「悪霊を追い出すイエス」       五章一ー二○節

 イエスは弟子達をつれてガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着きました。そこは豚を飼う異邦人の地でした。イエスはそこで一人の悪霊につかれた人をいやし、そのためにその土地の人に追い出されて、そこを去るのであります。その地では、たった一人の人に福音を伝えただけでしたが、それは決して無駄な事、伝道の失敗だったのではなく、立派に伝道の成果を果たしたのであります。

 その地につきますと、ただひとり汚れた霊につかれた人がイエスを出迎えました。この人は墓場をすみかとして、だれひとり彼を相手にする人はいなかったのであります。おそらく彼は乱暴をしたのでしょう、あるいは乱暴をしかねないとまわりの人々に恐れられたのでしょう。人々は彼を鎖でつないでおこうとするのですが、彼はその鎖をひきちぎって、墓場や山で、夜昼叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのであります。彼はいわゆる狂人と言われる人かも知れません。

 ある人が狂人についてこんな事を言っているのであります。
 「狂気は、秘密めいたところのある不可解な現象だが、狂人の一番明らかな特徴は、これは秘密というものをもってはいない人間だ、という強い印象だ。一般常識では、狂人こそ秘密を守り固執する人間のようにみえるが、私は逆に、狂人は、秘密というものをもっていない人間だと、そう考える。」

 そう言われてみれば、なるほどそうだなと思えるのであります。われわれはこの世の常識というものにとらわれて、こういう事を言ったら、変に思われるのではないかと恐れて、口に出さない。言いたい事も秘密にしておく、しかし、狂人は平気でそれを口にする。われわれは相手を殺したいという衝動にかられても、こんな事で人を殺して自分の人生をめちゃくちゃにしたら損だという計算を働かせて、そういう衝動を抑えて、殺したいほど相手を憎んでいる事を秘密にしている。しかし狂人はそれを秘密にすることができないで、自分の心の内部の衝動のままに行動に出るのではないかと思うのです。

 また、別の人がこんな事もいっているのであります。
 「狂人とは、理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」と定義しているのであります。これだけでは唐突な表現になりますが、その前にこういう事を言っているのであります。
 「健全な判断には、さまざまの手かせ足かせがつきまとう。しかし狂人の精神はそんなものにはお構いなしだ。ユーモアの感覚とか、相手に対するいたわりだとか、あるいは経験の無言の重みなどにわずらわされることがない。狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。この意味では、狂人のことを理性を失った人というのは、誤解を招く。」と言っているのであります。こう言った後、「狂人とは、理性を失った人ではない。理性以外のあらゆるものを失った人だ」というのであります。

 ユーモアとか、相手に対するいたわりとか、人間の経験の重み、つまり言葉を変えて言えば、社会の常識と言ってもいいと思いますが、この世の常識、感情や愛憎、そうしたものをすべって失って、ただ理性だけが残されたら、ただ論理的ということだけ残されたら、われわれの暮らしというのはどんなにか暮らしにくいものになるだろうという事であります。心の病に陥った人と話をした事のある人ならば、わかると思いますが、そういう人と話をするとき、なれていない時は、ずいぶん緊張をするものであります。それはその人は、こちらの秘密を鋭く見抜くようなところがあって、こちらの心の思っている事をそのままずばりと口に出してしまうからであります。こんな事を言ったら相手は傷つくだろうなという配慮を失っておりますから、こちらの心に思っている事も平気で暴きだされてしまう。そういうこわさがあるのであります。そしてまわりの人の気持ちにおかまいなく、自分の衝動のまま行動する、この世の常識とか、相手に対するいたわりとかを放棄しているから、こわいのであります。

 相手に対するいたわりとか、この世の常識とかを放棄できるというのは、もう自分が傷つく事を恐れないということであります。われわれが自分の思っている事をそのまま口に出せないのは、相手に対する思いやりというよりは、相手を思いやっていないと、相手を傷つけるような事を言ってしまうと、その跳ね返りがこわいからではないか。相手を傷つける事は結局は自分が傷つくことである事を知っているが故に、われわれは相手を思いやっているところがあるのではないか。自分が傷つくことがこわいのであります。われわれは自分を自分で守ろうとする防衛本能というものをもっているのであります。それがこの世の常識というものを作りだし、感情というものを豊かにし、あるいは愛を生み出すといってもいいのかも知れないと思います。

 しかし狂人にはもはや自分で自分を守ろうとする自己防御というか、自己防衛本能が失われてしまっているのではないか、だからこんな事を言ったら自分が傷つくのではないかという事も恐れないで、言いたい事を平気で言ってしまう、自分の衝動のままに行動してしまう。

 このゲラサの地の悪霊につかれた人は夜昼絶え間なく墓場や山で叫びつづけ、石で自分のからだを傷つけていたというのであります。自分を傷つけることを少しも恐れなくなってしまった人だというのであります。

 確かに利己的な人、エゴイストとはつきあいづらいですが、しかし逆にもう自分を自分で守ろうとしない人、自己防御をしなくなった人とつきあうというのは、本当につきあいづらいし、ある意味ではこわいものであります。自分が傷つくことを恐れない人というのは、恐いものであります。

 自分を守ろうとしない人、従ってもう自分に秘密をもたなくなった人、そういう人は、相手の秘密も鋭く見抜けるようになっているということなのかも知れません。自分を守ろうしないから、この世の常識にもとらわれない、もう自分という色メガネをかけないで、相手をそのまま真っ直ぐに見抜くことができますから、そういう意味では、もっとも論理的、もっとも理性的な人なのかも知れません。

 このゲラサの地の汚れた霊につかれた人はイエスをみると「いと高き神の子イエスよ」と呼びかけるのであります。この人は、常識人が見ることのできないものをイエスという人格の中に見抜くことができたのであります。

 それは逆に言うと、自分を守ろうとする思いというものが、どんなにわれわれの目を曇らせてしまうかということであります。イエスが今までと違ったことを発言したり、行動すると、もうついていけないのであります。なぜなら、自分を変えるのはいやですから、自分がゆすぶられるのはいやですから、イエスが語る事がどんなに真実であっても、それを頭から拒否してしまうのであります。自分を変えたくないという事は、現在の自分を守ろうとしているという事であります。
 
 この人はイエスを見ると「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」というのであります。それは、イエスが「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである、というのです。この箇所は、読んでいて少しおかしいなと思うところです。イエスがこの人に会って、出会い頭に「汚れた霊よ、この人から出てゆけ」と言われたかのように書かれているからであります。

 本当はそうではなくて、この人はイエスに出会うと、イエスが一言も言わないうちに、イエスという存在自体のなかに、いと高き神の子の聖さを感じとったのではないか。だから、イエスに走りよってひれ伏したのではないか。イエスという存在自体が、この人に向かって「汚れた霊よ、この人から出てゆけ」と発しているのではないか、それをこの人が聞きとったということなのではないかと思います。

 それにしても、この人がイエスに対して「わたしを苦しめないでください」と哀願するのは、驚きであります。彼は墓場をすみかにし、夜昼たえまなく、叫び続け、石で自分のからだを傷つけて血だらけにしていたのであります。それは苦しいことではないという事なのでしょうか。それよりはイエスという聖なるかたに出会うことの方がよほど苦しいというのであります。

 「わたしを苦しめないでください」という言葉は、悪霊の叫びなのか、悪霊にとりつかれた人の言葉なのか区別がつきませんが、聖書では、「この人が」となっておりますが、石で自分のからだをうちつづけている状態、そういう風に自分を傷めつける状態が、いつのまにか彼にとって居心地のよいことになってしまうというのは奇妙なことだし、恐ろしいことであります。
 われわれは一方では自分をなんとかして、変えたいと思いながら、一方ではどんなに自分の今の状態を変えたくないという思いを持っているという事であります。

 自分を変えなくていいのでしょうか。自分を変えるためにはどうしたらいいか。自分がどんなに悟ったって、どんなに修養をつんだって、自分で自分を変えることはできないのではないか。それはわれわれは本当は自分を変えたくないからであります。だから、われわれは自分で自分を変えることはできないのであります。他人によってしか自分を変える事はできないのであります。イエスという聖なるかたの前に立つ以外に、自分を変える事はできないのではないでしょうか。イエス・キリストから「汚れた霊よ、この人から出ていけ」と一喝される以外に、自分を変える事は出来ないのではないでしょうか。

 イエスはこの人に「なんという名前か」と聞くのであります。古代においては、自分の名前を聞かれて、自分の名前を言ってしまうという事は、相手に支配されてしまうという意味があったそうであります。旧約聖書の中の創世記にでてまいりますヤコブが神の使いと格闘した話はその事を語っております。ヤボクの川の岸辺で、ヤコブは神の使いと相撲をとり、神の使いから、お前は何という名前か、と聞かれ、「わたしはヤコブです」と答え、神の使いから「これからはもうヤコブと言わずに、イスラエルといいなさい」と名前を変えられるのであります。それに対してヤコブは神の使いに「あなたの名前はなんですか。わたしに教えてください」と迫りますが、神の使いは「なぜわたしの名前を聞くのか」といって、とうとう名前をあかさなかったというのであります。何故なら、人間が神を支配しようとする事を神はゆるさなかったからであります。天の使いは、名前を明かさない代わりにヤコブを祝福したというのであります。

 イエスがその人に「なんという名前か」と、名前を聞いたという事は、イエスがその人を支配しようとしたという事であります。その人を神の恵みのもとに支配し、救おうとなさったという事であります。
 彼は「レギオンです」と、答ました。「大勢なのですから」というのです。レギオンというのは、大軍団という意味なのです。彼一人の中に二千匹の悪霊が住み着いていたということがあとでわかるのであります。それはあとで、悪霊が自分達を人のすみかから追い出さないでくれ、と頼み、それが駄目なら、せめて豚の中に住まわせてくれ、と頼んだというのです。その豚の数は二千匹であったのだと、ユーモラスに聖書は語ります。そして悪霊に住みつかれた豚二千匹はなだれをうって崖から海に転落するのであります。
 
 悪霊は自分ひとりでは生きて行けないのです。何ものかに寄生していないと生きていけないのです。だから、せめて豚の中に住まわせてくれというのです。そしてこの人もまた、このように誰かに寄生してもらわないと、生きて行けなかったのであります。二千匹の悪霊に住み着いてもらわないと、生きて行けない人だったのであります。

 自立できない人、自立したくない人は、同じように自立できない人と生活することを欲するものであります。そうしてはお互いの傷をなめあって、やがてなだれをうって崖から海に転落するのではないでしょうか。

 この人はイエスによって悪霊を追い出して貰いました。いやされたのであります。救われたのであります。救われてどうなったのでしょうか。救われて、いわゆる健常者になったのでしょうか。われわれと同じ普通の人になったのでしょうか。普通の人と同じように、この世の常識にとらわれ、自分を守りたいために、言いたい事も抑え、自分が傷つきたくないために、相手をも傷つけないで、自分の秘密を守ろうとする、そういうこの世の常識人にもどるという事が救われるということなのでしょうか。

 それでは何のための救いか分からなくなってしまうのてはないでしょうか。この人は正常にもどった時、イエスに対して、お供したい、あなたの弟子にさせてください、そしてどこまでも、いつまでもあなたのそばにいさせてくださいと、イエスに頼むのであります。それに対してイエスは、それを許さず、「あなたはあなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きな事をしてくださったか、またどんなに憐れんでくださったか、それを家の人に、村の人に伝えなさい」といわれたのであります。そこで彼はイエスのもとを離れ、自分ひとりで歩き、イエスが自分にしてくれた事をデカポリス地方の人々に言い広めたので、人々はみな驚き怪しんだというのであります。イエスはゲラサの地でたった一人の人を救っただけでしたが、大きな伝道の成果をあげたのであります。

 救われるというのは、ただいわゆる健常者にもどるという事ではないのです。自分を愛してくださるかたがおられるという事、自分を支え自分を生かしてくださるかたがおられるという事、その事を口に出し、言葉で説明し、自分の生き方で堂々と証することができるという事であります。

 自立するという事は、他の人の世話なんかに一切いらないと強がってみせたり、他人の意見に一切耳を傾けないという事ではないのです。われわれが自分一人で生きているのではなく、わたしを創り、生かし、育てて、そして助け、励まし、慰めてくださるかたがおられるのだという事を素直に認めて、そのかたの憐れみを受けて生きていくという事なのであります。