「幼子のように」        十章一三ー一六節


 「だれでも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」という主イエスの言葉は、われわれの信仰のあり方を示す言葉として、今までもたびたび学んで来た所であります。しかし、最近のニュース番組をみておりますと、いやでも目に入ってまいりまのは「合同結婚式」のことであります。その報道番組で、ある人がその宗教に入る人の幼児性を指摘しておりまして、今までは「幼子のように」なる事を手放しで良い事として考えてまいりましたが、果たして「幼子のように」なることがいいことなのかどうか、少なくともそんなに手放しで奨励していいことなのか、今日の説教を考えながら、考え込んでしまったのであります。

 そのニュース番組では、今韓国では、その統一教会の事はほとんど問題にされていなくて、今韓国で大きな社会問題になっているのは、別のキリスト教だというのです。それは何でも、確かタンベラ宣教会とかいう宗教で、今年の十月二十八日に、終末の時が来ると盛んにあおり立てて熱狂的な集会をもっているというのです。そしてそれに参加しているのが若い青少年で、学校も職業も放棄して、その日がくるのを熱狂的に待っている、その教会に入り込んでしまった子供を取り戻すために親が必死になっているのですが、子供は親の言う事を全然聞こうとしないという事が取り上げられておりました。その集会に参加しているのは、ほとんど若い人たちだというのです。そこでも幼児性という事が指摘されているのであります。
 
 そういう事の中で、「幼子のように」になりなさいという説教ができるだろろうかと考え込んでしまったのであります。イエスがいう「幼子のように」という事はどういうことなのかを考えていきたいと思うのであります。

 パウロの言葉に「物の考え方では、子供となってはいけない。悪事については幼子となるのはよいが、考え方では、おとなとなりなさい。」(コリント第一の手紙一四章)とあります。それは、教会の中に「異言」という現象が起こって、何か恍惚状態になってしゃべりまくる、それは周りの人には何を言っているのか皆目分からない、しかし何か恍惚状態になって訳の分からない事をしゃべりまくるので、その人はきっと特別な霊的な体験をした人に違いないと思われて、人から尊敬され、異言を語る人も得意になってしゃべりまくるという現象がコリント教会の中で、流行のようにおこって、それをパウロは憂えて、「子供ぽいことを自慢するな」と、「物の考え方では大人になりなさい」と言っているところであります。そしてパウロは「わたしは霊で祈るとともに、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう」というのであります。つまり知性の大切さを強調しているのであります。

 また、他の箇所では、「こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起こるさまざまの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」(エペソ人への手紙四章一四ー)という言葉もあります。「子供ではないので、だまされてはならない」というのです。ですから、聖書では、幼子のようになることが、ただ奨励されているわけではなく、ある意味では、幼児性が、子供ぽさが厳しく批判されているのであります。

 イエスが「だれでも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることはできない」と、「幼子のように」なれと言われた状況は、どういう状況だったかと言いますと、イエスにさわっていただくために、人々が幼子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子達は彼らをたしなめた、そういう事を見て、イエスは憤ったということなのであります。

 子供たちは騒いでいたのかも知れません。弟子達はイエスの教えは子供にはわかるはずがないと思って、子供達を排除しようとしたのだろうと思います。そういう弟子達の思い上がりをイエスは何よりもたしなめたのではないかと思います。そうしますと、イエスはただ「幼子のように」なれと言われたのではなく、弟子達の思い上がり、自分達にしかイエスの話しはわからないのだ、子供に分かるはずがないという思い上がりを打ち砕くために、「幼子のようになれ」と言われたのだと言う事であります。「幼子のようになる」という事は、その背後にはいつも大人の思い上がりに対する批判を含んでいると言う事であります。

 イエスの祈りにこういう祈りがあります。「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者にかくして、幼子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。」
 ここでも、幼子と比較されているのが、「知恵のある者、賢い者」に対する批判なのであります。ですから聖書が、「幼子のようになれ」と、幼子を持ち出すのは、一つはいつも大人の思い上がり、大人の、自分達にしか真理はわからないという思いあがり、知恵のある者、賢い者の思い上がりに対する批判が込められた言葉であるという事であります。ただ幼児性が手放しで評価されているわけではないのであります。

 それでは「だれでも、幼子のように神の国を受け入れるものでなければ、そこに入ることができない」という事はどう意味なのでしょうか。マタイによる福音書には、「よく聞きなさい、心を入れ換えて幼子のようにならなくては、天国にはいることはできない」とイエスは言われたとなっております。そこではわれわれ大人が「心を入れかえて」幼子になれと、言われているのであります。幼子自身は別に心を入れ換えて、幼子になる必要はないのです。なぜなら始めから幼子だからであります。しかし、われわれ大人は、心を入れ換えて幼子になる必要があります。そうしたら、当然、幼子がもつ幼子という事と、われわれ大人が心を入れ換えて幼子になる幼子とは違っているはずであります。

 大人のもつ「自信」は打ち砕かれなくてはならないのであります。自分の知性とか、自分が今まで築き上げて来て業績とか富とか精進とか、そういったものを引っ提げて救いを求めようとする姿勢、それを捨てる覚悟が必要であります。自分の業を誇ろうとする自分の罪の自覚が必要であります。

 大人であるわれわれが心を入れ換えて、幼子になるためには、ただ無邪気に幼子になれるわけではなく、そこには自分に対する苦い反省が伴うはずであります。

 子供がその幼児性をそのまま持ち続けて、大人になった人というのが時々おりますが、そういう人というのは、自分に対する反省が一つもなく、鼻持ちならないほどに自己中心的な人が多いのではないでしょうか。自分に対する批判力がなく、反省する力のない人というのは、ただ子供ぽいだけで、そのまま救われるとは到底思えないのであります。
 
 知性というものは大切であります。それは「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(コリント人への第一の手紙八章一ー二節)という事を知っている知性であります。つまり人間の知性というものの限界をよくわきまえた知性、自分が無知でしかない事をよく知っているという知性であります。大人であるわれわれはそういう知性をもたなくてはならないのであります。それは言葉を変えて言えば、罪の自覚という事であります。

 イエスが「幼子のようになれ」と言われたのは、われわれ大人に対してであります。自分の知性を頼りにし、自分ひとりの力で生きていかなくてはならないと、いつも肩を怒らして生きて行こうとするわれわれ大人に対して、そんなに肩を怒らす必要はない、あの幼子が両親を信頼し、神を信頼して生きているように、神を信頼して生きていきなさいと言う事であります。

 ある人が、自立と依存するという事とは、相対立する矛盾する事ではないと言っております。それを言っているのは河合隼雄という心理学者ですが、ある母親が幼稚園にいっている自分の子供がよく話せないと相談に来たというのです。その子供はべつに知能が劣っているわけではない、それなのに極端に言葉が遅れている。よくその母親の話しを聞いて見ると、その母親は子供を「自立」させる事が大切だと思って、出来る限り自分から離すようにして子供を育てたというのです。夜寝る時もできるだけ添寝しないようにした、一人で寝かせるようにした。子供はひとりでさっさと寝に行くようになって、親戚の人から感心されるほどだったというのです。しかし、その子の「自立」はみせかけだった。親の強さに押されて、辛抱して一人で行動しているだけで、それは本来的な自立ではなく、そのために言葉の障害などが生じて来たのだというのです。その事を母親によく説明して、子供をもっと甘えさせたら、言葉も急激に進歩して、普通の子供に追いついていったというのです。

 そういう事を紹介して、河合隼雄は、「自立」と「依存」は、反対だと単純に思うのは誤りで、依存をなくしていく事によって自立を達成しようとするのは間違いである、自立は充分な依存の裏打ちがあってこそ、そこからうまれるのだというのであります。自立と言っても、それは依存のないことを意味しない。そもそも人間は誰かに依存せずに生きてゆくことなどできないので、自立という事は依存を排除することではなく、必要な依存を受け入れ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく、孤立になってしまう、と河合隼雄は言っているのであります。

 われわれは誰かに依存し、誰かに頼り信頼する事によって自立していくのだ、つまり大人になれるのだという事であります。その事を忘れて、子供にはイエスの教えは分からないなどと、子供を排除するとは何事かと、イエスは弟子達をたしなめたのであります。
 本当に自立している人間は正しく人に依存し、正しく人に信頼できるのであります。

 詩編の一三一篇にこういう詩があります。「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」

 ここでは、「乳離れしたみどりご」とあります。新共同訳では、ただ幼子となっておりますが、わざわざ「乳離れしたみどりご」と訳されているところが面白いところであります。これは乳離れした、つまりある程度成長し、母親の愛というものをしっかりと知り、信頼している幼子のことだ、というのです。ただお腹がすいたといってわめき散らす赤ちゃんではなく、乳離れした幼子なのだ、われわれが神を信頼するという事は、神の大きな愛を信頼して、すっかり委ねきって生きる、ただ自分の事を主張して、わめき散らすのではなく
、そのように信頼する幼子の信頼の仕方が大切なのだ、とある人が言っているのであります。その時にわれわれは「わが心はおごらず」謙遜になるのだというのであります。

 それは自分の事をよく知って、自立できている人が、信頼するし方だということではないでしょうか。ただ知性を放棄し、自分の生き方に無責任になって子供ぽい幼児性で、神に甘えるのではなく、自分の人生にしっかりと責任をもって、自立している者、その人が同時に自分の限界を知り、自分のいたらなさをよくわきまえ、自分の罪を知って、自分を支えてくださる神に信頼している生き方ではないかと思います。

 そういう意味で、われわれはいつも肩を怒らして生きる事をやめて、幼子のようになって神を信頼する信仰の歩みをしていきたいと思うのであります。