「福音を信ぜよ」          一章一ー一五節

 竹森満佐一の説教の中の言葉で、大変好きな言葉にこういうのがあります。それは確か、竹森満佐一自身の言葉ではなく、誰かがこう言っていると、紹介している言葉だったのではないかと思います。決断ということについての言葉であります。
「われわれは決断するという事は『こう決めた』ということだと思いがちであるが、そうではない。決断という事は、まず自分の中に何かが生まれてくる事だ、何かができて来ることだ、そしてそれを豊かに育てていく事だ、そしてそれを清めることだ、そのようにしてそれを本当に実現する事なのだ。何かを決めるという事は、手をたたいてぱっと決めるような事とは違う」というのであります。

 何か大切な事を決めようとする時、私はいつもこの言葉を思い出し、また人が、特に若い人が何か重大な事を決める時、この言葉を思い出すのであります。婚約式の時には、いつもこの言葉を引用して、決断ということ、何かを選ぶという事の大切さを知って貰うのであります。

 イエスが、いよいよ自分が公に活動する時が来た、自分の使命の時が来たと思った時にまず言われた言葉は「時が満ちた」という言葉だったというのであります。

 「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」新共同訳では、「時は満ち、神の国が近づいた。」と訳されておりまして、そこでは神の国が近づく時が満ちた、それでいよいよ自分が宣教する時が来たというように、訳しております。そのように取る事もできると思いますが、原文を見ますと、時は満ちた、そして神の国が近づいた、となっておりますので、このイエスの第一声の「時は満ちた」という言葉は、いよいよ自分が宣教する時が来たという思いを込めた言葉、そういう深い決断を表す言葉としてとってもいいと思います。
 
イエスはそれまでじっと時の熟するのを待っていらしたのであります。三十年間待っていた。そしてヨハネからバプテスマを受け、荒野でサタンの試みに会われ、それからも待ち続けたのであります。あのヨハネからバプテスマを受けた時、天が裂け、聖霊が鳩の様に下って「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声を聞き、確信を得ているのであります。それならばその時、宣教を開始してもいい筈なのに、この時までじっと待っておられた。

 イエスはそのような聖霊の御言葉を聞いて、神の子としての自覚を持ち、自分のメシヤとしての救い主としての使命を感じ、一日も早く行動を開始したいと思ったことだろうと思います。しかし待っていた。

 われわれは何かをしたいと思う気持ちだけでは、その決心はまだまだ弱いのではないでしょうか。それはうっかりすると、自分はこうしたいのだという、ただ自分の個人的な欲求、利己的な要求から、そうしたいのだということに過ぎないかも知れないからであります。そうして、そういう個人的な欲求、利己的な要求というのは、強そうでいて、何かの障害にぶつかると、たちまち萎えてしまうという弱い決意なのではないでしょうか。

 しかし、その「なになにをしたい」という欲求が「そうせざるを得ない」という、やむにやまれぬ思いにまで高まる時、それは大変強いものになるのではないでしょうか。つまりもう単なる自分の個人的な欲望、野心とかを越えて、外からつき動かされるようにして、そうせざるを得ないと促される時、その決断は強いものになるのではないか。

 モーセは、ある時自分の同胞がエジプト人に虐げられているのを見て、我慢できなくなって左右を見回し人のいないのを確かめて、そのエジプト人を殺し、土の中に埋めて知らん顔していたのであります。翌日、今度は同じイスラエル人どうしでケンカをしているのをみて、どうして同じ仲間で争うのかと諌めますと、「誰がお前をわれわれの裁判人にしたのか。お前は昨日エジプト人を殺したように、われわれをも殺そうとするのか」と言われて、自分がエジプト人を殺していた事がもう町中に知れわたっている事を知って、恐くなって遠いミデアンの地まで逃げていったのであります。そうしてそこで結婚をし、子どもをもうけ、そうして多くの日を経て、モーセはあの神の山ホレブで神の啓示を受けて、自分の同胞の民をエジプトから導き出す使命を神から与えられるのであります。その時はもうモーセは自分の同胞を助けようなどという熱意はすっかりなくなっていて、、自分はとてもそんな任には耐えられませんと、さいさい辞退して神様に叱られるのであります。しかしそれでも神に促されて、イスラエルの民をエジプトから連れ出す指導者として立ち上がるのであります。ただ自分がそうしたい と思うだけの決心だけでは、何かの障害にぶつかったら、たちまち挫折してしまうのであります。
 モーセは、同胞を救おうとしてエジプト人を殺してから何年待たされたかわからないのであります。そして「時が満ちて」神がモーセを召したのであります。

 「決断とは、自分の中に何かが生まれて来て、そしてそれを豊かに育て、そしてそれを清めることだ」という、清めるという事は、この事を指しているのではないか。その決心が自分の単なる欲望か、野心というものだろうか、と自問自答して、そうではない、本当に自分はこの事をしたいのだ、そうせざるを得ないのだと考える事ができるようになる、それが「清める」ということなのではないかと思うのであります。
 
 イエスがどんなに深い思いで、自分が宣教する時を待っておられたか、神がお決めになる時まで待っておられたか。イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、自分の故郷ナザレを去って、ガリラヤ湖の海辺の町カペナウムに行ったとマタイは記しております。マルコは簡単に、「イエスはガリラヤに行き」と記しております。そしてマタイは、これは預言者イザヤの預言が成就したのだと言うのであります。そのガリラヤの町は「異邦人の町ガリラヤ、暗黒に住んでいる民は大いなる光を見た」という町で、イザヤの預言が成就したのだというのであります。

 イエスが活躍した時には、ガリラヤの町はむしろユダヤ人の勢力が支配していて、エルサレムのユダヤ人よりも急進的な愛国主義者が多かったという事であります。イスカリオテのユダなどもその一人であったと言われているのであります。ですからこの時代にはもう異邦人のガリラヤという表現はあたらないかも知れません。しかし、それはともかくイエスはイスラエルの首都エルサレムに出向いて、宣教を開始したのではなかった。エルサレムから遠く離れたガリラヤで宣教を開始したのであります。言ってみれば、東京で宣教を開始したのではなく、青森で宣教を開始したのであります。

 そこはバプテスマのヨハネがヘロデによって捕らえられ、惨殺された土地、ヘロデの暗い支配がおおっている土地、そこで静かに宣教を開始したのであります。

 人々はバプテスマのヨハネに期待していました。この人こそ、「来るべきメシヤ」なのではないかと望みを託していたのであります。しかしこのヨハネは、そのガリラヤの支配者ヘロデを結婚問題で非難したために、捕らえられ、ただヘロデの面子のために無惨にも殺されてしまうのであります。この事は六章のところで学ぶことになります。ともかく人々が期待し、希望を託していたヨハネが捕らえられて、すっかり意気消沈していたそのガリラヤで、イエスの福音は宣べ伝え始められたのであります。

 ヨハネは「悔い改めよ。天国は近づいた」と宣教し、イエスも「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言って、宣教を開始したのですから、ヨハネの宣教とイエスの宣教はよく似ているのであります。ヨハネは無惨な死を遂げ、イエスもまた無惨な死を遂げたという事でもよく似ているのであります。しかし根本的に違っておりました。

 ヨハネは人間の正義を代表し、イエスは神の正義を代表しました。従って、ヨハネの無惨な死は、人々をおびやかしました。ヘロデは、イエスが宣教を開始した時、みんながあれはヨハネが生き返ったのではないかという噂をしているのを聞いて、おびえたというのであります。ヨハネの死は罪を犯した人間にとっては、裁きであり、人をおびえさせるものでありました。

 しかしイエスの死は、罪人にとって慰めとなり、救いとなったのであります。それがイエスの第一声「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」という言葉に表されているのであります。

 イエスは「悔い改めて、福音を信ぜよ」というのであります。ヨハネは「悔い改めて、よい業を行いなさい。悔い改めにふさわしい実を結べ。斧がすでに木の根元におかれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。」(マタイ福音書)といい、「下着を二枚もっているものは、持たない者にわけてあげなさい」(ルカ福音書)というのであります。
 
 しかしイエスは、悔い改めて「福音を信ぜよ」というのであります。「神の国は近づいた」と、イエスもヨハネも言って、だから「悔い改めなさい」というのです。神の国というのは、この「国」という字は、ギリシャ語では、支配という意味をもった言葉だそうであります。ですから、神の国というのは神の支配する時がいよいよ来たという意味であります。勿論それまでも、神の支配がなかったわけではないのです。しかしそれまでは、パウロの表現を使えば、神は忍耐をもって見逃しておられた、罪を犯すままにさせていたと言うことであります。しかしいよいよ神が行動を起こす時が来た、というのであります。ヨハネは、その神の支配を神の怒りがいよいよくだる時が来た、と考え、だからその怒りから逃れるために悔い改めにふさわしい良い行いをしなさい、といったのに対して、イエスは、神の支配を喜ばしい福音の訪れの時が来たと考え、だからなによりも、悔い改めて、福音を信じなさい、といったのであります。

 神の支配を、神の怒りの支配ととらえるか、神の赦し、神の恵み、神の愛の支配の時としてとらえるかによって、悔い改める姿勢はずいぶん違ってくるのであります。

 悔い改めるとは、もともとは方向転換する、向きを変えるという意味をもった言葉であります。神の支配を神の怒りとしてとらえたら、その方向転換は今まで悪い事をしていたら、それを良い行いをするように方向転換し、悔い改めなさいという意味になるでしょうが、しかしそれでは本当の方向転換、向きを変えるということになるのでしょうか。それでは相変わらず、目を、思いを自分の方に向けているのであって、ひとつも神の方に目をむけていないのであります。しかしもし神の支配という事を、神の愛としてとらえるならば、愛というのは、それは信じる事によって自分のものになるものですから、信じることによってしか、自分のものにならないものですから、視線はもう自分にではなく、相手に向けられている。相手の思い、相手の言葉をじっと聞いていこう、そのかたにともかく従ってみようという事になるのであります。

 愛は信じる以外にないのであります。それは愛する側にたったならばよくわかるのではないでしょうか。われわれも時には愛する側に立つ時があります。その時われわれが相手に切実に望む事は、この自分の誠意を信じて欲しいということではないでしょうか。そのためにいろいろとプレゼントしたりしますが、そういう事を通して、ともかく自分を信じて欲しいという事なのではないかと思います。

 悔い改めるとは、もう自分についてあれこれ反省すること、あの時はこうしてしまったああしてしまったという後悔とは、違うのであります。悔い改めるとは、その後悔する事まで捨ててしまうという事であります。もう自分のことをうじうじと反省するのをやめよう、と思うことです。神の赦しと、神の恵みと、神の愛を信じてみようとすることであります。その時に、思いがけないほどに、良い行いも生まれてくるのであります。それは自分をふっきった良い行いですから、それによって人にどう思われようとあまり気にしなくなる。それは神経質なぴりぴりした、人を裁くような良い行いではなく、もっとおおらかな、人に赦しを与えるような良い行いになるのではないでしょうか。

 神の支配を神の恵みを信じてみる。信じた後、どうなるのでしょうか。しかし信じたのに、信じた後のことまで、どうなるのかとこちらがあれこれと詮索するのはおかしいのであります。信じたあとどうなるのか。それは神様に任せてみてはどうでしょうか。