「余りある恵み」 マルコ福音書六章三○ー四四節
 
 三○節を見ますと、「使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分達がしたことや教えたことを、みな報告した」とあります。イエスはその前に弟子達を伝道に派遣しているのであります。弟子達はその報告をしに帰ってきたのであります。するとイエスは直ちに「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたというのであります。
 
弟子達は意気盛んに、自分達の伝道の成果を報告したのであります。ルカによる福音書では七十二人の弟子達が伝道から帰って来て、イエスにその成果を報告したという記事があります。「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」と、報告しことが記されております。その時イエスは「霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と言っているのであります。弟子達の意気盛んな報告を戒めて、人を救うことが出来たんだ、などといい気にならないで、自分の救いの事を考えなさいと戒めているのであります。

 この時も弟子達は伝道のめざましい成功を報告をしたのではないかと思います。するとイエスは、「休みなさい、人を避けて寂しい所にいってしばらく休みなさい」というのであります。

 われわれが疲れている時、休みなさい、とイエスは声をかけてくださいます。「重荷を負うて苦労しているものは、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」とイエスは呼びかけてくださいます。われわれが重荷を負うて苦労し、疲れ果てている時、休まなくてはならない事はいうまでもないことであります。
しかし、なにかがうまくいっている時、うまく行きすぎている時も、われわれは人里離れた、寂しいところにいって休まなくてならないのだ、とイエスは言われるのであります。自分が何か出来たと思った時、特に人を助ける事ができたなどと思った時、われわれは本当に休まなくてはならないのであります。

 イエスは、七十二人の弟子達が、自分達は悪霊までも自分達に服従させることができた、と報告しますと、イエスは「霊があなたがたに服従したなどといって喜ぶな」といったのであります。もし、われわれが何か人を助けて、人を救ったなどと喜んでいる時、われわれは案外、その人を自分に服従させる事になったといってひそかに喜んでいるのかも知れないのであります。そこまで、露骨に思わないかも知れませんが、人を助けることによって、これでその人に恩を売ったぐらいには思っているかも知れないのであります。もし少しでもそういう気持ちがわれわれの中にある時は、助けられた人は大変重荷に感じているでしょうし、案外迷惑しているかも知れないのであります。

 弟子達はイエスの言葉を受けていれて、人を避けて、舟にのって寂しい所に行ったのですが、そこにも多くの人が駆けつけて来て、休むどころではなくなってしまいました。イエスはそうした多くの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有り様を深く憐れまれたのであります。マタイによる福音書には、「イエスはすべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音をのべ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」と記されております。イエスは、ただ病気の人をみて、倒れている姿をみられたのではなく、どんなに健康で意気盛んでも、イエスの目から見ると、その人が弱り果て、倒れているように見えたというのであります。なぜなら彼らは飼い主のない羊のように見えたからであります。どんなに見た目には、身体が元気で、意気盛んであっても、飼い主がいない、神様がいないという事は、どんなにわれわれを弱り果てさせ、倒れさせているかという事であります。

 イエスはその群衆のために全力を注いで、福音を、つまり飼い主が誰かを語りつづけたのであります。そして夕方になってしまった。
 この時、弟子達は群衆の事を心配して、イエスにこう言ったのであります。
「ここは寂しい所であり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」といった。するとイエスは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言った。これはイエスの弟子達に対する皮肉ではないかと思います。弟子達は自分達で、男だけでも五千人の人にパンを与えられないからこそ、解散させましょうと言ったのであります。イエスも弟子達にそんな事ができないことは分かっているはずなのであります。それでも、あえて「あなたがたの手で食物をやりなさい」というのは、イエスの皮肉ではないかと思います。

 なんのためにイエスはこの時こんな皮肉を言われたのか。弟子達は伝道して帰って来て、自分達のした事や教えたことをイエスに報告した。イエスはその弟子達の誇らしげな成果を聞いて、こう言おうとしたのではないか。お前たちは自分達が何か出来たと思っているけど、本当にそうなのか、それならここで「あなたがたの手でこの群衆を助けたらどうか」と言われたのではないかと思うのです。

 先日、河合隼雄という京都大学の教授の、定年に際しての最終講義というのをテレビで放映しておりました。河合隼雄氏は、日本にユング派の心理学を導入した人であり、また臨床医でもあって、精神障害のある患者を実際に診ている人であります。その最終講義は大変おもしろかったですが、その中で河合氏はこんな事をいっているのであります。
「われわれはそうした患者が来た時に、余計なお世話をついしてしまう。いちばん大事なことは相手の言いた事を自由にしゃべらす事だ。余計なことはしない。しかしこれは簡単なようでいて、ものすごく難しい。われわれはどうしても何かをしてしまう。困った人を助けたいという気持ちが働いて、何かをしてしまう。しかし大事な事は、私がその人を助けることではない。その人の中に何かが出来上がってくるんだということがわかることなんだ。そのことが分かると待てるようになる。余計なことをしないという事が大事なんだ。しかし何もしないというと、誤解して、本当に何もしなくていいんだと思う人がいるけど、それなら自分達はそうしているという人がいるけれど、そうではない。それは余計な手はださないけれど、心は自分の全存在をかけてその人に関わっている。たとえば『死にたい』と言う人が来た時には、そのひとが死にたいと言う気持ちにこちらも出来る限り近づいていくのだ。」

 こちらが助けるのではない。相手のなかに何かが出来てくる事を待ってあげることだ、というのであります。そのテレビでは、その最終講義が終って、河合氏が自分の部屋に帰り、若い学生が河合氏の著書にサインを求めている場面があって、そのサインに河合氏はこう書くのであります。
「何もしないことに全力をあげる」

 イエスは弟子達に「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われたのであります。弟子達はそのイエスの言葉にあきれて「私たちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスももちろん男だけでも五千人の人を養えるパンを弟子達が用意できるなどと思ってはいないのです。

 イエスはそこにあった、五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人の人を養ったというのであります。四二節をみますと、「みんなの者は食べて満腹した」というのです。しかし考えてみれば、四○節からの様子を見ますと、彼らが口にする事ができたパンと魚はせいぜい一口ではないかと思われます。それなのに「みんなは食べて満腹した」というのです。ここで人々ががつがつ食べて満腹したとは思えないのであります。ここで彼らが「食べて満腹した」というのは、ただ食欲が満たされて満腹したという事ではなく、彼らの魂が満腹したということだろうと思います。

 イエスはこの五つのパンと二匹の魚を分ける時、「天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子達にわたして配らせた」というのです。この表現には、後に教会が聖餐式の時に用いる用語が反映されているそうです。後の教会は、この記事を聖餐式の記事として読んでいるのだと多くの聖書学者が言っているのであります。

 もちろん、ここには主の晩餐の記事と違って、イエスの十字架を示唆する言葉は一つもありません。しかし聖餐式は、パンとぶどう酒にあずかる事によって、主イエスの肉と血潮にあずかるのでありまが、その事によって何よりもわれわれが神の恵みにあずかるという事が大事なのであります。ただイエスの十字架の死を悲しむというのではなく、そこにおいて示されたあふるるばかりの神の恵みにあずかるという事が聖餐式であらわそうとしている事であります。それならば、ここで「みんなのものは食べて満腹した」という事、そして、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごに一杯になったという事、つまり余りが出るほどであったという事で、神の恵みに、あまりあるほどの神の恵みにひとりひとりがあずかる事が出来たという事で、後の教会がここに聖餐式の姿をみても不思議はないのであります。

 大事な事は、肉のパンではなく、魂だというのではないのです。イエスは主の祈りで、「日毎の食物を、きょうもお与えください」と祈りなさいと、教えておられるのですから、肉のパンがなくてもいいというのではないのです。「人はパンだけで生きるのではない」と、聖書が言う時、神は飢えたイスラエルの民にマナという不思議なパンを天から降らせて、パンを与えてから「人はパンだけによって生きるのではない」と言われているのであります。われわにとって、パンが大事な事は言うまでもないのです。しかしそのパンも神の祝福なしに受け取るならば、パンだけを確保する事を永遠に追い続ける事になると思います。二日分三日分、いや死ぬまでのパンを確保しておかないと安心できないという事になってしまうのであります。あの天から降って来たマナというパンは、欲張って翌日の分まで取って置こうとすると、もうそれは腐ってしまっていたというのです。それはその日その日、マナを神の御手から受け取って、わたしを養ってくださるかたは誰かという事を、日毎に知らなくてはならないという事であります。

 肉のパンも、われわれの日毎の食物も、神からのパンとして受け取らないと、むなしいパンになってしまう。その肉のパンを追い続ける事によって、われわれがただ飢えの恐怖にふりまわされる人生を送ることになってしまうのであります。あるいは逆に、肉のパンは、飽食の時代には、肥満の原因、健康の障害になってしまうのであります。神の祝福なしには、パンも祝福されないし、パンによるわれわれの生活も祝福されないという事であります。

 このパンの奇跡を通して、みんなの者が食べた後、残りを集めると十二のかご一杯になったという事は、神のあふるるばかりの恵みを表しているのであります。そのイエスが祝福してくださったパンを食べる事によって、われわれを生かしてくださるかたは誰かという事、われわれにとっての羊飼いを知ることができたという恵みであります。
 この事をこのパンの奇跡を通して悟ることに失敗するならば、われわれはイエスの奇跡を何度経験しても無駄でしょうし、この次学びますが、五二節の言葉を見ますように、弟子達は「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなつていた」という事になるのであります。

 弟子達は、伝道から帰って来て、「自分達がしたこと、教えたこと」を報告したのであります。「自分達が」であります。伝道とは本当は、自分達の事を人々に印象づける事ではなく、本当の羊飼いは誰かという事を証し、あなたがたには羊飼いがいまし給う事を証する事なのであります。弟子達はその事を忘れていた、いや忘れていないかもしれませんが、少なくともそれを指し示す事に失敗し、あまりに自分達がしゃべり過ぎたのかも知れないのです。伝道も、河合隼雄が書いたように、「何もしないことに全力をあげる」という事なのかも知れません。われわれがその人に無関心になって、自分のやる事を怠けていいというのではなく、その人の事を思って、その人を愛するために、全力を注いで、何もしない、その人が自分から羊飼いを見いだすまで、全力をあげて何もしない、という事が時には必要なのかもしれないのであります。時には、というよりは、最後には、あるいは、いつもそういう思いをもっているという事が必要だと言う事であります。そうでなければ、到底伝道はできないのであります。