「見えるようになる」               八章二二ー二六節

 今日は聖霊降臨日の聖日であります。聖霊降臨日というのは、イエス・キリストが復活して、四十日地上におられましたが、また再び天に登られて、それから十日の後に、聖霊が降ったという日であります。その日に弟子達は聖霊を受けて、彼らは大変な力を受けて、それで立ち上がり、イエスはよみがえったのだ、自分達はその証人であるという証をするために全国を歩き始め、教会が出来ていったという日なのであります。従って、この聖霊降臨日は教会の誕生日、キリスト教の誕生日なのであります。

 弟子達は、十字架で死んだイエスが、その死からよみがえられて、自分達と共にいてくださるということで、せっかく心強い思いをしていたのに、再び自分達の前からイエスはいなくなってしまう、天に登られてしまうと言う事で、がっかりしていたのであります。しかし、弟子達は、イエスが天に登られる前に、イエスから「お前達はエルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう。」と言われていたのであります。そしてさらに「聖霊がくだる時、お前達は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地のはてまで、わたしの証人となるであろう」とイエスは約束したのであります。

 その弟子達に約束通り聖霊が降ったという日なのであります。その事は、使徒行伝二章に詳しく記されております。使徒行伝のその聖霊降臨の出来事を読むときに不思議に思う事があります。それは弟子達はどうして復活のイエスに出会い、そのイエスの復活という体験だけで、力づけられ、伝道に向かわなかったのだろうか、という事なのであります。弟子達は聖霊を与えられて、なにをしたかと言えば、自分達はイエスの復活の証人である、あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神がよみがえらせた、自分達はその事の証人であるという事だったのであります。つまりそれはイエス・キリストの復活という事を証することなので、聖霊が与えられたからと言って、何か特別の事が起こったわけではなく、自分達はイエスの復活の証人であるということを力強く証し始めたという事だけなのであります。それならばなぜ復活のイエスにお会いしたというだけで、すぐ立ち上がれなかったのかという事なのです。なぜ聖霊降臨という出来事がなければならないのか、どうしてイエスの復活という事だけでは駄目だったのか、ということなのであります。
 それはこういう事ではないかと思います。イエスの復活に出会うという事とイエスの復活を信じるようになるという事とは違うのだという事であります。イエスの復活という出来事というのは、ただそういう体験をした、死んだイエスが生き返って、その生き返ったイエスにお目にかかったという体験をしたという事では何の力にもならないという事なのであります。それだけでは、再びイエスが天に帰られてこの地上におられなくなった時、再びがっかりするだけなのであります。大事な事は、イエスが生き返ったという事実だけなのではない。それを信じられるようになるという事が大事だという事です。それを信じられるようになるというのは、あの十字架にかけられて死んだイエスをよみがえらせたかたがおられるという事、神がイエスをよみがえらせたのだという事を信じられるようになるという事なのであります。

 私は聖霊という事を考える時にいつも思いだすことがあります。それは私の牧師から聞いた話なのですが、その事が私の牧師の経験だったのか、その牧師の先生の経験だったのか忘れてしまったのですが、ともかく、先生がある牧師の説教を聞いて非常に心を打たれた。ゆさぶられるような経験をした。それでその次の日曜日もその牧師の説教をどうしても聞きたいと思って、その教会に出かけてその牧師の説教を聞いた。そうしたら、実につまらない平凡な説教だったというのです。それであの時、自分がその説教を聞いて心がゆさぶられるような経験をしたのは、聖霊が働いたからだ、聖霊が働くという事はそういうことなのだと思ったというのであります。恐らくその説教をした牧師は、その日に特別すばらしい説教したわけではないだろうと思います。そしてその日、みんなの心ゆさぶるような説教をしたたわけでもないと思います。恐らくその先生だけをゆさぶるような説教になったのだと思います。つまりその先生の心ゆさぶらせたのは、神の働きだ、神がその先生の心に聖霊を送ってそうさせたのだという事であります。

 私はこの話を自分が神学生時代に、まだ牧師になっていない時に聞いたのです。そしてこの話は、自分が牧師になって何かにつけて思い出して慰められたり、励まされたりしたのであります。つまり、人が神を信じるようになるのは、牧師の説教の力ではないし、牧会的指導でもないし、あるいは、求道者の側の決心でもない。その人に働きかけて神を信じさせてくださる神が送ってくださる聖霊の働きなんだという事なのであります。神を信じるようになるという事、イエス・キリストの復活を信じるようになるという事は、自分がよしこれから心を入れ換えて信じてみようと決心一つでできるものではない、わたしに働きかけて信じさせてくれるものがなければ、これは到底信じられないのだという事をつくづく思うのであります。だから、どんなつまらない説教をしてもいいというのではないのです。説教するものは誠実に説教をしなくてはならない。信仰を求めるものは、真剣に求めなくてはならないと思います。パウロは植え、アポロという伝道者は真剣に水を注いだのであります。しかし、成長させてくださるの神なのだ、とパウロはいうのであります。成長させてくださるのは神なのだという信 仰がなければ、伝道者はとうてい植えたり、水を注いだりはできないのであります。

 イエスのよみがえりという事実だけでは、弟子達は立ち上がれなかったのです。そのイエスのよみがえりを信じられるようになった、それが聖霊降臨という出来事だったのであります。イエスの復活に立ち会えた人間はごくわずかであります。パウロは五百人だと言っております。もうわれわれは復活のイエスには会えないのです。しかし復活のイエスを信じることはできるのです。聖霊を与えられるという事は、イエスをあの死からよみがえらせた神を信じられるようになるという事なのであります。

 最近、竹森満佐一の説教集が次々と刊行されまして、この所ずっとその説教集を読みふけっておりますが、復活についての説教の中で、恐らく死ぬ年の最後のイースターになさった説教ではないかと思いますが、こういう一節があります。少し口調を直して紹介しまが、こういう一節であります。
 「われわれは復活を信じて思いますことは、われわれのこの生活の中に、神が働いていらっしゃることである。その事を考えてみないといけない。この歴史の中に、われわれの貧しい生活の中に、神が働いていらっしゃるということ、これを知ることが一番私どもにとって有り難いことではないか。たとえば死に対して、これがあったらわれわれは安心できる。これがなかったら安心しようがないではないか。

自分は老人問題のことを読んだり聞いたりして、いつでも思うことがある。それは老人問題というのは、この老人をどうやって楽しくさせてやろうかという話ばかりが中心に出ることだ。ゲートボールをしてみたり、どこかの公民館に集まってみたり、どうやったら老人が楽しめるかということばかりだ。つまり、もう死んだも同然の老人も、これを有り難いと思っているかも知れない。自分も老人なので、だから老人のことは少しは身につまされて分かる。老人の本当の問題は何か。それはどうやって死ねるかではないか。今どうやって楽しく暮らすかもいい。しかしいずれ死ぬのだ。どうやって平安に死ねるか。ところが誰もそれは言わない。癌でもうだめだという人たちを集めたホスピスという所では、言っているかも知れない。

いつでも老人にとって一番知りたいことは、どういうふうに死ねるだろうか、じっとしていても死ねますよ。だけどどうしたら安心して死ねるだろうか、ということである。ところがその人たちに対して、どうしたら、今、楽しいかということばかり言って、そうやって死ぬことを忘れさせているのではないか。それは残酷だと思う。誰も死ぬことについて取り上げ、話をするような無慈悲なことは出来ないというでしょうけれども、しかし、どうでしょう。もし老人の人たちに、キリストは甦られた、それによってキリストを信じる者は甦るということを信じさせる事が出来たら、どうでしょう。これはどんな遊びごとよりも、うれしいことではないか。自分は老人問題を見るたびに、なぜこれを言わないのかと思う。
 
 どちらからでもいい。仏教の人でもいい、なぜそれを言わないのかと思う。それほどに、われわれはあまり現実な生活をしていないのだ。質素な生活といってはひどいけれども、あまり死に向き合うような生活をしていないのではないか。話し合いをしていないのではないか、それは逆に言うと、復活を卒直に信じて生活していないのじゃないかという気がする。」という説教であります。
 
 こういう説教をして、その数カ月後に竹森満佐一はガンのために神のみもとに召されて死んでいったのであります。われわれの教会も二人の親しい人をなくしたばかりで、この説教は身に沁みたのであります。
 
 今日の説教の聖書の箇所は、マルコによる福音書の箇所で、イエスによって一人の人の目があけられたという箇所であります。イエスがベッサイダに行くと、人々がひとりの盲人を連れて来て、さわってやっていただきたいとお願いしにきたというのであります。するとイエスはこの一人の盲人の手をとって村の外に連れだしたのであります。彼を、連れてきた人々から彼一人を引き離したのであります。盲人をイエスの所に連れて来た人々は、憐れみがあったかも知れませんが、それよりは好奇心があってひとつイエスの奇跡をみてみたいという思いがあったのかも知れません。それでイエスは彼一人を彼らから引き離し村の外に連れだしたのかも知れません。そうでなくて、もっと真面目な思いで人々がその盲人に対して深い憐れみから、なんとかしてイエスにいやして貰おうとして連れてきたのだとしても、イエスはともかく彼をそういう憐れみから彼を一人切り離しのであります。そのような憐れみだけでは、彼は救われないからであります。そのような同情心はかえって彼を駄目にしてしまうと思ったのかも知れません。
 
ともかく、イエスは彼の手をとって村の外に連れだしたというのであります。彼はもう長い間盲人なのですから、もう一人で歩けるはずなのであります。それでもイエスは彼の手をとって連れ出してあげたというのであります。

 渡辺信夫がここを説明して、「恩寵の場所まで手を引いて行くのは恩寵なのだ。目のあけるところまで自力で出ていくのではなく、そこまで行くのも恵みの力なのだ。わたしたちは目があいてから主に従うのではない。目のあかない先、すでに主に手をひかれているのだ。」と言っております。
 「恩寵の場所まで手を引いて行くのは恩寵だ」ということ、このわれわれの汚れた手を引いて救いの場所まで導いてくれる恩寵、これがまさに聖霊の導きということであります。

 そしてイエスは非常に丁寧にその盲人の目をあけてあげるのであります。その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何が見えるか」と訊ねた。最初はぼんやりとしか見えなかった。「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」と言う。歩いている人がぼんやり見えるというのは、イエスの弟子達をぼんやりと見たのかも知れません。そして再びイエスが両手をあてられると、すべてのものがはっきりと見えだしたというのであります。この時この盲人が一番始めにはっきりと見たものはなんだったのでしょうか。それは自分の目の前に立っているイエス・キリストを見たのではないでしょうか。目をあけられた人が何を見るかが大切であります。最初に何を見るか。あるいは根本的になにを見るかであります。

 昔見た映画に「田園交響曲」という映画ありました。アンドレ・ジイドの小説を映画にしたものですが、ある盲人の娘が教会の牧師の世話で、医者にかかって目が見えるようになった。その時彼女は目が見えるようになってなにを見たかといいますと、その牧師の奥さんの自分に対する激しい嫉妬心だったと言う事なのであります。目が見えなかった時は、あんなに美しいと想像していた牧師を取り囲んでいた世界が、目が見えた時に、牧師を取り囲んでいた醜悪な世界を見てしまって絶望していく、最後には自殺してしまうのではなかったかと思いますが、そういう映画だったことを覚えております。

 目が見えるようになって何を見るかであります。ただ目が見えるようになるというだけでは、救われるがどうかわからないのであります。目が見えるようになって人間の醜さを見るのか、あるいは自分の美貌に気がつくのか、それとも目をあけてくださったイエス・キリストを見るかであります。われわれの罪を赦してくださるイエス・キリストが見えるようになる、そこまでわれわれの汚れた手を引いて導いてくださるのが聖霊の働きなのであります。