「サタンよ、引き下がれ」         八章三一ー三八節

 ペテロはイエスから「それでは、あなたがたはわたしを誰と言うか」と訊ねられ、「あなたこそキリストです」と答えたのであります。するとイエスは、この事は誰にも言うなと言われて、自分はこれから必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日後によみがえるべきことを、彼らに教え始めたというのです。ペテロが「あなたこそキリストです。メシヤです、救い主です」と告白したとき、すぐイエスからこの事は誰にも言うな、と戒められたという理由はこの事にあったようです。つまりイエス・キリストが救い主であるという事は、ただ病気をなおしたり、パンの奇跡を劇的に行ったりしているから救い主であるのではない、自分が十字架で殺されることによって、自分がキリストであることを証できるのである、それまでは自分がキリストであることを人に言うなということであります。

 すべての英雄は迫害されるかも知れません、その事自体は別に珍しいことではないかも知れません。しかしすべての英雄は迫害されてもそれに勝つのであります。それに勝ってこそ、英雄なのであり、救い主のはずなのであります。しかしイエスは自分は殺されるんだ、と言うのです。三日後によみがえるとは、いいましたが、恐らくペテロはそんな事はとてもまともに耳に入らなかっただろうと思います。

 それでペテロはその事を聞くと、イエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたのであります。するとイエスはそのペテロに向かって「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたのであります。「サタンよ、引き下がれ」とはずいぶん激しい言葉であります。なぜこの時、イエスはこんなにも激しくペテロの言葉に怒ったのでしょうか。ある人は、これはペテロの態度がいけないのだ、彼はこの時、まるで自分がイエスより上に立つ者のようにして、イエスをわきに引き寄せ、いさめ始めた、そういう態度がいけなかったのだと説明する人がおりますが、そんな事ぐらいでこんなににも怒るイエスなのでしょうか。
 
ここでイエスがペテロに対して「サタンよ」という言葉を使って叱っているのは尋常ではないのです。これは、ペテロの発言がご自分の救い主の本質をあやふくさせる内容を含んでいるからこそ、こんなにも激しく怒っているのであります。

 ペテロとしたらなぜ自分がこんなにも叱られなくてならないか、分からなかったと思います。ベテロとしたら、自分は先生の身の安全を心から心配して、そんな事があってはなりません、そんな危険な道を自ら進もうとしてはなりません、と言ったつもりだったと思います。ペテロとしたら、決して不遜な気持ちからそんな事を言い、そんな態度に出たわけではないと思います。

 ペテロは彼なりに精一杯先生であるイエスの事を心配したのであります。人が死なないように心配してあげる、これは最高の人間的な配慮というものだろうと思います。人間的な最高の親切というものだうと思います。最高の人情といってもいいかも知れません。しかしそれは、サタンの思いだというのです。お前は「神のことを思わないで、人のことを思っている」というのです。
 われわれ人間の最高の配慮、親切、善意というものが、場合によってはサタンの考えている道と同じ方向を指し示す事になるのだという事は恐ろしいことであります。
 
 今イエス・キリストは、みずから自分は多くの苦しみを受け、長老たちに捨てられ、そして殺されると言われるのであります。それはただ自分が好き好んでいく道というのではなく、そうなる「べき」運命なのだ、つまりこれは神が自分に課せる、そうなる「べき」運命、使命の道なのだと言われるのであります。これは神がそのように歩めと言われている道なのだと言われたのであります。一方ペテロは人間的配慮からそうあってはならないと思ったのです。そうなっては困ると思ったのであります。いわばここでは、神がお考えになっている救いの道と、人間が誠実に考えた救いの道とが正面衝突しているのであります。

 ペテロはなぜそう思ったのでしょうか。もちろん自分達の先生がみずから死ぬと分かっている道、みずから苦しみを受けるような道を歩んでは困ると思ったのであります。しかしそれはただ自分達の先生がそういう道を歩んでは困ると思っただけではなく、実は自分達もそんな道を歩みたくないと思ったのではないでしょうか。イエスが十字架の道を歩むと言う事は、自分達もまた、同じように十字架の道を歩むことになるという事であります。それは困ると思ったのではないでしょうか。もちろんそんな事はあからさまに思いはしないでしょう、表面的には先生の身を心配してなのでしょう。しかしペテロは自分では気がつかないかも知れませんが、彼の心の中にはそういう気持ちが働いていたのではないでしょうか。
 
 この後、イエスはペテロたちに対して「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」といわれるのであります。自分達の先生が十字架の道を歩むという事は、自分達も同じように十字架の道を歩まなくてはならないということであります。自分達の救い主が十字架の道を歩んで、われわれの救いを達成してくれるという事は、何らかの意味でわれわれの救いはこの十字架を負うという事と、全く無関係に自分の救いについて考えるわけにはいかないという事であります。

 われわれ人間の考えている親切、善意、人間的な配慮は、どこかにこの十字架なき親切、十字架なき善意、十字架なき配慮ということなのではないでしょうか。それは言葉を変えていえば、なんとかして楽な道、楽な道、安易な道を探ろうとする道だという事であります。自分が苦しみを負わなくてすむ道ばかり探ろうとしているのではないか。

 他人に対して、特に自分の愛する人になんとか配慮して、親切にしてそういうふうに楽にさせてあげようという配慮するという事は、結局は自分もそういう道を歩みたいということなのではないか。人に対しても自分に対しても、そのように楽な道、楽な道ばかりを選んでいくということ、苦しみを負わせない、苦しみを負わないという道ばかり選んでいくという事、それが「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということなのではないか。

 人類の繁栄という旗じるしを掲げて走って来たわれわれのこの地球は、結局は今どうなるのか。人間がなんとかして楽をしようとして、いろんな事を発明し、改良して来た結果が、今地球を大きな危機に立たせてしまっているのであります。この環境破壊の道を克服するのは、今改めて宗教的思考が必要だとある評論家が言っていた事を思い出しますが、それはもちろん今日はやりの新宗教ではなく、この十字架の道を歩む宗教をさしている事は明かであります。

 イエスはペテロに対して、「サタンよ、引き下がれ」と、サタンという言葉を使って激しく叱りましたが、これはイエスがあの宣教の始め、荒野でサタンと対決した事を思いださせるのであります。

 そこでサタンはイエスに対して、石をパンにして民衆の飢えをしのいであげたらどうか、というのです。あなたが神の子であるなら、神殿の屋根から飛び降りてみたらどうか、そして天使があなたを助けるという一大イベントしてみたらどうか、というのです。そうして最後にこの世の富と権力を手に入れて、それで民衆を救ったらどうか、と言ったのであります。神の力をただ人を驚かすような奇跡とかであらわすという事、ただパンを与えるという事、そしてこの世の富と権力を握るという事は、あのヒットラーのやりかたがまさにあらわにしたように、イエスはそれはサタンにひれ伏し、サタンに身を売ることである事を見抜いていて、それらの誘惑をことごとく退けたのであります。

 サタンが考えていいる救いと、ペテロが先生であるイエスのためを思って、精一杯の親切心から忠告しようとして「そんな事があってはなりまぜん」と言った事とは、奇妙な事に一致していたのであります。サタンはむき出しに十字架なき救いを考え、ペテロは人間の善意から十字架なき救いの道を考えていたという事であります。
 
 聖書にはもう一つサタンが登場するところがあります。それはイスカリオテのユダがイエスを裏切ろうとしていた時、そのユダの心の動きを説明して、「サタンがユダの心の中に入った」というのであります。ユダはイエスの十字架を阻止するのではなく、イエスを十字架へと追いやるために、イエスを裏切るのであります。ペテロは人間の善意からイエスを十字架につかせまいとし、ユダは人間の悪意でイエスを十字架へと追いやるのであります。どちらもサタンが働いていると聖書はみているのであります。どちらも「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということであります。
 
 イエスは確かに、祭司長を始め、ユダを含んだ人間の悪意と弱さという人間の罪のために追いやられるようにして十字架で死ぬのであります。人間の罪ために十字架につくのであります。しかし、それではイエスは人間の罪に敗北したという事になるわけです。そうではないのです。イエスの十字架はただ人間の罪に追いやられて殺されるというのではないのです。これは神のみこころだったのだというのです。

イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ」たというのです。「必ず、そうなるべき」と言われるというのです。つまりこれは神がそのように定めた道だというのです。ただ人間の罪に追いやられるように、仕方なく、十字架で殺されてしまうというのではないというのです。これは人間の罪をなんとかして救おうとする神の救いの計画のわざだというのです。

 イエスは人間の罪の故に十字架についたというよりも、神の愛のゆえに十字架におつきになったのであります。人間の罪よりも神の愛の方を考えなくてはならない。イエスは神の愛の委託を受けて、十字架の道を歩むのであります。ですからイエスが最後までこだわったのは、これは「あなたのみ心なのですか」と、その事を懸命に父なる神に問うたのであります。

 ですから、ただ十字架の道を歩むことがすばらしいという事ではないと思います。つまりただ命を投げだせばいい、自己犠牲の道を歩めばいいという事ではないのです。自己犠牲の道を教えるのは、日本のやくざの任侠道だってやつているし、いやかっては日本の教育が自己犠牲の道をさかんに教え、国家のために命を捨てなさいと滅私奉公の道を説いたのであります。それが特攻隊とつながっていったのであります。このごろ流行の宗教も自己犠牲を奨励するのであります。そして犠牲になるのはいつも若い人であり、まじめな素朴な人なのであります。そういう意味ではこの十字架の道を奨励する宗教は大変恐ろしいのであります。

 十字架とか自己犠牲が大切なのは、それが神のみころにそっている時だけが尊いのであります。ただ親分のためとか、自分の見栄のためとか、まして国家のためとか、そんな事のために命を捨てる事は一つも尊いことにはならないのでありすます。今また特攻隊の精神をもちあげる事は大変危険であります。特攻隊の事をもちだすならば、若い人をそのような心境に追いやった国家権力の罪を問題にしなくてはならないと思います。それは、そういう事でなく、純真な意味で、人のために命を捨てるという事でも危険かもしれない、それが神のみこころにそうていなければ、それは危険な事になるかも知れない。

 ですから、人に十字架の道を説く事は慎重でなければならないと思います。それはただ人に対してだけでなく、自分に対しても慎重でなければならないと思います。単なる自分の見栄ではないか、自分のひとりよがりな英雄主義ではないか、と時間をかけて吟味しなくてはならないと思います。イエスもあのゲッセマネで最後まで苦しみ抜いて、できることなら十字架につきたくない、なんとかその危険な道を避けたいと思って、神に祈ったのであります。

 イエスの十字架が尊いのは、それが神のみこころだからなのであります。神のことを思わないで人のことだけを考えて行動する時、人間のどんな善意も親切も、そして十字架の道を歩むという自己犠牲の道すら、ただ悲壮感だけを漂わせることになって、人間の救いから遠く彼方に離れていってしまうという事であります。

 イエスを十字架につけようとした祭司長たちも、そしてユダも、そして親切心で、イエスを十字架につけさせまいとしたペテロも、人間の立場に立つ限り、十字架を正しく理解する事はできなかったのであります。人間の罪を真剣に憎み、しかも罪人であるわれわれを愛そうとする神の心を知りたいと思います。