「どうして信仰がないのか」         四章三五ー四一節

 四章三五節からは、イエスが奇跡を起こしたという記事が続きます。すなわち、嵐を鎮めた話、悪霊を追いだした話、十二年間長血を患った女の病をいやした話、そして最後には、もう死んでしまった少女を死からよみがえらせたという、いわば決定的な奇跡の話が続くのであります。
 
こうした奇跡の記事は、われわれにとって一番魅力的なところですし、またわれわれが一番つまずくところではないかと思います。われわれはやはり、どこかで、というよりは、大いに奇跡を求めておりますし、また一方では、奇跡なんて起こるはずはないのであって、そんなものを信じたくない、聖書の中に奇跡の記事がなければ、聖書はもっと信じやすくなるし、受け入れやすくなると思っているのではないかと思います。

 われわれは一方では、奇跡を切実に求め、一方では、奇跡を拒否したいという気持ちをもっている、こうした矛盾した気持ちをわれわれは持ちながら信仰生活をおくっているのではないかと思います。そしてこの事は、われわれの信仰の健全さを示しているのではないか。

 といいますのは、神を信じるからには、われわれは人間を超えたかた、神の働きを信じるということですから、当然われわれ人間の力を超えた神の働きを信じるということですから、奇跡を受け入れる用意があるという事であります。ですから、神を信じるといいながら、奇跡を一つも期待しない、願わないという信仰は、どこか頭だけの信仰、何か哲学上の神、大変観念的な信仰になっているのではないかと思うのであります。

 しかし、そうかといって、奇跡を求める信仰は、何かご利益信仰に結びつき、そんな現実には起こりそうもないことを期待したり、信じたりすることは、自分の教養がゆるさない、自分の知性に反する、自分の知性を犠牲にしてまで信仰に突っ走る気はしないと思うからであります。

 そういう意味では、これから始まる一連の奇跡物語の記事をどう読むかで、われわれの信仰の内容が問われることになるのではないかと思うのであります。
 
 まず考えたい事は、奇跡はどういう時に起こされているかという事であります。われわれは奇跡というものは、われわれの方に熱い信仰があって、われわれの深い信仰に応じて奇跡が起こるのだと考えているのではないかと思います。いわゆる念力で火を起こしてみせるという人がいるように、こちらに熱い信仰がある時に、神様がそれに応えて、奇跡を起こしてくれるのではないかと考えている。自分達の生活に奇跡が起こらないのは、自分達の中に信仰が足りないからではないか、と思っているのではないか。

 しかし聖書の記事を見ますと、奇跡は、われわれの信仰が深まった時に起きているのではなく、全く逆に、われわれの信仰が弱り果てている時に起こっているのではないかと思うのであります。たとえば、今日の聖書の記事であります。

 イエスと弟子達がガリラヤ湖の沖に船を漕ぎだしたのであります。その時、突風が吹いてきて、船が沈みそうになった。漁師であった弟子達は、海のこわさを十分知っていたために、危険を感じたのであります。しかしその時、イエスはその船の中で、眠っておられた。弟子達は、イエスを起こし、「先生、私たちが溺れ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。すると、イエスは起きあがって、海に向かって「静まれ、黙れ」といわれた。そうしたら風はやんで大凪になった。奇跡が起こったのであります。その後、イエスはなんと言われたかと言いますと、弟子達に向かって「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」と言ったのであります。弟子達の信仰のなさを怒ったというのです。弟子達が信仰があったから、それに応えて奇跡が起こされたのではなく、むしろ弟子達の信仰がなかったから、奇跡が起こされたのだということであります。

 奇跡は、われわれの信仰が深まった時に起こされたのではなく、むしろわれわれの信仰が弱り果てた時に、起こっているのだということであります。考えてみれば、聖書の奇跡はある意味では、みんなそうなのではないかと思うのです。聖書の中での最大の奇跡はなんといっても、紅海の奇跡と、イエスの復活の奇跡ではないかと思います。

 紅海の奇跡というのは、エジプト軍に追われたイスラエルの民が紅海という海に行く手を阻まれた時、神が奇跡を起こして、紅海を二つに分けてイスラエルの民を渡らせてくださったという奇跡であります。イスラエルの民はこの時の奇跡を忘れられないで、いつも思い出して、神に感謝し、神を賛美したというのであります。この時、イスラエルの民は、もっとも信仰が弱り果てた時だったのであります。その時に奇跡が起こされたのであります。

 そしてイエスの復活の奇跡であります。弟子達は自分達が信頼していたイエスが十字架で殺されてしまって、もうがっかりしていたのであります。十字架の上でなにか奇跡が起こるのではないかと期待していた人々があったにもにもかかわらず、奇跡は起こらず、イエスは死んでしまった。弟子達はもう望みを失って、自分達の故郷のガリラヤに帰ろうとしていた。その時に、イエスの復活の奇跡が起こり、復活のイエスが弟子達の前に現れたのであります。この時も弟子達の信仰が一番弱っている時に、奇跡が起こっているのであります。

 聖書の奇跡は、われわれの信仰の深まりにおいて起こるのではなく、われわれの信仰が弱り果てている時に起こっているのだということであります。それは、聖書でいう奇跡が、いわゆる念力というようなわれわれ人間が引き起こす奇跡ではなく、神が起こされる奇跡だからであります。それは人間が自分の信仰で起こす奇跡ではなく、神が起こしてくださる奇跡なのであります。望みを失い、もう駄目だと弱り果てている、そういうわれわれを励まし、われわれを生かすための、神が起こしてくださる奇跡だからであります。

 さて、奇跡はわれわれの信仰の弱り果てている時に起こると言いましたが、しかしそれでは、十二年間長血を患った女をいやした時、イエスは女に向かって「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と、言われたという記事はどうなるのか。あるいは、イエスはご自分の生まれ故郷では奇跡を、力あるわざを一つもすることができずに、ただ少数の病人に手をおいていやしただけだった、そして、彼らの不信仰を驚き、怪しまれた、とあるという記事はどうなのか。それはやはり信仰のないところでは、奇跡はなさらなかったということになるわけで、この事はどう考えたらいいか。

 この事は、その聖書の箇所でそれぞれ考えていきたいと思いますので、今日は基本的なことだけ考えておきたいと思いますが、信仰と奇跡には深い関係があるということであります。

 それはこういうことであります。奇跡は、信仰が全くないところで起こるというよりは、信仰が弱り果てているところで起こるといった方がいいと思います。つまり、奇跡はわれわれに信仰を引き起こすための奇跡だということであります。その信仰とは、自分の念力を信じるとか、自分の信仰を強めるとかいう信仰ではなく、神を信じる、神を深く信頼する、そういう信仰へとわれわれを導くための奇跡だという事であります。つまり、信仰とは、私の信仰、自分の信念とか念力というようなものを信じる事ではなく、むしろ自分を空にして、自分を信じないで、神を信じるという事であります。これが聖書がわれわれに伝える信仰なのであります。

 ですから、イエスが奇跡を起こす時は、あくまでわれわれに神を信頼させるために、奇跡を行うのであります。われわれの弱り果てている信仰を鼓舞し、「どうして信仰がないのか。なぜ、こわがるのか」と、われわれに神を信頼させるために、奇跡を行うのであります。

 十二年間長血を患った女は、せめてイエスの衣のすそにさわれば、自分の病は治るのではないかとイエスに期待した。それはきわめて迷信的な信仰であります。しかしイエスはその迷信的なその女の信仰を退けずに、なんとかして正しい信仰に導こうとして、その女の病をいやし、その後わざわざその女を自分の正面に連れだして、「あなたの信仰があなたを救ったのだよ」と、その女を励ましてあげたのであります。

 また、イエスに対する尊敬の念が一つもない故郷では、イエスが奇跡を起こしても、それは何か魔術と同じようにしか受けとめられない事をイエスは恐れて、奇跡を起こさなかったのではないかと思います。奇跡が正しい信仰を生みだすのではなく、誤った信仰を引き起こすならば、イエスは奇跡を起こそうとはしなかったと言う事であります。

 イエスがわれわれに求めておられる事は、神を信頼して生きていきなさいという神に対する信仰なのであって、奇跡を求める信仰ではないのであります。奇跡が神に対する信仰を誤らせるならば、イエスは断固奇跡を起こすことを拒否なさるのであります。イエスは宣教を開始する時、荒野で悪魔の誘惑に会った。悪魔の「もしお前が神の子ならば、石をパンにしてみよ」とか「この高いところから飛びおりてみよ」という誘惑を、イエスは断固拒否し、「ただ、神のみを拝み、神のみを信じよ」と言われて、「奇跡を起こしてみよ」という悪魔の試みを退けたのであります。

 誤解を恐れずに言えば、本当は奇跡なぞなくていいのであります。奇跡なんかなくて、どんな時にも神を信頼して、どんな嵐の中にあっても、神を深く信頼して、神を信じることが出来て、イエスがそうであったように、嵐の中であっても安心して眠ることが出来たら、一番いいのであります。そういう信仰がもてたら、こんないいことはないのであります。しかしそれができないのが、われわれなのであります。それができないで、嵐にあって船が沈みそうになると、寝ているイエスをゆり動かして「先生、わたしどもがおぼれ死んでもおかまいにならないのですか」と、奇跡を求めたくなるのであります。

 嵐の中にあっても、神を信頼して、落ちついて眠ることの出来る信仰をどうしたらもてるのか。「苦しい時の神頼み」というわれわれの信仰ではとうていそんな事はできないのです。苦しい時だけでなく、ふだんから神を信頼していなかったならば、何かが起こった時に、あわてて神を信じようというのでは、嵐の中で落ちついて眠ることなどできないのです。

 しかしそんな信仰をわれわれはもてるでしようか。われわの信仰はいつでも「苦しい時の神頼み」なのではないでしょうか。そして苦しい時の神頼みの信仰というのは、いつでも情けない事に、きわめて自分中心的な信仰なのであります。「わたしどもが溺れ死んでもおかまいにならないのですか」という弟子達の信仰、ずいぶん身勝手なあつかましい自分中心の信仰、ご利益的な信仰なのであります。マタイによる福音書は、これではあまりにも弟子達はぶざまだということなのか、「わたしどもが溺れ死んでもかまわないのですか」というところを「主よ、お助けください。私たちは死にそうです」と言い替えております。それほど、この弟子達の叫びは、みっともないほどに自分中心、ご利益的な信仰なのだということであります。そしてここに、われわれの「苦しい時の神頼み」という信仰の実態がよくあらわされているのであります。

 しかしイエスはそういうわれわれのきわめて自分中心、ご利益的な信仰をただ軽蔑し、それを退けたのではなく、そういうわれわれの不当な、しかし切実な祈り願いに応えてくださって、「静まれ、黙れ」と、風と海をしかって、嵐を鎮めてくださったのであります。
 そのようにして、嵐を鎮めてくださった後、イエスは弟子達に対して「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」と、弟子達をしかったのであります。イエスが風と海に対して「静まれ、黙れ」といわれたところを、これはイエスが自然に向かっていった言葉ではなく、動揺している弟子達に向かって「静まれ、黙れ」といわれたのだと解釈する聖書学者もいるそうです。それは少しうがった見方だということで、そう解釈する人はあまりいませんが、しかしイエスが風と海に対してそう言われた時、弟子達はそれは自分達に対して言われたかのように思ったのではないでしょうか。
 
 聖書は、この記事の最後を、マタイもルカも一様に、「いったいこのかたはだれだろう。風も海も従わせるとは」という、嵐を鎮めたイエスにに対する驚きの言葉で終らせているのであります。つまり、聖書がわれわれに教えている信仰は、この嵐を鎮めるイエスに対する信仰を持ちなさいという事であります。それはイエスが嵐の中で、父なる神を信頼して、動揺しないで、落ちついて、眠ることができるような、そんな立派な信仰ではないのです。そうではなくて、われわれの「苦しい時の神頼み」という信仰、そういうご利益的な自分中心の信仰にある時には応えてくださるイエス、そうしてそういうわれわれのあやふやな信仰をしかりとばし「なぜこわがるのか。どうして信仰がないのか」といって、われわれの信仰をしかってくださるイエスを信じる信仰をもちなさいという事なのであります。
 どんな嵐が来ても、動揺しない信仰をもてたら、どんなにいいだろうと思います。しかし、そのような信仰を、もしわわれわれがもつとしたら、それはとりすました信仰でしかないのではないか。そういう信仰はイエスだから、イエスしかもてない信仰で、われわれにはそんな信仰はもてないし、もつ必要もないのではないでしょうか。

 われわれがもつことが許されている信仰は、この風と海をしかりとばして「静まれ、黙れ」といって、嵐を鎮めてくれるイエス・キリストに対する信仰なのであって、その信仰を持ち続けなさいと、聖書はわれわれに教えているのではないでしょうか。