「自分の命を捨てる」                 八章三四ー九章一節

 イエスは自分を捨てなさいというのであります。「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」のだというのであります。
 イエスは病人を見ると、あわれに思ってその病をいやしてあげたのであります。それどころか、もう死んでしまった会堂司の娘を生き返らせてあげた事もあるのであります。そのイエスが「自分の命を救おうとするな」と言われるのであります。それではイエスが病をいやしてあげたり、生き返らせたりしたのは何のためだったのでしょうか。百匹のうち一匹の小羊が迷い出ていたら、他の九十九匹の羊をうっちゃっておいてまでして、その迷い出ている小羊を捜し求める、それが神の愛というものだ、といわれたイエス・キリストなのであります。そのイエスが「自分を捨てなさい」とか、自分の命を救おうとするな、と言われるのであります。あんなにひとりの人間の命を大切になさるイエスが、その命を救おうとするなといわれるのはどうしてなのでしょうか。
 
 三六節を見ますと、「人が全世界をもうけても自分の命を損したら何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」とイエスはいわれるのであります。つまりわれわれ一人の命は全世界の富に匹敵する命だということであります。そしてわれわれの命は一度失われてしまったら、どんな代価を払っても取り戻せないないほどの価値のある命なのだと言われるのであります。われわれの命、それはある有名な人、社会的に何か大変貢献した人の命ではないのです、イエスは今群衆にむかって言っているのですから、名もない、われわれ一人一人の命について言っているのであります。そのわれわれの命を、イエスがどんなにかけがえのない命としてみておられるか、と言う事であります。
 
ここにはわれわれが自分の命について思っている以上に、われわれの命を価値のあるものとして見てくださっているかたがおられるという事であります。われわれは自分の命についてそんなに大事だなんて思っていないのではないかと思います。しかし、もしわれわれを愛している人がいた場合には、その人からみれば、この私の命も全世界の富に匹敵する命として見ているだろうという事は想像できることであります。

 昔読んだ小説に、確か山本有三だったと思いますが「路傍の石」という小説だったか、「真実一路」という小説だったかに、吾一という少年が友達と遊んでいて、鉄橋にぶらさがって、その上を汽車が走るのをどれだけ耐えられるかという、勇気を競う遊びをしていて、汽車をとめてしまって、後でひどく父親に叱られる場面がありました。父親は、何でお前に「吾一」と言う名前をつけたか知っているかというのです。吾一の「吾」というのは、「われ」という意味の「吾」という字だ、そして「一」というのは、一つと言う意味だ、世界広しといえ、お前という人間はただひとりなのだ、我はただ一人、わたしという人間はこの世界にただひとりしかいないんだ、そういう意味で、お前に「吾一」という名前をつけたんだ、それなのにお前はなんで自分の命を、そのかけがえのない世界に一つしかない命を大事にしないのか、と言って、しかるのであります。

 今イエスはわれわれの命を全世界の富に匹敵するかけがえのない命として見ておられるのであります。そのかけがえのない命を失っていいのかというのであります。

 われわれは、この箇所の「自分を捨てなさい、自分の十字架を負いなさい」とか「自分の命を救う者はそれを失うのだ」という所を読むとき、何か大変重苦しい思いで読むのではないでしょうか。何か悲壮な気持ちで読むのではないでしょうか。ここの所は、できることならさっと読み飛ばしたいところなのではないでしょうか。ここの所は、このイエスの言葉をまともに受けとめたら、それこそこの世的な楽しみを一切捨てて、修道院にでも入らなくてはならない気持ちになるのではないでしょうか。もう一切自分の幸福を求めてはいけないのだと言われているような気持ちにさせられるところなのではないでしょうか。しかし、われわれはみな自分の幸福を求めてキリスト教を求めたのではないでしょうか。なんとかして自分が救われたいと思って、キリスト教を求め始めたのではないでしょうか。

 今の若い人はもう知らないでしょうが、われわれの若い時は決まってシュバアイツアの生き方にあこがれたものです。学者でオルガンの名手で名声もあったのに、それらを一切捨ててアフリカの黒人を救うために医者の勉強をしはじめて、そしてアフリカに行ってしまうというシュバイツアの生き方が何かキリスト教のもっとも典型的な生き方のように言われたものであります。そして今の自分の生き方はクリスチャンとしてなにか偽物だという思いをもってしまったものであります。

 しかし、ここではイエスは群衆に向かって「お前の命は全世界の富に匹敵するほど尊い命なんだ」と言っているのであります。そして誰よりも、自分自身で思うよりも、この私の命を尊いと思ってくださっているイエスが、今われわれに「自分の命を救おうと思うものは、それを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」といわれているのであります。そうであるならば、このイエスの言葉をもっと明るい気持ちで耳を傾けなくてはならないのではないでしょうか。この私に何よりも幸福を与えようとしておられるイエスがそう言われているのだという事を考えて、この箇所を聞きたいと思うのであります。
 
 イエスはある時「自分の命のことで思いわずらうな」と言われました。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらうな」と言われたのであります。「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでものばせるか」というのです。そうして「これらのものは、つまり何を食べようか、何を飲もうか、なにを着ようかという事は、あなたがたの天の父があなたがたに必要である事をご存知であり、与えてくださるのだから、まず神の国と神の義を求めなさい、つまり神の愛を信頼しなさい、そして自分の命についての思いわずらい、自分の命についての執着心を捨ててしまいなさい」といわれたのであります。
その事から考えてみますと、ここでイエスが「自分の命を救おうと思うな」という事で言おうとしている事は、自分の命を自分で守ろうとする執着心を捨てなさいという事であることがわかります。

 先日、新聞に日本人の「好きな言葉」と言う事を調査して、その結果第一位が「努力」という言葉だと紹介しておりました。この努力を表す言葉で、「努力と根性」「がんばる」「一生懸命」など、いずれも「努力」を表す言葉が日本人は好きだというのであります。ちなみに第二位は「誠実」以下「自由」「平和」「愛」「思いやり」「信頼」と続きます。そして一九七九年にNHKがした調査でも一位は「努力」という言葉だったそうであります。次が「忍耐」「ありがとう」「誠実」「根性」「愛」「平和」という言葉が続くというのです。日本人は十年来、この「努力」という言葉が好きであるという点で変わっていないというのであります。そしてそれが今日までの高度経済成長を作り上げてきたのだろうと、これを紹介している人が解説しております。そしてこの十年間で少し変わって来たのは、「自由」という言葉が第三位にあがってきて、前には二位だった「忍耐」が落ちているということだと言っております。特に若い世代の人がこの「自由」という言葉を好きな言葉として選んでいるというのであります。

 われわれがどんなに「努力」とか「根性」とか「がんばる」という言葉が好きかと言う事であります。矢内原忠雄が「がんばる」という言葉は嫌いだ、これはもっともキリスト教的でない言葉だといっております。なぜなら「頑張る」の「頑」は「頑固」の頑で、「張る」は自己主張の「張る」だからだと言っているのであります。努力という姿勢には、どこかにこの自分の我を張るというところがあるのではないでしょうか。そこには自分に対する執着心があるのではないでしょうか。

 イエスが自分の命を救おうとする者は、という時、その自分の命を救おうとする姿勢の中に、なんとかして自分の努力で、自分の根性で、自分の頑張りで、自分の命を救おうとするその姿勢を批判しているのではないでしょうか。「努力」とか「根性」を尊ぶという事は、努力しない人間、もう努力出来ない人間を差別する姿勢が含まれているのではないでしょうか。そのようにして努力努力で自分の命を救おうとして得たと思った命、それは結局は他人をけ落としてかち取った命で、そんな所に本当の命があるか、そんなところにあなたの幸福があるか、お前の救いはあるか、とイエスはいうのではないでしょうか。
 
 それに対して、「自分の命を失う者は、それを得る」というのであります。自分の命を失うというのは、そのように自分の命に執着し、自分が自分がという主張をやめるという事ではないかと思います。どうしたらそのような自分に対するこだわりを捨てられるか、自分の命を捨てられるか。自分の命を失うとか捨てるとかという事を勘違いして、自分の欲望を捨てて、いわゆる出家する事、世捨て人のような生活をする事だと思う人がおりますが、そういう生き方というものは、結局は自分の魂の浄化をも求めるという事で、結局は自分だけは天国にいきたいとか、自分だけは救われたいという事と同じで、形を変えて自己に執着している事ではないでしょうか。
 
 イエスはある時、自分の命を捨てるという事をこのように言っているのであります。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」というのであります。自分の命を捨てる場所は、自分の救いの達成のためではなく、その友のために、であります。ここで考えさせられるのは「人がその友のために」と言っている事であります。イエスだったならば、「人はその敵のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない」といいそうではないでしょうか。なぜ「敵」ではなく、「友のために」なのでしょうか。
 
 それはここでイエスが言いたい事が、その前の句にあります「わたしのいましめはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」といわれ、それに続いて「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言っているわけで、「お互いに愛し合う」という事が目的なので、それで「敵のために」にではなく、「友のために」となっているのではないかと思います。

 つまり大事な事は、ただこちらの一方的な愛ではなく、「お互いに愛し合う」という関係を作り出すことなのであります。それならば、「友」でなければならないわけであります。そして「お互いに愛し会う」関係を作り出すためには、どうしてもある時には、こちらが一方的に、この自分の命を捨てるという覚悟がないと、お互いに愛し合うという関係は成り立たないのであります。もちろん敵を愛するという事は、その最後的な目標は、その敵との関係が友との関係になって、お互いに赦し合い、お互いに愛し合うという事を願っている事は確かであります。しかし、ただ「敵を愛する」ということだと、何か相手はどうでもよく、ただこちらの自己犠牲だけが浮きぼりにされるようになって、それでは何のために自分の命を捨てたかわからなくなってしまうのであります。自分の命を捨てて、そういう自分の姿にほれぼれしているようでは、イエスが「自分の命を捨てなさい」と言われる事と全く遠いものになってしまうのであります。
 
イエス・キリストは確かに、われわれが神と敵対関係にあった時に、われわれのために命を捨ててくださったのであります。しかしそれはあくまで、われわれの神との関係を敵対関係から、友との関係に変えるためにそうなさったのであります。
「お互いに愛し合う」という事、この事の中に、自分の命を捨てるということが正しく行われるのであります。
 
 その事をイエスは「わたしのために、また福音のために、自分の命を失う者は」と言われるのであります。「わたしのために」という事は、イエスのためにという事であります。つまりこの私を救うためにご自分の命を捨てようとするイエスのためにであります。われわれはそういうイエスの愛を考える時に、一番正しく愛するという事を学ぶことができ、自分の命を捨てるという事ができるのであります。いたずらに悲壮感にとらわれたり、殉教者気取りで命を捨てる事を考えてはいけないのであります。

 友のために命を捨てるという事は、ある意味では平凡な事、しかし実際にそれをしようと思ったらとても難しい事、本当に謙遜にならないと出来ない事なのであります。愛するという事は、お互いに愛するという関係を作り出す事が大事なのであります。こちらがただ一方的に自己犠牲的に愛していればいいと言うのではないのです。相手から愛を引き出す、それはやさしてようでいて、これは本当に難しいのであります。よほどこちらが謙虚になつていないと、自分の命を捨てるほどに深く愛さないと、相手から愛を引き出すことはできないのであります。どうしたらそのような愛を行うことができるか、それは努力だけでは、根性とか、頑張ってみてもだめなのであります。愛は、人から愛を受けて始めて、人を愛する事も学べるのであります。愛されて始めて、人を愛する事も学べるのであります。そのためには、イエス・キリストから学ばなければならない、イエス・キリストを心から愛するようにならなければならないのであります。イエスを恥じるようであってはならないのであります。三八節。

 「わたしのために、また福音のために、自分の命を捨てる」という事は、戦争中の日本のように、国家のためにとか、天皇のために命を捨てるという事とは違うのであります。あるいは何か宗教の教祖様のために命を捨てるという事でもないのです。このわたしを愛し、このわたしを救うためにご自分の命を捨てようとなさり、そして事実捨ててくださったイエス・キリストのために、その福音のために自分の命を捨てなさい、というのであります。それはそのイエスを愛して、従っていきなさいという事なのであります。

 これは個人的な思いかも知れませんが、「命を捨てる」という言葉は、あの戦時中のスローガン、国家のために天皇のために命を捨てるということを思い出して、この言葉はあまり軽々しく使いたくないのであります。それよりは、イエスを愛していく、イエスに従って行くという表現の方がイエスの意図していることを正しくあらわしていると思います。そういう中で、自分を捨て、自分の命を捨てていく、ということ、そしてそれは自分の救いを求めるという事につながっていくのだという事であります。