剣に信じていないからであります。

 彼は一万タラントの借金がそのまま棒引きに許された時、ただ、しめたと思っただけなのではないでしょうか。もうけものをしたと思っただけなのではないでしょうか。そこには何の感動も感謝もない。少しでも感動があれば、感謝があれば、少なくともその帰り道、百デナリを貸している人間をそれが返せないからと言って、牢屋にぶち込むことなどできなかっただろうと思います。

赦しと言う事、それを赦しとして正しく受けとめるという事が、どんなに難しいことかという事であります。神の恵みの赦しを信じるという事がどんなに難しいことかという事であります。
 
 パウロが、あのイエスの十字架による無条件の一方的な罪の赦しを言いますと、それを信じない人々が、そんなうまい話はない、それならば「恵みが増し加わるために、もっと罪を犯しつづけようではないか」とパウロを皮肉ったというのであります。それに対してパウロは、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その罪の中に生きておれるだろうか。」というのであります。それはパウロにしてみれば、キリストに出会い、キリストから罪の赦しの宣言を聞くまでは、あんなに悪戦苦闘して罪と戦い、しかもその罪をどうしても克服できなかった自分が、そしてキリストにお会いしてようやくその罪から脱却できた自分が、また再びなお罪の中にとどまるなんて事は考えられないという事であります。

 ですから、この神の罪の赦しの有り難さ、その恵みの深さを自分のものとして受けとめるためには、自分の罪を自分ではどうにも克服できなかった、このしぶとい自分の罪はただ神によって赦される以外になかったという自覚がなければならないのであります。そうでなければ、この無条件の罪の赦しの宣言を正しく受けとめる事はできないのであります。

 少しでも、自分の罪は自分でなんとかできるとか、悪い事もしているけれど、それに見合う善い事だってしていると考えたり、これから少しでも良い事をして償いをすれば、自分の罪は帳消しになるのだ、そっちの方が他人のお情けにすがる道より、よほど確かだと考えている人には、この十字架による罪の無条件の赦しは正しく受けとめられないのではないと思います。

 聖霊を汚す罪は赦されないというのは、神のこの無条件の罪の赦しを信じない人、その神の愛を皮肉り、神の愛を信じようとしない人は赦されないという事であります。

 聖書に、聖霊を汚した人間が出て参ります。それは使徒行伝にあります、アナニヤとサツピラの記事であります。初代教会に於いては、始めの内は、信じたものの群れは、心を一つにしてだれひとりその持ち物を自分のものだと主張するものはなく、一切の物を共有にしていたというのであります。地所や家屋をもっている人たちは、それを売り、売った物の代金を持ってきて、使徒たちの足元に置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにも分け与えられたというのであります。皆神の恵みを信じて、大きな恵みが彼ら一同に注がれていたというのであります。神の恵みが一同の上に注がれている事を信じられていたのでそうした事ができたというのであります。

 ところが、アナニヤはその妻サツピラと共謀して、その資産を売り、その売った代金をごまかして、その一部だけを使徒たちの足元に置き、後は自分たちの懐に入れて置いた。そのことがペテロたちに知れ、ペテロからこう言われたのであります。
「アナニヤよ、どうしてあなたは自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものになり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と、ペテロから激しく叱責されて、アナニヤはこの言葉を聞くと倒れて息が絶えた。そのようにして夫が死んだことを知らない妻サッピラが来た時、再びペテロが「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」と聞きますと、妻のサッピラがそうです、と答えた。すると、ペテロが「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事か。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足がそこの門口に来ている。あなたも運び出されるであろう」と言いますと、たちまちサッピラも足元に倒れ、息が絶えてしまったというのであります。
 教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みなひじょうなおそれを感じたというのであります。

 勿論これはそのままこの通りの事があったわけではないでありましょう。これと似たような出来事があって、それを元にしてこのような伝承が伝えられていたのだろうと思います。

 それにしても、ここでは二度にわたって、「聖霊を欺き」「主の御霊を試み」と聖霊を汚すと言う言葉が用いられているのであります。
 アナニヤとサッピラは、自分たちがお金を教会に献金したくなければ、しなければよかっのであります。家屋地所を売ってそれを教会に寄付し、貧しい人を助けるという事は、決して強制されている事ではなく、全くの自由意志なのであります。人間はあっさりしている人もいれば、物に執着する人もいるし、自分の全財産をあっさりと捧げられる人もいれば、それがなかなかできない人だっているわけです。何の苦労もなく育った人はあっさりと財産を捧げられかも知れませんが、お金に苦労して苦労して育った人、その様にして財産を築きあげた人は、そう簡単には自分の財産を捧げられないかも知れないのであります。それならばそれでいいのです。みな自分の達し得た信仰の歩みに従って歩めば、それでいいのであります。自分の与えられた恵みの量りに従って、慎み深く生きればいいのであります。それが神の恵みを信じて歩むと言う事であります。それが神の恵みと神の赦しを信じて歩むという事であります。

 それなのに、アナニヤとサッピラは、その神の恵みと神の赦しを信じていなかった。そうはいってもここは、自分達の全財産を売って、それを教会にすべて捧げましたという事にしておかないと、みんなからなにを言われるかわからない、と思ったのであります。神の赦しを信じて生きるよりは、この世の常識、この世のこざかしい知恵の方を信じて生きたのであります。この世の生き方を、神の恵みが、神の恵みだけが支配しなくてはならない教会の交わりの中に、持ち込んだのであります。それが「聖霊を欺き」「主の御霊を試みる」こと、聖霊を汚すという罪になったのであります。

 すべての事は許されているのであります。それはこの私の今までの罪の歴史もゆるされているということなのであります。人はみなキリストに救われるまでは、罪の歴史、罪の生活を背負っているのであります。自分というものを背負っているのであります。みなそれぞれ違うのです。救われて、神に赦されて生きるという事は、ゼロから出発する事ではなく、みなそれぞれの自分の過去を背負いながら生きるという事なのですから、それが赦されたということなのです。そのままでいいから、その自分を背負いながら、わたしについて来なさいと言われているのですから、信仰生活の歩み、その信仰のあらわしかたはみな違うはずなのであります。

赦されているという事は、私の個性が赦されているという事なのであります。そういう自分の個性をごまかさずに、それを背負いながら、キリストに従っていけばいいのであります。常に、自分の達し得た信仰に従って歩んでいけばいいのであります。何十年と自分が生み出して来た自分の罪の垢、自分という個性の垢をそんなに一気に脱ぎ捨てるなどという事はできないのであります。
 神の赦しを信じて生きるという事は、「それでもいい、わたしがお前の汚れた足を洗ってあげるのだから、それでもいいからわたしの赦しを信じてわたしについて来なさい」という主イエスに従っていくという事なのであります。

アナニヤとサッピラは、その神の恵みと神の赦しを信じられなかった。そのために偽善的になってしまった。教会の中にこの偽善的なものが入り込んでしまいますと、一番教会を汚していくことになるのであります。何故ならわれわれが偽善的になるのは、神の恵みと神の赦しを全面的に信じない所から起こる事だからであります。
全ての罪、どんな罪でも赦されるというのであります。しかし聖霊を汚す罪だけは赦されないというのであります。
 
聖霊を汚し続ける罪だけは赦されないというのです。一度や二度、神の赦しを全面的に信じられないで、聖霊を汚すことはあるかも知れません。しかし、聖霊を汚し続ける罪だけは、犯さないようにしなくてはならないと思います。