「神の子イエスの栄光」  マルコ福音書九章一ー八節

六日ののちイエスが、弟子のうち、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登られた時であります。彼らの目の前で、イエスの姿が変わり、その衣は真っ白く輝き、どんな布さらしでもそれほどに白くすることができないほどに白く輝いたというのであります。するとそこに預言者のエリヤが現れ、またモーセが現れてイエスと何事かを話合っていたというのであります。それを見たペテロはあまりのすばらしい神秘的な光景を目の前にして、これを永久的な記念にしておきたいと思って「ここにいるのはすばらしい事です。この
三人を記念して小屋を立ておきましょう」と言ったというのであります。

たいへん不思議な神秘的な出来事であります。イエスは大工の子として生まれ、そこで育てられて、そして三十才の頃、メシヤとしての自覚をもって、福音をのべ伝え始めたのですが、このような神秘的な出来事は今までなかったのであります。わずかに、イエスがバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられた時、天からの声が聞こえて「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声が聞こえたとあるだけであります。その時、天が裂けて聖霊がはとのように自分に降ってくるのをごらんになったというのであります。しかしこの出来事は、イエスだけに示された事として聖書は記しております。

イエスは神の子であり、メシヤなのですから、こうした神秘的な事があっても一つもおかしくないのに、イエスのこの地上の生活においては今までそういう事はなかったのであります。イエスの神の子らしい出来事はこの山での出来事、ただ一回だけで、その事がこの山の上で三人の弟子達にも見える形でおこったのだというのであります。これはあまりに神秘的な出来事であったために、こんな事はそのまま体験したというのはありそうもないと思ったのか、ルカによる福音書だけは、これはこの三人の弟子達がその山の上で眠っている間に、熟睡している間に起こっていて、半分眠り心地の中で、目を覚ました時に、この三人の姿を見たのだと記しております。半ば夢のような状態の中で起こったのだと記すのであります。

しかしペテロの第二の手紙では、三百七二頁、ペテロがこう書いているのであります。「わたしたちが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな光の中から次のようなみ声がかかったのである。『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。』わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。」

このペテロの第二の手紙は、ペテロが書いたものではないだろうというのが、今日の聖書学の定説になっておりますが、しかし弟子のペテロが自分が体験した事をみんなに話していたことが人々に口伝えに伝わっていって、このような形で書かれるようになった事は否定出来ないことであります。

この神秘的な体験は、やはりペテロたちの心に強烈な印象を残した出来事であった事は確かのようであります。わたしどもはできる限り理性的でありたい、荒唐無稽的な事はできるだけ排除していきたい、それが健全な、そしてそうであるが故に正しい強い信仰を育てるのであると思っております。宗教なんだから、という事でこうした神秘的な出来事を無批判に信じなくてはいけないというような姿勢は持ちたくないと思います。

今日の正典となっております、旧新約聖書六十六巻の聖書もそういう立場で、これは信頼出来る書物だということで正典として残っていったのであります。今日正典からはずされていったイエスに関する書物、外典といわれている書物には、イエスが小さい時いろいろな不思議な事をしたのだ、子どものイエスが土で鳥を造り、息を吹きかけたら、それがみんな飛んでいったというような話があるそうですが、そうした事は荒唐無稽な話だとして、健全な教会はそういう話は排除していったのであります。しかしこの山の上での出来事、普通これを「山上の変貌」といいますが、この不思議な神秘的な出来事は、ペテロたちが実際に体験した事で自分達はその目撃者なのであって、決して作り話なんかではないんだと言って、みんなに話していたために、このように聖書に残っているのであります。

そしてこれは、この出来事がただ事実だったから、このようにして残っているという事もありますが、それだけではなく、これがイエスの生涯と福音を明らかにするために大切な出来事であったために、聖書に残っているのであります。

二節をみますと、六日の後、とあります。いつからの六日の後なのか、と言いますと、イエスが弟子達の信仰の告白を受けて、始めてイエスが公にご自分が多くの苦しみを受け、殺される事を告げた、あのピリポ・カイザリヤでの出来事があって六日の後という事であります。

この時旧約聖書を代表する預言者エリヤと律法を代表するモーセが現れて、イエスと語りあっていたとあります。なにを話していたのか。ルカによる福音書には、「エルサレムで遂げようとする最後のことについて、話していたのだ」と記しております。エルサレムで起こる最後の時とは、イエスが十字架で殺されるということであります。

つまり旧約聖書を代表する預言者エリヤと律法を代表するモーセが二人とも現れて、イエスを励ました。何を励ましたかといいますと、イエスがエルサレムで最後に遂げようとする十字架を励ましたのであります。励ましたというよりは、神の子であるイエスが十字架で死ぬ事、それは神の子としてふさわしい最後だ、人間の罪を裁き、そして人間の罪を救うためにはどうしてもイエスが十字架で死ぬ以外にないのだ、預言者の力では駄目だった、律法の力では失敗に終わった、神の子であるあなたが人間の罪を担って十字架で死ぬ以外にない事をこの旧約聖書を代表する人物たちが現れて承認したという事であります。

旧約聖書を代表するもう一つの陣営、祭司はなぜ現れないのかと言われるかも知れませんが、イエス・キリストが今大祭司として、十字架で子羊とししてみずから供え者となろうとしているから、ここに祭司は登場する必要はないのかも知れません。ここに旧約聖書を代表する、預言者、律法、そして祭司、それらを代表する三者が集まって、人間の罪をどうしたらいいか、人間を救うためにはどうしたらよいかを話し合い、そして十字架の死を承認したということであります。そうであるならば、イエスの衣が真っ白に神々しく輝いても不思議はないのであります。

これはイエスが神の子であり、メシヤである事の天からの告白だといえないでしょうか。そしてこの告白は、あの人間の信仰告白、ペテロたちの信仰告白に対して、なんとゆるぎない告白ではないでしょうか。

ペテロたちは確かにイエスに対して、「あなたこそキリストです」と告白しているのであります。しかしすぐその後、イエスがご自分の使命について語り、ご自分が十字架で殺される事を語りだしますと、ペテロはそんな事はあってはなりませんと、言って、イエスからひどくしかられてしまうのであります。そしてイエスがとらえられると、弟子達はみな逃げ出してしまったのであります。彼らの信仰告白がいかに頼りないものか、ということであります。

それに対して、天からの信仰告白、このイエスこそ本当の神の子であり、救い主メシヤであること、キリストであるという告白はゆるぎないものだという事を示すのが、この山の上でのイエスの衣が真っ白く輝いたという出来事ではないかと思います。
テモテへの手紙の中で、パウロが言っております。
「たとい、わたしたちは不真実であったとしても、イエス・キリストは常に真実である。彼は自分を偽ることができないからである。」
私どもの信仰告白はいつも頼りないのであります。しかし神の私どもに対する真実はゆるぎないのであります。

イエスが誕生した時も、人間の住んでいる地上では、神の子の誕生に関して誰も関心を示そうとはしませんでした。しかし天の上では、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神を賛美して「いと高きところでは神に栄光があるように、地の上では、みこころにかなう人々に平和があるように」という合唱がこだましていたというのであります。その事を「失楽園」を書いたミルトンは、神が、御子をおつかわしになることが発表された時、天がどよめいた、と書いているそうであります。

そうであるならば、その御子イエスが十字架で死ぬことが天で発表された時、どんなに深いため息がもれただろうと思います。そして早速、旧約聖書を代表する預言者エリヤとモーセを地上に派遣して、そのイエスを励ましたと考えても不思議はないのであります。

旧約聖書ではこの預言者エリヤとモーセの死については不思議なことが書かれているのであります。エリヤは、弟子のエリシャがみている前で、つむじ風にのって天にのぼられていったというのであります。そしてエリヤが身につけていた外套だけが天から落ちて来たというのであります。

またモーセが死んだ時は百二十才であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった、というのです。そして神は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はいない、としるされているのであります。エリヤもモーセも確かに死んだのであるが、その死体を確認することはできないというのであります。それはあの創世記にあります記事、人の生涯について書いている中で、彼は何才まで生きた、そして死んだと書かれている中で、ただ一人エノクについてだけは「エノクは神とともに、歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」と記しているのであります。

預言者エリヤとモーセはそのようにして、神が彼をとられたので、いなくなったというような死にかたをしたのだというのであります。
エリヤとモーセはその死体が確認できないような不思議な死にかたをして天に召されたのであります。だから今天から真っ直ぐにイエスのもとに降りてきたのかも知れません。それに対してイエスはどうであったか。イエスは十字架の上で殺され、本当に死んだかどうか、槍でつつかれて確認されて、十字架から降ろされ、そして墓に葬られたのであります。それは確実に死んで葬られたのであります。われわれ罪人が死ぬ死にかたと全く同じようにして、いやそれ以上に大きな犯罪を犯して死んでいった罪人らしい死にかたをして死んでいかれたのであります。そして自分の罪の実態をなかなか認めようとしないわれわれ人間が、自分の本当の隠された罪の実態を知り、悔い改めるためには、どうしてもこのような死が必要であったという事であります。

あのいわば、栄光に包まれて堂々と天に召されていったモーセやエリヤのような死にかたでは、人間は、罪人であるわれわれは救われなかったのであります。イエス・キリストは「傷ついた葦をおることなく、ほのぐらい灯芯を消すことなく、」といわれているように、決してはなばなしい救い主の歩みかたではなく、最後にはみじめに十字架の上で、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれて死んでいったイエス・キリストこそ、本当の神の栄光を担う神の子であり、キリストであることを示すために、天からの承認があり、そしてその事をあらかじめ弟子のうちのペテロたちに一瞬お示しになったのであります。イエスの栄光とは、結局はあのみじめな十字架の死、それが神の子の栄光であり、それを離れて神の子の栄光を考えてはならないというのであります。

雲が彼らをおおって、その雲のなかから声があった。「これはわたしの愛する子である。これに聞け」というのです。この言葉はイエスがヨハネから洗礼を受けられた時に天からあった声と同じであります。イエスが罪人の一人としてヨハネからバプテスマを受けた時、そのように罪人のひとりとしてへりくだったイエスに対して天からの承認があり、同じように「これはわたしの愛する子、わたしのこころにかなうものである」という声があったのであります。その同じ天からの承認の言葉であります。一つだけ違う言葉が付け加えられました。「これに聞け」という言葉であります。それは十字架の道を歩もうとするイエスに「聞け」という事であります。

この事があって山からくだった時、イエスは「この出来事は、人の子が死人の中からよみがえるまでは、だれにも話してはならない」と言われたのであります。これは弟子達にしてみれば、栄光に満ちた、神々しい体験だつたのであります。小屋でも立てて、永久保存したいと思っても不思議はないのであります。しかしイエスはそんな事はするなと言われたのであります。なぜならば、このイエスの神の子の栄光は、あくまで十字架の栄光であり、十字架を通っての栄光であるという事であります。従って、これは復活の栄光の前触れなのであります。復活もあのみじめな十字架の死を帳消しにしてしまう勝利とか、栄光ではなく、あの十字架の死こそ神の勝利、人間の罪と悪魔の策略に対する勝利なのだという証としての復活なのだという事であります。

神の子の栄光を表そうとして、立派な会堂を立てて、美しいステンドグラスを造るのも結構なことかも知れませんが、しかし聖書が証する神の子の栄光は、あくまであのみじめな醜く死んでいった十字架なのだという事を忘れてはならないのであります。その事を忘れて、十字架を美しく飾ろうとすると、私どもは神のお考えになっている救いから離れた救いわ求め始める事になることを考えておかなくてはならないと思います。