「最大の罪とは何か」 マルコ福音書九章三八ー四八節

弟子のひとりのヨハネがイエスに「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについて来ないので、やめさせました」と、いったのであります。

するとイエスは「やめさせないがよい。」と言われたのであります。ずいぶん寛大な事をイエスは言われたのであります。イエスはある時には、「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである」と言われた事もあるのであります。

そのときは、「わたしと共に集めないものは、散らすものである」というのですから、イエスの名前を使い悪霊を追い出しながら、イエスたちについてこないというのですから、それはイエスと共に集めないもので、当然イエスの味方ではないはずであります。それなのにイエスは「わたしに反対しないものは、わたしたちの味方である」とヨハネに対していうのであります。

このヨハネという弟子は、ボアネルゲ、すなわち雷の子というあだ名がつけられた位に激しい性格だったようであります。後で出てまいりますが、このヨハネと兄弟であるゼベダイの息子であるヤコブがイエスの所にやって来て、あなたが天国にいらした時には、わたしたち兄弟の一人をあなたの右に、一人を左に座らせてくださいと申し出て、他の弟子達のひんしゅくをかったことがありました。このヨハネはどうも権力指向が強い弟子のようなのであります。

この時も、「わたしたちについてこないので」と言って、イエスに忠言しているわけです。イエスはそういうヨハネの態度をしかったのではないでしょうか。イエスは、イエスの名前使って伝道するのはらば、なんでもいいんだと、手放しで賛成するほど甘い人ではないはずであります。

終末の時には、偽キリストが現れて、キリストという名前を使って、伝道する者が現れるけれど、そんな人にごまかされるなと言われるのであります。

パウロはピリピの教会にあてた手紙で、自分が捕らわれて獄にいれられたために発憤して、パウロに代わって伝道に励む人が出て来た、中には妬みや闘争心からキリストを述べ伝える者も出て来た、彼らは確かに誠実な心からではなく、党派心からそうしているのだが、しかし見栄からであるにしても真実であるからにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいると言っているのであります。

パウロも随分寛容な態度を示す時もあるのであります。確かに現実としては伝道者には、牧師には、いろいろな人がいて、野心に満ちている人もいれば、気が弱くいつも劣等感にばかりとらわれている牧師もいるわけで、そういういろいなタイプの牧師によって福音は告げられていったのだし、今もそうなのであります。というよりは、福音はそういう牧師の人間的野心とか人間的弱さを乗り越えて伝えられていくのだという事であります。

もちろん、だからそうした伝道者の野心とか闘争心とか見栄がそのまま許されるわけはないのです。パウロもその手紙の後の方では、何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者として、おのおの自分の事ばりがてなく、他人の事も考えなさい、と言っておりますから、党派心や見栄や野心で福音がのべられて行く事に痛みをもち、嘆かわし
い事と思っている事はたしかであります。

宣べ伝えられるのが福音なのですから、その福音の内容にふさわしい伝道の仕方というものはあるはずであります。この頃、合同結婚式とかで盛んにマスコミを賑わしている宗教は、キリストの名前を使いはしますけれど、それは全くキリストとは似ても似つかない宗教であります。何よりもその伝道者自身が信徒に対して自分をお父さまと呼ばせたりして、自分がキリストの座についているからであります。

イエスはこの時、ヨハネをなぜしかったのでしょうか。それはヨハネが「わたしたちについてこないので」といったためにしかったのではないでしょうか。自分達についてこない、けしからんという、そういうヨハネの態度をイエスはしかったのではないか。イエスはその後こういうのであります。

「だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」というのであります。なぜこの時イエスはこんな事を言われたのでしょうか。

それはこういう事ではないかと思います。「ヨハネよ、お前は自分達についてこないと、嘆いているけれど、お前はそんなに偉いのか。お前からキリストという名前をはずしてしまったら、だれがお前に水一杯でもさし出してくれというのか。お前がキリストについているというだけで、お前に水一杯を差し出してくれる人がいるかもしれないが、もしお前からキリストという名前をはずしてしまったら何が残るのか」という事ではないかと思います。

そしてすぐ続けて「また、私を信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は」と話をもっていくのであります。話としては、いきなりここに「わたしを信じるこれらの小さい者」と、幼子の事が出てまいりますので、唐突な気がしますが、話の流れとしては、イエスの弟子達というものは、考えてみれば、「わたしを信じる小さい者」の一人にすぎないではないかということであります。

イエスの弟子達は、その弟子達の人間的魅力とか能力でたっているのではない、ただキリストの弟子という名前で、キリストのおかげで立っているに過ぎないのだという事であります。それなのに、自分達についてこないといって、いばっている事をイエスは戒めたのであります。そして弟子達と幼子、「私を信じる小さい者」と同じレベルに並べたのであります。


そしてイエスは、この世で重んじられなくてはならないのは、自分達についてこい、と尊大に威張っている人間ではなく、「私を信じる小さい者だ」というのであります。

その小さい者をつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げこまれる方が、はるかによい、といわれるのであります。そして「もしあなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい」といわれるのであります。

私は中学生の時に、聖書に始めて触れた時、この箇所に出会って、神様はなんて恐ろしいかただろうと、恐れおののいたものであります。ここに書かれております「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない」という言葉に、どんなに真面目に恐れたか、今になってはなつかしいくらいであります。その事は聖書をそれほどまともに受けとめていたのだと思ってなつかしいのであります。しかしそれによってわたしには、キリストの神様は閻魔大王と同じように、恐ろしいかただ、ただただ裁きの神なのだという事しか頭に入らなくて、随分損したなとも思います。

もっともこの言葉は、その時は、この箇所ではなくて、マタイの福音書にある言葉、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられないほうが、あなたにとって益である。」という所だったと思います。自分は罪を犯した片目を抜き出せない、罪を犯してしまった片手をどうしても切り捨てないと、真面目に苦しんだものであります。

イエスはその恐ろしい事を、「私を信じるこれらの小さい者をつまずかせる者は」そうされた方がいいというのであります。片目をぬき出せ、片手を切り捨てなさいというのですから、もっと大きな罪、人を殺してしまったとか、あるいは姦淫を犯すとか、というもっと大きな犯罪についていっているのかと思いますと、そうではないのです。

「わたしを信じる小さい者をつまずかせる」という罪について言われているのであります。これは意外ではないでしょうか。
われわれが考える罪の大きさとイエスがお考えになる罪の大きさと随分違うのであります。
言ってみれば、ここでは天国にいくか地獄におとされかの分かれ目の罪について言われているのであります。その罪は、人を殺すとか、姦淫をするとか
盗むかと言う事よりも、「わたしを信じる小さい者をつまずかせる」という事に関してなのであります。
それがどうして、最大の罪なのでしょうか。

われわれは人をつまずかせるという時には、あまり大したエネルギーは使わないのではないでしょうか。まして小さい子どものような人をつまずかせる事は、いとも簡単にしてしまうのではないでしょうか。それが天国にいくか地獄にいくかの分かれ目の罪になるなどとは思ってもみない、そのような罪を犯した後は、罪を犯した後もけろっとしているのではないでしょうか。罪を犯したという意識も自覚もないのであります。

もしわたしが人を殺した時はどうでしょうか。人を殺すときには片手間ではできなないし、殺した後も恐れおののくに違いないのであります。その時には自分の全エネルギーを使って罪を犯すのであります。
それに対して、小さい子どもをつまぜかせるには、指一本、何も知らないで走ってくる子どもにひょいと片足を出したら、相手はつまずくのであります。

こちらは圧倒的に優位の立場にいる、それに対して相手は圧倒的に弱者の立場にいる、そういう中で行われる犯罪であります。
それは一番あらわに現れるのは戦争という場面ではないでしょうか。こちらが絶対的な権力をもっている立場、相手の国に戦勝国として乗り込んでいる中で行われる相手国の民間人に対して行われる犯罪、日本が中国などて行って来た犯罪、そしてドイツがユダヤ人に対して行って来た犯罪、ナチスの高官はユダヤ人をガス室に送り込んだその夜、楽しそうな家族との団らんの後、モーツアルトの音楽を気持ちよさそうに聴きいっていたというのであります。モーツアルトの音楽がそういう事のために使われるのであるならば、自分はもう生涯モーツアルトの音楽は聞かないという人がいたそうですが、もちろんそれはモーツアルトの音楽が悪いわけではなく、人間が悪いのであります。

「小さい者をつまずかせる」というのは、そういう罪なのではないでしょうか。こちらはいとも簡単に、何の痛みもエネルギーも使わないで犯す罪、しかし犯された方は致命的な傷を負わされていく罪、それはやはり最大の罪で、それによって天国にいくか地獄にいくかの分かれ目になるような最大の罪だといってもいいのではないでしょうか。

そしてここでは、ただ小さい者というのではなく、「わたしを信じるこれらの小さい者」と言っているのであります。小さい者は必死になってキリストを信じ、神様に頼ろうとして生きているのであります。そういう必死な姿をあざ笑い、利用してつまずかせるのであります。霊感商法などにだまされる人は確かに愚かな人に違いないと思いますが、しかしある意味ではその人たちは必死になって自分達の不安をなんとかしよう、神様を信じてなんとかしようと、藁にでもすがろうとしている人たちであります、そういう人たちの弱い心を利用して霊感商法をして金を巻き上げている教祖たち幹部たちの罪は、まさに地獄におとされてしまってもいい罪ではないでしょうか。

イエスは十字架につく前に、エルサレム神殿でいわゆる宮清めという大変激しい行動に出た事がありますが、商売人たちの台をひっくりかえしたりしたのですが、あの時なぜイエスはあんなに激しく怒ったのでしょうか。それはあの時は「過ぎ越しの祭」の時でみんなが遠いところから長い苦しい巡礼の旅にでで来て、ようやくエルサレム神殿に来て、神様を礼拝しようと来ているのであります。そういう人々の弱みにつけ込んで商売をする事、人々がせっかく神様を礼拝しに来ようとして来ている、その人々の気持ちを踏みにじる事に激しい憤りを感じられてイエスはそうしたのであります。

神様を信じて必死になって生きようとしている小さい者をつまずかせる事が、どんなに大きな罪であるかがわかるのであります。

地獄はあるのでしょうか。天国はあるのてぜしょうか。聖書にでて来る地獄はここにも見られますように、「地獄ではうじがつきず、火も消えることがない」とかなりリアルに描かれております。それに対して天国の方は極めて抽象的であります。天国はただそこに神様がいらしてわれわれの涙をぬぐってくださとか、ともかくそこにはキリストがいてくださって、神様がおられるという事ぐらいしか描かれていないのであります。

しかし地獄の描写もこれはイエス独自のものキリスト教独自のものというのではなく、当時のペルシャ辺りの神話とか伝説を借りて来たものだろうという事であります。ですからここに書かれている地獄の描写をそのまま文字どおり取る必要はないので、むしろこういう所はイエスがわれわれが地獄に落ちないように、われわれに警告を発している言葉、一種の教育語として受けとめておいた方がいいと思います。

それにしても、面白いと思うのは、ここでイエスがいわれる神の国、天国についてであります。片目になって天国に入る方がいいという事であります。われわはともすると、天国とか神の国という場所は、五体満足で一つも傷がない人間だげか、つまり一度も罪を犯したことのない完全無欠な人間が入るのだと思っていたら、そうではないという事であります。そうではなくて、自分の罪と悪戦苦闘して戦い、罪を犯した片手を切り落とし、片目を抜きだした者、そのように自分の罪と激しく戦ったもの、そういう人が天国の住民になるのだといのであります。

もしわれわれが救われるとするならば、もしわれわれが神の国に天国に行けるとするならば、パウロがいうように、火の中をくぐってきた者のように救われるのであって、五体満足どころか、全身やけどだらけ、片足片目のものばかりというこであります。