「真理の力」         四章二一ー三四節

 イエスが種まきのたとえをいたしますと、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらのたとえについて訊ねました。そうしましたら、イエスはこう答えるのであります。「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてがたとえで語られるのだ。」そう言われて、イエスは預言者イザヤの書を引用し、「それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである。」と言われたのであります。
 
人々にはわざと分からなくさせるために、たとえで福音の真理を語ったのだというのであります。この引用されたイザヤ書の言葉は、イザヤが神から預言者として召命を受けて、これから神の真理をイスラエルの民に告げなさいと言われ、その一番最初にイザヤが語った言葉なのであります。

 「イスラエルの民にこう言え」と神から言われたのであります。
 「『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』」と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである。」(イザヤ書六章九ー)

 イザヤという預言者は始めから、「お前が神の言葉を語っても、民は受け入れないぞ、お前が真理を語っても、民は悔い改めないぞ、なぜならわたしが、神が、民の心をかたくなにし、神が悔い改めないようにさせるからだ、」といわれて、召された預言者だったのであります。われわれは、預言者というものは、人々に悔い改めを迫るために神から遣わされるのだとばかり、思っておりましたが、ここでわかる事は、人々が悔い改めないことが始めから分かっていて、それでも神の言葉を神の真実を語らなくてはならないという使命のために、遣わされる預言者もいるのだということであります。真理というのは、人々に受け入れられてこそ真理なのでありますが、しかし真理といわれるものの中には、人々に受け入れられず、拒否されて、かえってその真実性が発揮される真理だってあるということであります。

 イエス・キリストが宣べ伝えた真理も、人々に受け入れられず、拒否され、とうとう最後には、イエス自身が十字架で殺されて、かえってその真理性が発揮されたのであります。福音という真理は、人間を超えた神の真理ですから、容易には人々に受け入れられず、拒否されることによって、かえってその真理性が発揮されるという面をもっているのであります。
 
 サルトルという哲学者が、死について、死ぬという事についてこういう事を言っているそうであります。
「人間が体験するのは、他人の死であって、自分の死は自分で体験できないのである。たとえば、死というものは、死刑を宣告された人が、明日おれが引き出されるかみたいに思いながら、いつもびくびくしたり、覚悟したりしているうちに、ついにやってくるというようなものではない。そうしているうちに牢屋にスペイン風邪がはやってきて、ひょっくり死んじゃったというようなかたちでやってくるものなのだ」。

 死というものは、人間が支配できないものであります。それはいつもわたしを超えたところから、向こうからやってくるものであります。われわれ人間が覚悟しようがしまいが、われわれ人間が死について準備しようがしまいが、ある日突然向こうからやってくるものだというのであります。われわれ人間が死を拒否しようがしまいが、死は向こうからやってくる。それは死というものが人間を超えたところからやってくるものだからであります。われわれが死ぬのがいやだとわめきちらし、じたばたすればするほど、それを拒否すればするほど、死のもつすごさというものが発揮されて、われわれ人間に迫ってくるのであります。
 
 神の福音の真理も、それが人間を超えた真理であるが故に、人間が拒否する事によって、かえってその真理の力のすごさが発揮されるのであります。

 先週の説教では、イエスは福音を種まきの種にたとえた、それはイエスが福音を言葉を通して伝えようとしているからだ、と言いました。種はそれを受けとめる土壌がないと育たないように、言葉というものは、それをよく聞いて受けとめないと、その人の中に定着しないからであります。イエスは福音の真理をただ強引に押しつけるのではなく、福音の真理を自分で受けとめて自分で納得してそれを真理にしてもらいたいために、イエスは福音の真理を言葉を通して伝えようとした。福音の真理は、それを聞いた人間がそれを受けとめないと、真理にならないという性質のものであります。福音がどんなに真実で、真理であっても、それを受けとめるわれわれ人間の態度がかたくなであれば、その福音の真理は真理として発揮されないものであります。
 
 先週そういう説教を致しましたが、今日はその正反対の説教になるかも知れません。つまり福音という種のもつ真理の力、その生命力は非常に強力なので、たとえ岩であっても、その岩をつきやぶり、その堅い岩をぶちわって、根をおろしてしまうという力をもっているのだという事を言いたいのであります。

 福音はそういう力強いものをもっているので、どんなに人々がそれを受け入れず、拒否し、悔い改めなくても、かえって、そうされる事によってその真理性は発揮されるという強いものをもっているという事であります。この福音の種という生命力は岩をもぶち割る力をもっているのだということであります。

 二一節からはその事を語るのであります。「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみにでないものはない。耳のあるものは聞くがよい。」

 少し分かりにくい表現ですが、要するにここで言いたい事は、こういう事だろうと思います。「今は私の宣べ伝える福音の真理は、人々に理解されず、拒否され、それはまるでますの下や、寝台の下にあかりをおくように見えるかも知れない。しかしやがて私の伝える福音の真理は、燭台の上に置かれる時がくる。そうしたら今は隠されているように見える真理も、明るみに出て、それが真理であることが明らかにされるだろう。」

 二六節からたとえられる二つのたとえも同じ意味であります。「神の国は、ある人が地に種をまいたようなものである。。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育っていくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるものであって、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる」

 「神の国を何に比べようか。また、どんなたとえでいいあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」

 この二つのたとえは、どちらも種それ自身の生命力のすごさを語っているたとえであります。今は小さく見えるかも知れないが、それは必ず大きく成長するのだというのであります。

 だから、二四節で「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。」というのであります。「聞くことがらに注意しなさい」というのは、新共同訳では、「何を聞いているかに注意しなさい」となっております。これはルカによる福音書には、「どう聞くかに注意するがよい」となっております。福音をどう聞くかが大切だというのであります。福音の生命力を信じて聞こうとしているか、それを受けとめる自分という土壌の事ばかり気にして思いわずらうか、であります。

自分はもしかすると、福音という種を道ばたに落ちた種にしてしまうのではないか、もしかすると、石地に落ちた種にしてしまっていないか、茨に落ちた種にしてしまっていないか、と自分の事ばかり気にするのか、それとも福音のもつ生命力を信じて、岩をもぶちぬいて根を下ろそうとする種の力を信じるかであります。その種がひとたび地に落ちるならば、地はおのずから実を結ばせるのだ、と信じられかどうかであります。自分の事ばかり気にする事が、福音の種を道ばたに、石地に、茨に落とす事になるのであります。「地はおのれずから、実を結ばせるのだ」という福音の持つ力を信じていかなければならないのであります。
 
 昔の映画で、「小さな巨人」という映画があったそうです。その映画は白人の子どもが間違ってインディアンの酋長に育てられるという映画だそうです。文明人である白人と、いわば原始人であるインディアンの文明の違いをテーマにした映画なのだと思いますが、その映画の中で、インデイアンの社会では人が死ぬ時に死を悟った老人は、自分ひとりで山に登っていって死を迎えるという風習があるというのであります。酋長がある日、「あ、きょうはおれは死ぬ。ついてきてくれ」と、その白人の少年に言う。そう言って酋長は、ひとりでずうっと山の上へ登っていく。とても晴れたいい日だというのです。それでその山の上で、酋長は「おお」と言って仰向けになり、じっと死を待つ。じっとしている。何分かたったら、ふっと立ち上がって「うむ、きょうは死なない」といって山を降りるという場面が出てくる、というのです。この映画を紹介している鶴見俊輔が、「その『うむ、きょうは死なない』という時の酋長の表情がなんとも言えずにいい。ごく普通の表情で『きょうは死なない』と言う。彼は死ぬと思って山にいったわけだ、それで死ぬのに失敗した。死ぬのに失敗したときも愉快そうにし ている、その事がいい。」と言っているのであります。
 
死というものは、向こうからやってくる事であります。死はわれわれ人間が支配できない、神の支配する事柄であります。そういう神の支配する事柄を、われわれがどのように受けとめたらいいかという事であります。それを受け入れる準備も覚悟も必要なのであります。しかしそれはあくまで神の支配する事柄なのですから、それはそういうわれわれ人間の姿勢、準備、態度を突き破って、われわれの生活の中に入りこんでくるのだという事なのであります。
 
 福音という真理の受けとめかた、福音をどう聞くかであります。それをわれわれがあまりに神経質に聞こうとしていないか。自分の人間的な小ささで、神の福音を小さなものにしてしまっていないか。もっとおおらかに福音のもつ生命力を信じていかなくてはならないのではないかという事であります。
 
テモテへの手紙の中にこういう言葉があります。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は、イエス・キリストは真実である。彼は自分を偽ることが、できないからである。」

 「聞く事柄に注意しなさい」というのは、われわれが今信じようとしているのは、ほかならない神の福音なのだという事を信じて受け入れよ、という事であります。だから「それをどう聞くか」に注意しなくてはならない。自分の態度のことばかり気にして神経質になって聞いていていいのか。もっと福音のもつ力を信じて、おおらかでいいのではないか、失敗したら、その時は、「きょうは死なない」といって、立ち上がって山をおりればいいではないか、ということなのであります。