「人を汚すもの」        七章一ー二三節

 パリサイ派の人々は、自分が清くなろうという事に真剣でありました。大変熱心でした。それは聖書に「わたしは聖なるものであるから、あなたがたも聖いものになれ」という神の言葉があるからであります。彼らは自分は汚れたくないという事に神経を使ったのであります。自分が清い人間になるんだという事に全力をあげたのであります。そのために彼らは、神の前に自分はこんなに清い人間ですと、自分の清さを認めて貰おうとした。神に清めていただこうとするというよりは、自分の清さを神の前に主張する事に熱心になっていったのであります。
 
そういうパリサイ派の人々の生き方を批判して、キリストに出会うまでは熱心なパリサイ派だったパウロは、こういうのであります。
「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。」

 それに対して、クリスチャンになったパウロは、自分は「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」というのであります。

 義と清さとは違うかも知れませんが、内容的には同じであります。クリスチャンであるわれわれも、やはり自分が清らかな人間になりたいと願っていると思います。特に若い人は、今の時代の若い人は知りませんが、われわれの時代の若い時は、キリスト教を求める人は皆多少は潔癖症的なところがあって、清い人間になりたいと思って、キリスト教を求めだしたという人が多いのではないかと思います。修道院にあこがれ、美しい多少センチメンタルな讃美歌にあこがれて求道生活に入った人も多いのではないかと思います。その結果知った事は何かと言えば、われわは自分ではどうしても清くなれないという事てはなかったかと思います。

 「わたしは肉につけるものであって、罪の下に売られている。わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。わたしはなんという惨めな人間なのだろう。だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」とパウロと一緒に嘆くのではないかと思います。

 自分ではどうしても清くなれない事を知るのであります。神に清めていただこう、神に救っていただこうと思うようになるのであります。もう自分で自分を清めようとはしなくなるのであります。キリストがわたしの足を洗ってくださるのだという事を信じていこう、キリストはわたしの美しいところと交わろうとするのではなく、私の一番汚れた足を洗うとして十字架についてくださった事を信じていこうと思うようになったのであります。そしてそのようにして、われわれはようやく、自分の汚れから解放される、自分の汚れから解放されるという事は、もう自分の汚れに神経質にこだわらなくなるという事であります。

 そして自分の汚れにこだわらなくなるという事は、自分を清くしようという事に全力をそそぐというむなしい努力をもうやめよう、人の汚れた足を洗ってあげよう、人の欠点を許していこうと思うようになるという事ではないかと思います。

 パリサイ派の人々は、自分の汚れを自分で清めようと全力をあげていました。自分の汚れは自分で清められるとまだ信じていました。従って他人の汚れにも神経質になっていました。

 エルサレムから来たパリサイ派の人々と律法学者達は、イエスの弟子達が手を洗わないで食事をしているので不快に思いました。驚きました。食事の前に手を洗うというのは、衛生上の事ではなく、彼らにとって食事は宗教的な意味があったために、食事の前に手を洗わないという事は宗教的に汚れることだと思ったようなのであります。四節にある「市場から帰った時には、身を清めてからでないと食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受け継いでいた」というのは、市場というのは、異邦人の出入りする所ですから、そこでは宗教的に汚れてしまうから、そうしたようなのであります。

 彼らはイエスに「なぜ、あなたの弟子達は、昔の人の言い伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」と尋ねたのです。するとイエスはいきなり「あなたがた偽善者について」と、激しい言葉で彼らの批判を真っ向から、逆に批判するのであります。彼らもこんなに強い言葉でイエスから言われるとは思ってもみなかっただろうと思います。なぜイエスはいきなり「偽善者たちよ、」と激しい言葉で彼らを批判したのでしょうか。

 それは恐らく彼らがエルサレムから来たパリサイ派の人々であったということがあるのかも知れません。エルサレムは、ユダヤ教の大本山なのであります。彼らは権威をかさに着ていたのであります。それでイエスは激しい口調で彼らを批判したのかも知れません。

 「預言者イザヤはこう言っている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言い伝えに固執している。あなたがたは自分達の言い伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。」

 「人間の言い伝え」とは、神の戒めをさらに現実の生活で活かすための具体的な取り決めであります。神の戒めを、たとえば「安息日を守って聖とせよ」という戒めを具体的に守るためには、どうしたらよいかと考えたわけです。そのためには、一日何歩以上歩いてはいけないとか、こういう労働はしてはいけないとか、具体的に取り決めていって、神の戒めを具体化し、従って細分化していったのであります。
その事自体は悪い事ではないのです。
 神は聖なるかただから、われわれも聖なる生活をしようとして、食事の前に念入りに手を洗おうと考える事は悪いことではないかも知れません。そのようにして生活の型をつくるというのは、信仰生活を観念的なものにしないという点で大事な事であります。

 しかし、神の戒めが絶対的なものに対して、「言い伝え」は人間が作ったという意味で、相対的なものであります。それは神の戒めを具体的なものにするために人間が工夫して作ったものであります。相対的であるという事は、その人その人の現実に即して工夫して考えられた「言い伝え」という事であります。相対的であるという事は、人によってその工夫は異なっていいという事であります。

 たとえば、このごろは余り言われなくなりましたが、ひと頃キリスト教の旗じるしになっていた禁酒禁煙という事も、自分達の生活を乱れないで生活しようと考えた一つの工夫であります。それは「言い伝え」であります。それはあくまで、「言い伝え」であって、相対的なものであります。それをまるで絶対的な戒めのようにして、酒を飲んだ者は、タバコを吸った者は、クリスチャンでないとして、聖餐式にあずからせないという陪餐停止処分にするというのは、おかしな事であります。
酒を飲む飲まない、たばこを吸う吸わないは、全く自由であります。吸っても吸わなくても健康的にはともかく、信仰的には全く何の関係もない事であります。ある人にとっては、酒を飲む事が、たばこを吸う事がストレス解消になることで、それは必要な事であるかも知れません。

 そういう話をある牧師と話しておりましたら、自分の教会にアル中で苦しんでいる人がいて、ようやくそのアル中から脱却している人がいて、その人が言うには、酒は少し位なら飲んでもいい、というような事を牧師さんに言ってもらいたくないと言われたそうです。自分にとっては、その少しくらいという事が致命傷になってしまうから、酒は絶対に飲んではいけないと言ってくれなくては困ると言われたそうであります。その人にとっては、禁酒禁煙は決して律法主義的な命令ではなく、それは福音として受けとめているというのであります。

 神の前に正しい清い生活を送ろうという戒めは大切なのであります。しかしそれを自分の具体的な生活において適応させるのは、人によってさまざまの筈であります。それは相対的なものであります。クリスチヤンがみな潔癖症なっては困るのであります。人間は、時に、神よりも完全主義になりやすいという、ある人の言葉は考えさせられるのであります。

 「昔の人の言い伝え」は、神の戒めを具体化するための工夫であります。しかしそれが一度出来上がると、それは一人歩きし始めて、神の戒めそのものよりも、そちらの方が力をもって人を規制しだすのであります。なぜならその「昔の人の言い伝え」の方がより具体的な戒めになっているからであります。

 イエスはこういう例をもちだすのであります。「神の戒めに『父と母とを敬え』とある。それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差し上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだといっている。」

 これはどういう事かと言えば、父母がおなかをすかしていているのに、それを父母にあげないために、これは神様にお供えするものでからあげられませんと言えば、それを父母にあげなくて済む、そして神様に捧げた後、自分達がそれを食べてしまうのだというであります。コルバンという戒めを口実にして、結局は父母を敬いなさいという神の絶対的な戒めを無にしているというのであります。

 神を敬うという事は、大事な事であります。しかし父母を敬うという事も大事な事であります。父母を敬うというと今日ではあまりぴんと来ないかも知れませんので、人を愛することといった方がいいかも知れません。神を愛する事と隣人を愛する事というのは、同じように大事な神の根本的な戒めだとイエスご自身いわれたのであります。それを自分達の実際生活において適応させるという事は大変難しい事であります。ある時には、父母にあるいは夫にさからってまで日曜日の礼拝に出席するという事が大事な事かも知れないし、ある時にはたとえば父母が病気の時には、礼拝を休んで病気の父母のそばにいてあげる事の方が大事な事かも知れません。あるいは、場合によっては、日曜日の礼拝を休んで家庭サービスをしなくてはならないかも知れません。

 その判断をするのは、人によってさまざまのはずであります。結局は自分にとって都合のよい方を選ぶ事になるかも知れません。しかし大事な事は、どちらを優先させるべきか、ともかくそこで悩むという事であります。
 ところが、あの「人の言い伝え」が一度出来てしまうと、自分が悩むという事をしないで、ちょうどマルバツ式のテストのように、まるで機械的に戒めを当てはめていくやりかたをするようになるのであります。まるで法律の判例集をひもどくようにして、この場合はこうだと言う風に、神の戒めを現実に適応させていく事になるのであります。

 そこには、神を愛することを第一にすべきか、人を愛することを第一にすべきかという選択、決断の悩みがなくなってしまうのであります。神の戒めを自分の現実の生活に適応させるという事にもっともつと悩む必要があるのではないか、それが信仰者の誠実さというものではないか。信仰生活はマルバツ式の単純なものではないのであります。絶対的な模範解答などないのであります。人さまざまであります。絶対的な模範解答があると思うから、自分と違った解答を出す人がいると、それは間違っているとすぐ人を批判し、人を裁く事になるのであります。福音に生きる信仰者の生活は、画一化であってはならないのであります。われわれは少しでも律法主義的になると、必ず信仰生活の画一化がおこるのれであります。

 神を愛するという戒めと隣人を愛するという戒めを、自分達の具体的な生活に活かすという事は大変難しい事であります。この二つの戒めはある時には、緊張関係にある戒めとなるのであります。どちらを優先させるべきかについては、われわれは大いに悩まなくてはならない。そのように悩んで、選択した時、われわれは人の選択をそんなに軽々しく批判しなくなるのではないでしょうか。ああ、あの人も誠実に悩んで、そちらの方を選んだのだなあ、と想像できるからであります。まして自分と違った選択をしたからといって、その人を裁かないのであります。悩まないから、すぐ人を裁きたがるのであります。悩まないから、平気で人を裁けるのであります。

 「ひとが生まれつき誰からも教えられないでもっている技術がある。それは人を裁く技術だ」と、ある人が言っております。
 われわれは自分と違った生活をしている人をみると、すぐ裁きたがるのであります。イエスの弟子達が食事の前に手を洗わないと、それは神の清さに触れる事で信仰的でないと、パリサイ派の人々はイエスの弟子を批判し、裁いたのであります。

 イエスは、外から入って来るものが、つまり食事の前に手を洗うかどうかという事、あるいは食べ物そのものが人を汚す事はないと、きっぱりと言われたのであります。人から出ていくもの、つまり人の心の中からでていくもの、人の心の中にあるものが、人を汚すのだと言われたのであります。そして二一節からいわゆる悪徳表と言われるものを列挙するのであります。

 しかし一番人を汚すものは何か。それは言葉ではないか。人の心の中からでていくもの、それは言葉になって人の心からでていくことで、人を批判し、人を裁く言葉が一番人を汚していくのではないでしょうか。それは他人を汚していくというよりは、人を批判し、人を裁こうといつも構えている自分自身を、本人を汚していくという事であります。イエスがあんなに強く「人を裁くな」といわれ、そして繰り返し繰り返し、人を赦していきなさいと言われた事を思いだしたいのであります。

 それもこれも、自分で自分を清めようと思う事が、自分で自分を清められるんだ、清めなくてはならないんだという思い違いが、そのような方向へ人を導いてしまうのではないでしょうか。われわれは神に赦され、神に清めていただく以外に自分を清める事はできないのであります。