「だれが一番偉いか」 マルコ福音書九章三○ー三七節

イエスの一行がカペナウムに来た時であります。家におられる時、イエスは弟子達に「あなたがたは途中で何を論じていたのか」と訊ねたのであります。その家はペテロの家だったのではないかとも言われます。そして後でイエスが幼子をとりあげますが、それはペテロの子供だったのではないかとも言われます。それはともかくとして、イエスは弟子達がその旅の途中で盛んに論じている時には、口をはさまないで、家に入って落ちついた気分になった時に、弟子達に「お前たちは途中で何を論じていたのか」と聞かれたという事は、イエスがこの問題をどんなに深刻な問題として感じておられたかという事であります。

三五節をみますと、イエスはすわって十二弟子を呼び寄せて言われたとあります。家に入ったのですから、当然座っていたのかも知れませんが、しかしここで聖書はわざわざ「座って十二弟子を呼び寄せて」とあるのは、やりはこの問題は一つじっくり話しあわなくてはならない大切な問題だとお思いになったからではないかと思います。

その問題とは何かと言いますと「だれが一番偉いか」という問題であります。
弟子達はイエスに従う時、この世的なものは一切を捨ててイエスに従った筈であります。それなのに、というよりは、それだからこそ彼らに残されたただ一つの関心事は、「だれが一番偉いか」という事であった、それは後にもう一度出て参りますが、「天国ではだれが一番の上席につくか、天国ではだれが誰が一番偉いか」という事であります。

弟子達は自分達が集まるとその事ばかり論じていたようなのであります。そしてそれは彼らにとっても後ろめたい議論だったようで、イエスから改めて「何を論じていたのか」と言われた時、彼らは黙ってしまったというのであります。この問題はわれわれ人間にとって一番関心のある問題であり、そして一番危険な関心事であるという事であります。そしてイエスにとっては、とくにこの事が、ご自分が十字架につこうとしておられる事を二度目に改めて弟子達に語ったばかりなのに、弟子達がこの事を論じ合っていたという事と関連して、どうしてもこの問題についてはじっくりと考えておかなくてはならいと思われたのではないかと思います。なぜなら「だれが一番偉いか」と言う事を求める生き方は、イエスの十字架の道と正反対の道を進ことになりかねないからであります。

「偉くなりたい」という願いをもつという事は悪いことなのでしょうか。若いときは、今の若い人はそういう指向はないようですが、われわれの若いときはみんな「偉くなりたい」という望みと野心で勉強したのではないかと思います。クラーク博士は「少年よ、大志をいだけ」といって、若い人にはっぱをかけて教育したのであります。それによって内村鑑三とか優れた人が育っていったのであります。
確かに「偉くなりたい」という指向には、「有名になりたい」というつまらない野心が潜んでいて、あまりほめた話ではないかも知れませんが、しかし偉くなりたいと言う望みそのものは、特に若いときにそういう事を志す事はそう悪い事ではないように思えます。

問題は「偉くなりたい」という指向は、必ず「一番偉い人になりたい」「だれが一番偉いか」というように、「一番」がつくところが問題んのではないでしょうか。

今オリンピックが開かれておりますが、相変わらず今日本人が関心があるのは、誰が金メダルをとるかという事であります。そして金メダルが大事で、もう銀や銅では価値がないように思われているという事であります。ともかく金でなければ駄目だという考えが、問題なのではないでしょうか。
つまり、金でなければ駄目だ、一番でなければ駄目でという事、二番三番では価値がないという価値判断、これが一番危険なところではないでしょうか。
一番でなければ駄目だ、二番三番はもうくずみたいなものだという考えには、少し難しく言いますと、価値の多様性を認めないという事で危険な考えだという事であります。
一番だけが尊く、一番だけが偉く、価値があるという事は、この一番の人が持っている価値観ですべての人を支配しようという思いが生じてくるのであります。

最近、河合隼雄という心理学者の書いた本が面白くて、よく読むのですが、最近出た本は、「河合隼雄、その多様な世界」という本であります。これは始めに河合隼雄が講演をしてその後いろいろな分野の人が河合隼雄を中心にしてシンボジュウムをしたのを本にしたものですが、その本の題名「河合隼雄 その多様な世界」という題名が示しておりますように、河合隼雄という人に惹かれるのは、そのものの考え方の多様性、柔軟性という事であります。心理学者でまた精神に病をもっている人を実際に治療に当たる臨床家でもあるわけですが、河合隼雄はその患者の治療に当たるときにも、自分の価値観とかを絶対に押しつけない、その患者ととことんつきあって治療にあたる、長い人だと七年八年とつきあうのだそうであります。

その講演の中だ言っているのですが、多神論と言う事をもっと考えていいのではないかというのです。これは多神教がいいというのではない、多神教とか一神教というのではなくて、多神論ということなのだ、多神論的な思考でいくか、一神論的な思考でいくかと言う事だというのです。一神論的なものの考え方になると、そこではなんの矛盾もない完全に統一された理論でひとつのものができあがってしまう。そこには必ず一つの真実があるはずだ。その真実によって物事を解決いるのだという考え方がある、この一神論的な方になってくると、人間がだんだん神さんの場を自分がしめるようになってくる、自分が神さんになって、この世界をちゃんとつくってやるぞ、だからおれが操作すると全部うまくいくというふうになってきてしまう、そこでは相手を自分の価値基準で相手を支配しようとしてしまう。

それは危険だというのであります。自分のところに会社の社長さんが来て、「私は従業員三百人をあごで使う事ができるけれども、子供に新聞を買いにいかすことができない」といったというです。高等学校の子に「おい、新聞買うてきてくれる」といつたら、息子が「なんや、おまえ買うてこいや」といわれ、「おれ、行ってくるわ」とかなんとかいって、お父さんが新聞買いにいくというのです。自分の従業員はお金で雇っているから、社長のいうとおりに相手を支配できるけれど、子ども完全にひとつの世界をもっているから、子どもを操作することはできないのだと言ってりおます。そうして自分がだんだん神さんの位置になってきて、世界を動かすように全部操作しようという考え方で、一神論的な思考方法をもつていくと、すごい誤りが生ずるのではないかと。なぜかというと、みんながみんないろいろな考え方をもっているからだといっているのであります。

一番だけが尊いという考え方は、ある意味では、この一神論的な考え方なのではないか。河合隼雄が言うように、一神教か多神教かという問題ではないのです。むしろ聖書の世界では、神は唯一で、神だけが絶対なのだから、人間が神の位置についてはいけない、唯一の神以外のもの、つまり人間を偶像化してはいけないという事で、一神教の、聖書の教える唯一の神という考えこそ、神以外のものをすべて相対化できるのではないかと思うのであります。

問題なのは、「偉くなりたい」という事ではなく、「一番になりたい」「一番以外に価値がない」というものの考え方であります。
しかし人間には、どうしてもこういう指向はもつているものであります。それをあんまりむきになって根絶する必要もないと思います。

山形の山の中に独立学園という非常にユニークな教育をしている学校がありますが、これは無教会の先生が非常に高い教育理念に燃えて造られた学校のようですが、私の友人の牧師の娘さんがその学校に入りましたので、いろいろとその学校の様子を聞いておりますが、そこでは校長も平教師も同じ給料で働くとか、そこでは競争ということは、キリスト教の理念に反するというので、一切の球技はしないそうであります。わたしはそれを聞いて、随分無理をしているな、と思ったものであります。それも一つのユニークな教育で、日本に一つくらいそういう学校があったていいとは思いますが、しかしそれも何かずいぶん余りにも硬直した考え方になっていないか、一つの理念を絶対化しすぎていないかという気がしたのであります。一番になりたい、一番になった時の快感というものはやはり人間にはあるものですから、そういう快感は、せめてスポーツの世界で発散させておいた方がいいのではないかと思うのであります。

イエスは弟子達の一番の関心事である「だれが一番偉いか」という考え、その価値基準をこわすために、こういうのであります。「だれでも一番先になろうと思うならば、一番あとになり、みんなに仕えるものとならなねばならない」というのです。
一番先になろうと思う人、一番偉い人間になりたいと思う人は、やはりどこかに能力がある人であるかも知れません。多少力があるからそういう野心ももとうとするのかも知れません。それを無理になくするという事は出来ないと思いますし、またそうする必要もないのであります。一番あとになりなさいと、イエスは言われた後、すぐ続けて、一番後になるという事は、何も無理して自分は駄目な人間なんだと思いなさいという事ではなくて、一番後になるという事は仕えることなんだ、みんなに仕えるという事なんだというのであります。それは自分の持っている力を無理に抑えたり、放棄したりすることではなく、その自分のもっている能力を、仕えるという事で発揮すればいいのであります。

山登りの時、一番後につくのは、山の登りのベテランであります。落後者はいないか、道に迷う人はいないか、一番後ろから絶えず心配しながら、気を配りながら、みんなの一番後ろから、山を登るのであります。それが一番後になるという事で、それが仕えるという事なのであります。

そしてその後イエスは、ひとりの幼子をとりあげて、こう言われるのであります。「だれでもこのような幼子のひとりを、わたしの名の故に受け入れるものはわたしを受け入れるのである。そして私を受け入れるという事は、神様を受け入れるということなのだ」というのであります。

これも大変不思議な言い方であります。
イエスがここで言いたい事は、「一番偉くなろう」なんて、傲慢な偉そうな気持ちを抱こうとしないで、もっと謙遜になりなさいという事なのであります。謙遜になるという事をイエスはここで、幼子のようになりなさい、と直接言わないで、「わたしの名のゆえに、この幼子を受け入れる」ものは、という言い方をするのであります。

もっともマタイによる福音書の方では「天国ではだれが一番偉いのですか」という弟子の質問に答えて、「この幼子のように自分を低くするものが天国で一番偉いのである」と直接言っております。そしてその後で、「まただれでも、このような幼子をわたしの名の故に受け入れるものは私を受け入れのである」というのであります。

どちらが直接イエスの言葉なのかは分かりませんが、福音書の成立過程からすると、マルコの方が先ですから、やはりこのマルコの言い方の方がイエスの言葉に即しているかも知れません。

考えてみれば、もう大人になってしまったわれわれは、幼子のようになれと言っても、できないのであります。しかし幼子そのものになることはできなくても、幼子を受け入れる事はできると思います。しかもその幼子がかわいいとか、天使のようだとかいって受け入れるのではない。またその人の心の大きさで小さいものを受け入れという事でもない。そんな受け入れ方だったら、一つも謙遜とは結びつかないのであります。ここでたとえられている幼子は弱いもの象徴としての幼子であります。あるいはもう何も役に立たないものの象徴としての幼子であります。その幼子をイエスの名の故に受け入れるという事であります。
「イエスの名の故に」とは、どういう事でしょうか。

パウロも、コリントの教会の人に、「弱い兄弟を受け入れなさい。」と勧めているところがあります。その時その理由として、パウロは「キリストはその弱い兄弟のためにも死なれたのである」と言うのであります。それはキリストはお前のために死なれた、そのキリストはあの弱い兄弟の為にも死なれたのだ、だからその弱い兄弟をつまずかせてはならない、その弱い兄弟を受け入れなさい、とすすめるのであります。

つまり、「イエスの名の故に」という事は、世俗的な言葉で言えば、親分に免じて許しましょうという言い方であります。世話になった親分がそういうのならば、許しましょうという事であります。それはこちらの心の大きさなんかではなく、一重に今までさんざん世話になった親分のため、自分の命を助けくれた親分のために、親分に免じて許しましょうという事であります。たとえが悪いかも知れませんが、そういう事であります。

私のために死んでくださったイエス・キリストのために、そのキリストがその弱い兄弟にも同じように死なれた事を思い、その兄弟を受け入れる、その時に私どもは始めて打ち砕かれ、謙遜になれるのであります。

イエス・キリストの名を思い出すと、いつでも自分のために死んでくださったイエス・キリストの事を思わないわけにいかないのであります。それは自分の弱さと自分の罪を思いださないわけにはいかないという事であります。
自分のいたらなさと自分の弱さと、自分の罪を思い出しながら、その自分のために死んでくださったイエスの名の故に、同じように弱い存在である幼子を受け入れる、そうする事がただ一つわれわれが謙遜になれる道なのであります。われわれは自分の努力とか決心で謙遜になれる事は到底できないのであります。