「聞けるようになる」           七章三一ー三七節

 イエスは再びガリラヤの海辺に帰ってこられたのであります。その時、耳が聞こえず口がきけない人がイエスの所に連れられて来ました。イエスに手を置いてやっていただきたいと思って、連れて来たというのであります。イエスが手を置いてくれたら、耳が聞こえるようになると思ったのかもしれません。イエスほどのかたならば、手を置くだけでいやされると、軽い気持ちで連れてきたのかも知れません。

 しかし、イエスはどんな病に対しても、イエスが人の病をいやすときは、決してたやすくいやすのではなくて、ご自分の全精力を注いでいやすのであります。イエスが人の病をいやすときは、ただ奇跡をおこなうのではなく、その人々の患いをご自分が身に負うたというのであります。ご自分が代わりにその病を負うたのだというのであります。

 それは聖書が病をいやすという事で伝えようとしている事が、罪ある人間の病をいやすという事、罪人を救うと言う事を言おうとしていることだからであります。イエスがわれわれ罪ある人間を救う時、ただわれわれ罪人を赦したのではなく、イエスが身代わりにわれわれの罪を背負ってくださったのだという事であります。従ってその最後は、われわれ罪人と同じように、一人の罪人として、十字架で死んでくださったという事であります。

 人々は軽い気持ちで、手をおいていただきたいと思って、一人の人をイエスの所に連れて来たのであります。するとイエスは、彼ひとりを群衆の中から連れだし、その両耳に指をさしいれ、それからつばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われたのであります。イエスは「天を仰いでため息をついて」というのです。イエスがどんなに深くこの一人の人間の苦しみをご自分の苦しみとして共有しようとしていたかという事であります。

 イエスが「天を仰いでため息をついて」病をいやしたという記事は、ここだけであります。耳が聞こえないという事に、イエスがとんなに深く同情したかという事であります。耳が聞こえないという事は、人の声が、人の語る言葉が聞けないという事であります。いつも自分の目で、自分の判断で動くという事であります。自分の目でしか見ることができないという事は、大変ひとりよがりになってしまうという事であります。そういう宿命になってしまっているという事であります。もちろん本人の責任ではないのです。生まれつきそうなってしまっているのかも知れない。それだけに一層の事イエスは深い同情を持ったのかも知れません。

 他人の言う事が聞けないで、ただ自分の目で見るしかないという事は、どうしても「自分は見える」と言い張る事になるという事であります。

 イエスはしばしば「耳のあるものは聞くがよい」と言われたのであります。そして聖書は「信仰は聞く事から始まるのだ」というのであります。信仰は「聞く」ことから始まる。自分はこういう考えをもっているという事、自分はこれだけの事を経験してきた、学んで来たという事を主張する事ではなく、信仰はまず自分をむなしくして「聞く」ことから始まるのだというのであります。そしてそれは始めだけでなく、最後まで信仰は「聞く」ことなのであります。

 最近の精神療法は、まず心の悩みを持っている人が来た時に、何かを指導するとか忠告するとかということをしないで、カウンセラーはまず相手にしゃべらすことだと言われています。医者は何も言わないで、その患者が自由にしゃべる雰囲気づくりをする事に全力をあげるのだそうであります。

 そこでは「聞く」ことよりも、本人が「話す」こと、「しゃべる」こと、本人にしゃべらすことが、精神的な病気を治療するときの第一歩だというのであります。あるいはそうなのかも知れません。
 しかし、聖書は、信仰は聞くことから始まるというのです。救いは、「聞く」ことから始まるというのであります。どちらが本当なのでしょうか。

 しかし、考えて見れば、心の悩みを持っている人、そのために病に陥っている人は、人の言葉が聞けなくなっている人なのではないでしょうか。聞けなくなっている、人の話が聞けなくなっている、だから病気になっているのではないでしょうか。だからそういう人に、聞けと言っても、もう聞く耳をもっていないのであります。だからそういう人にどんなに語ろうとしても、その人は耳を閉ざし、心をかたくなにするだけなのであります。それだから、その人にはともかくしゃべらす事が必要なのではないかと思うのです。その人の話を聞いてあげることが必要なのかも知れない。自分の話を聞いてくれる人がいるという事を示す、その事が大事なのかも知れません。そしてそのようにしてしゃべりたいだけしゃべらせてあげて、心の中を空っぽにさせて、そうしてから、今度は、人の話を聞けるようにするのではないでしょうか。その医者が何かを忠告をするとかという事ではななく、その人がともかく自分中心の世界から解放されて、人の話が聞けるようになったら、もうその人の心の病はいやされたという事になるのではないでしょうか。
 ですから、話をきいてあげるのは、その人が人の話を聞ける状態に導いてあげるという事の一つの課程、道程なのではないでしょうか。

 ただ自分がしゃべっただけで、ただ自分の悩みや、人には言えないような過去や問題を話しただけで、人間が救われるとは到底思えないのであります。

 心の病を持っている人の共通の状態は、人の話を正しく、素直に聞けなくなっているということなのではないかと思います。
 「聞こえない」「聞けない」ということが、どんなにわれわれにとって致命的なことか。イエスがこの人の病を前にして、天を仰いでため息をついたということがわかる気がするのであります。

 わたしが四国にいた時、近くの町に宮沢明子というピアニストのコンサートがあって聞きにいったことがありました。クラシックのコンサートなどはめったにないのです。いきましたたら、小さいこどもたちがたくさん来ていて、ピアノの演奏の間も会場を走り回っている状態でした。いわゆる音楽教室に通っている生徒達が来ていたわけです。その時、その演奏の合間に、宮沢明子はマイクをもってこんな事を言ったのです。
 「自分は子どもたちが騒いでいてもひとつも気にしない。今自分はヨーロツパに住んでいるけれど、ヨーロッパでは日曜の午後には両親に連れられた子どもたちが沢山こうしたコンサートに来ている。そうして小さい時からよい音楽を聞くという習慣が身についている。ところが日本ではそういう習慣がない。ピアノを弾かせることばかりしている。聞くということをしない。だから確かに日本のピアノの学生は技術的には優秀だ。しかしコンクールなどで、ヨーロツパの審査の先生が言うのは、日本人は技術はあるが音楽性がないと言う事だ。それで自分は全国をまわって、こうしたコンサートを開いて、小さいお子さんにもできるだけ音楽を聞いて貰いたいと思っているので、子どもたちが走り回っても自分は気にしません」ということを言っていたのであります。
 聞く、ということがどんなに大切かということであります。
 
 しかし「聞く」ということはどういうことなのでしょうか。たとえば、その音楽を聞くということだって、小さい時に良い演奏家の良い音楽を聞いていたら、それはその子にとって将来良い結果に結びつくでしょうが、もしその小さい時に妙にくせのある音楽を聞かされてしまったら、かえってとりかえしがつかない事になりはしないか。小さい子どもの時のように、こちらがまだ心が白紙の時、「何を聞くか」という事は、実は大変難しいことだし、ある意味では、大変恐ろしいことなのではないか。ですから「聞く」という事は、ただこちらの心の中を空っぽにしていればいい、ということではないと思います。

 心が空っぽであるという事、白紙のような状態であるという事は、実は大変恐ろしい状態なのではないかと思います。無防備になっている状態だからであります。相手の言う事を無防備に受け入れるという事は、実は大変恐ろしいことなのであります。だから、小さい時の教育というのは、大変恐いのであります。われわれはあの戦争中、天皇が神だと教育されて育てられて、その時大人は実際の所はどう思っていたかわかりませんが、子どもたちは皆本当に天皇を神様だと思っていたのであります。

 いわゆる洗脳されてしまうのであります。そして宗教の一番恐ろしいところ、一番危険な所は、その洗脳ということであります。教祖様は、教師達は、わたしのいう事をともかく聞いて信じて、従って来なさいというのであります。「聞きなさい」、始めはわからなくても、聞きなさいというのであります。まさに、信仰は「聞くことから」始まるのだということであります。
 聞くという事は、どういう事なのでしょうか。聞いて従うという事と、洗脳されてしまうという事と同じことなのでしょうか。イエスもしばしば「わたしに従って来なさい」というのです。

 洗脳されるというのは、自分がなくなってしまうという事であります。もうこちらは自分の意志とか判断力を失ってしまって、まるで夢遊病者のように相手のいいなりになるという事であります。

 しかし、イエスは「自分を捨てて、わたしに従って来なさい」といいますが、それはまた「自分の足で立ちなさい」と言う事でもあるのです。ペテロが言いましたように「金銀はわたしにはない。イエス・キリストの名によって歩きなさい」と、今まで人を頼り、自分の足では歩けないと思っていた人を、ペテロは手をとって自分の足で歩かせてあげたのであります。そうしたらその人は、大変喜んで神を賛美しながら踊りながら歩きだしたというのです。

 ですから、イエスに聞き従うということでも、それは決して夢遊病者のようになって自分を失って、誰かに従うということではないのです。自分の足で立ち、自分が判断し、自分で決断して、自分の意志で従うのです。

 イエスは「自分を捨てて」といいますが「自分を失いなさい」とは言っていないのです。「自分を捨てる」のです。「失う」ということと「捨てる」という事は似ているようで、違うと思います。「捨てる」という時には、自分が「捨てる」という判断をし、自分が決断をし、自分が自分を捨てるという行為をするのです。ところが、洗脳されるというのは、自分を失ってしまうことなのです。だからいわば自分の主体性で自分を失うという事はできないのです。

 神は動物のペットや石ころを欲しているのではなく、自由な主体的な意志をもった人間を造り、その人間を欲しているのであります。そのような自由意志をもって心から喜んで、自分の意志で神に従う人間を欲しているのであって、洗脳されて自分を失って、夢遊病者のような従いかたを欲しているのではないのです。神に従う時には、こちらには自由があり、喜びがあるのです。もちろんただうれしいうれしいということではないでありましょう、自分を捨てなくてはならない時もあるし、自分の十字架を負うて、従わなくてはならない時もあるのです。しかしその時、そこにやはり、どこか喜びがあるはずであり、自由さがあるはずであります。

 本当はこちらが空っぽでは、何も聞けないのではないでしょうか。つまりこちらが何も問題を感じていない時は、どんなにいい話を聞いても自分の中を素通りしていくだけで、実は聞いているようで、何も聞いていないという事なのではないでしょうか。小川の流れを見ていますと、その小川の流れに、一つの棒のようなものがささりますと、その棒というか杭といいますか、それにまとわりつくように色々なものがひっかかってくるものであります。真珠を養殖する場合にも、核になるものがあって始めて美しい真珠が造られていくのであります。

 ですから、こちらが何もない空っぽな状態では本当は何も聞こえてこないのです。聞けないのです。聞いても何も残らないのです。
 こちらに問題性をいつももっていないといけない。問題意識というものをいつももっていないといけない。こちらはいい個性をもっていないといけないのです。

 ある有名なピアノの調律師が、いい調律師になるには個性が全くない人間ではだめなのだ、全く個性がない人というのは、注文主がこの音は少し堅めの音にしてくれと言われた時、堅くし過ぎてしまう、だから個性のない人間は相手のいいなりになってしまってだめなのだ、調律師になるにはいい個性がなくてはだめだ、自分なりの音楽性をもっていて、そしてしかも相手のいう事を聞くことのできる柔軟性をもっていなくてはいけないというのです。

 しかし、もちろん頑固な人はだめなのです。自分の考えをもっていて、それを頑固に守り続けて、ひとつも人の言うことを聞かないというのではだめなのです。「聞かない」とだめなのです。聞くためには、やはり自分を捨てないと「聞けない」のです。自分を失うのではなく、自分を捨てて、よく耳を傾けなくてはならないのです。

 イエスは「天を仰いでため息をつき」そして、その人に「エパタ」と言われた。それは「開けよ」という意味であります。そのイエスの様子と「エパタ」と言われた言葉が、弟子達にも非常に印象深かったのでしょう、それであの「アーメン」とか、「タリタ、クミ」とか「アバ」とかという言葉と共に、聖書がギリシャ語に翻訳された時にも、それがギリシャ語に翻訳されないままで、イエスが発音されたまま「エパタ」という言葉のまま残されたという事であります。「開けよ」という意味の言葉「エパタ」という言葉をイエスがとんなに深い思いをもって言われたかという事であります。

 この人は耳が聞けないだけでなく、口もきけなかったのであります。しかし、ここにはイエスが口がきけるようにしたとは、ひとつも書かれていないのです。耳が聞こえるようになったら、当然口もきけるようになるという事だからであります。われわれが正しく話せない、正しく自分の事を言えないのは、正しく人の話しを聞いていないからであります。
 われわれが正しく神に祈れないのは、神の言葉を本当に正しくよく聞いていないからではないでしょうか。