「何をしたら救われるか」            十章一七ー三一節

 今日の聖書の箇所は、いわゆる「富める青年」の話であります。マルコによる福音書には青年とは記されていないのですが、同じ箇所をマタイによる福音書には青年と書いてありますので、そう呼ばれるようになったのであります。
 ある人がイエスの所に走りよって、みまえにひざまずいて「永遠の命を受けるためには何をしたらよいのですか」と訊ねた。それに対して、イエスはその人に、戒めを守りなさいというのです。その人は「みな守っています」と答えますと、イエスは最後に「持っているものを売り払って、貧しい人々に施しなさい」といいます。それを聞くと、この人は顔を曇らせて悲しみながら去っていったというのです。たくさんの資産をもっていたからだ、と聖書は説明しております。そしてそのあと、イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたのであります。

 永遠の命を受けるためには、天国に入るためには、もっと分かりやすく言えば、救われるためには、自分のもっている全財産を投げ出さなくてはだめなのでしょうか。

 先週の説教で「幼子のようになれ」という事は、今日ではそのまま手放しでは説教できなくなったという事をいいましたが、それは今日はやりの新宗教と言われる宗教の指導者はみなこの幼児性につけこんで人を勧誘するからだ、申しましたが、今日の説教でもそれは同じように言えるかも知れません。救われるためには一切を捨てなくてはならない、財産も社会的地位も名誉も学業も捨てなくては救われないんだと、ハッパをかけて大きな教団になっていった宗教はたくさんあります。ここではイエスはその財産を貧しい人々に施しなさい、と言っておりますが、それらの教団では、信者から巻き上げた献金を貧しい人に施すのではなく、大きな会堂を建てるために、教団の財産をふやすために、教団の権力を強大なものにするために、そういってハッパをかけているだけですが、しかしそれはキリスト教だって同じような事をやってきているのですから、よその宗教を批判する事などできないのであります。救われるためには、本当に何もかも捨てなくてはならないのでしょうか。

 ここの聖書の箇所を読んでおりますと、救われるためには、戒めを守り、善行を積み重ね、そして最後には自分の持っている財産まで捨てなくてはならないと言われているようで、われわれが救われるためには、そうしたわれわれの行為が、わざが必要なのだといっているようなのであります。それではわれわれが今まで聞いて来た福音、ただイエス・キリストの恵みを信じる信仰によって救われるんだという福音と違ってきてしまわないか、という事を考えさせられるのであります。

 この時イエスはなぜ「戒めはあなたの知っているとおりである」と言われたのでしょうか。しかもイエスは十戒の戒めのうちの大事な前半「ただ唯一の神のみを拝せよ」という戒めには触れないで、いわゆる道徳的な律法「殺すな、姦淫するな、盗むな」という、十戒の後半だけをなぜ取り上げたのでしょうか。

 ルカによる福音書の「よきサマリヤ人のたとえ」に出て参ります律法学者が、イエスに「何をしたら永遠の命が受けられますか」と訊ねた時に、イエスが「律法にはなんと書いてあるか」と質問しますと、律法学者は「『心をつくし、精神をつくし、力を尽くし、主なる神を愛せよ』また、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』とあります」と答ているのであります。律法には、神を愛することと、人を愛することが書かれているのであります。

 それなのにここでは、この「富める人」の話では、イエスは、その律法の一番大事な律法の前半、神を愛する事には触れないのはどうしてなのでしょうか。

 それはこの人の問の出しかたに問題があったのではないでしょうか。この人は「救われるためには何をしたらいいか」と訊ねたのであります。この人の生き方は、何をしたら救われるかという生き方だったのであります。富というもの、財産をもつという事はそういう事なのであります。この人は青年だったというのですから、この人のもっている財産、資産は恐らく親から受け継いだものが多かったのではないか、それを後生大事に自分から離さないで、その親から受け継いだ富の上に、それを運用してさらに富を積み重ねていった。彼の生き方は自分のもっているものの上にさらに積み重ねていく、そういう生き方だったのであります。それでその富のほかに何を自分に積み重ねたら救われるか、とイエスに訊ねたたのではないか。ユダヤの社会では、富をもつ事は決して悪い事ではなく、むしろそれはいいことで、誇りになる事だったのであります。ですから、富それ自体が批判されたわけではないのです。問題は、その富に対する姿勢であります。

 この人の生き方は「何をしたら救われるか、何を積み重ねたら、何をもっていったら天国に入れるか」という問だったのであります。それでイエスはその人の問に沿って、戒めの、あの後半の戒めを守りなさいと言われたのではないか。
 
 イエスはその青年の問に対して、始め奇妙な事を言うのです。その人が「よき師よ、」と呼びかけたのに対して、イエスは「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない」というのです。何か唐突な事をイエスはいうのです。これはマタイによる福音書の方がよくわかるところです。マタイの方ではこうなっています。「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよい事をしたらいいのでしょうか。」と富める青年が訊ねるのです。するとイエスはいきなり「なぜよい事についてわたしに訊ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」と答えるのです。つまり、青年が「どんなよい事をしたら救われるか」と問うたのに対して、イエスは「どんなよい事をしたら」ではなく、「だれがよいかたかを訊ねなくてはならないのに、お前は何を求めようとしているのか。よいかたはただひとり神なので、そのかたにわれわれは信頼する事が大事なのであって、どんなよい事をしたらという事ではないのだ」と、イエスはいうのであります。

 マルコ福音書にあります「神ひとりのほかによい者はいない」というのも、そういうイエスの思いが込められているのではないか、それは「神よりほかに頼れるかたはいないのに、どうしてお前は自分の富に頼り、自分の善行に頼ろうとするのか、お前が善行と思っている善行が本当に善行であるならば、自分の全財産を捨てて貧しい人に施してみよ、そうしたらお前の善行が本当に人を愛するための善行であるかどうかが、明らかになる。しかしそれができないならば、結局はお前のやっている善行はただ自分に箔をつけるための善行、自分が救われるための善行であって、そんなものは自分のための善行ではないか、そんなものに何の価値があるか」と、イエスはそう語りかけているのではないでしょうか。
 
 その青年が「戒めは小さい時から皆守ってきました」と誇らしげに言いますと、イエスは「あなたには足りないことが一つある」というのです。そして「お前がもっているものをみな売り払って」というのです。つまり自分がもっていると思っているもの、自分のものだと思っているもの、それをすべて手放してみよ、という事であります。ですから、もし彼が、イエスのいう通りに、自分の全財産を投げ捨てて、貧しいものに施したとしても、もし彼がそれによって自分を誇り、自分の善行に満足しているのならば、「お前にはまだ足りないことが一つある」とイエスに言われてしまうのではないでしょうか。

 彼に足りないただ一つの事とは、自分を捨てるという事だからであります。自分はこれだけのものを持っている、自分がこれだけの事をしてきた、そういう自分の思いを捨てるという事だからであります。そして自分を捨てるという事は、自分を捨ててイエスに従うという事なのであります。イエスに従う、誰かに従うという事が、自分を捨てるという事の具体的な現れなのであります。それは自分だけを信じるという、自分にしがみつこうとする事ではなく、自分以外の方を信頼するということであります。
 
 沢山の資産をもっている人はどうしても人に信頼するよりは、お金のほうが頼りになると思ってしまうのであります。お金というものはそのようにして、われわれの経済生活だけでなく、われわれの魂まで支配してしまうのであります。しかしそれでもお金だけでは頼りにならない事は、薄々感じているのです。お金がだけでは頼りにならない事を一番よく知っているのは、お金をもっている人なのかも知れません。だからお金持ちも宗教を求めるのです。何かを信じたい、何かに頼りたいと痛切に思うのです。それはお金のない人よりは、もっと切実に何かに頼ろうとするのです。その時、お金のもっている人はどのような信仰心をもっているかというと、それは自分のもっている財産の上に、積み重ねるようにしてもっとしっかりしたものを求めようとするという信仰心であります。自分の今手にしているものを一つも離そうとしないで、自分の持っているものの上にさらに積み重ねようとする、そういう求めかたなのであります。あるいはもっと皮肉に言えば、自分の持っている財産を守ってくれるものとしての信仰であります。

 イエスはそういう求め方を捨てなさいというのであります。そういう自分を守る、自分を肥らす、そういう自分を守るものを捨ててしまいなさいというのであります。

 その人は自分の持っている財産を捨てられないで、イエスのもとを去っていきました。その後イエスは「財産のあるものが神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであるか」と言われました。これを聞いて弟子達は驚き怪しんだというのです。これは当時の社会てば富んでいる人は充分神の国に入れる資格があると思われていたからではないかと思います。富について批判的なことをいったのは、もちろんイエスが始めてではないでしょう。旧約聖書の「箴言」というところには、富の恐ろしさ、富の悪について言及しております。しかし、イエスほど富の危険性についてこんなに鋭くついた人はいなかったのかも知れません。

 弟子達が驚きますと、イエスはさらにこう言うのです。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことであろう。」神の国に入るのが難しいのは、何も財産のある人だけではない、この青年と同じように自分のもっているものを一つも失おうとしないで、一つも捨てようとしないで後生大事にもっていこうとするとき、財産のない人にだって、それは難しいのだとイエスはいうのであります。それを聞いて、弟子達は「それでは、だれが救われる事ができるのだろうか」とお互いにつぶやきあったというのです。それはつまり、財産をもっていない人にとってもこれは不可能ではないかと、弟子達は思ったという事であります。
 するとイエスは「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」と答えられたのであります。
 
 この「富める人」の記事の中で、一番大事な箇所はここの箇所ではないでしょうか。「人にはできないが、神にはなんでもてきるからである」という言葉であります。何をしたら救われるかと自分の人間的な可能性を求めて救いを求めようとする限り、救いは遠のくばかりで、それは不可能という壁にぶつかるだけであります。しかし、神には何でも出来ない事はない、神はこのかたくなな自分をも救ってくださらない筈はないと信じ、もうただ神に頼る以外にないと、自分のもっているものをすべて捨てて、いや捨てられなくても、捨てられない自分をそのまま神に差し出して、この自分をまるごと赦し、救ってくださいと、神に信頼する時、われわれもまた神の国に入れるという事であります。
 
 この聖書の箇所で、印象に残るのは、自分の資産を捨てられないで去っていった青年の後ろ姿ではないでしょうか。イエスに「お前の財産を捨てて、貧しい人に施しなさい」と言われて、彼は怒って足をけって、イエスのもとを去ったのではないのです。「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去っ」ていったのであります。その後この人がどのような人生を歩んだかは分かりません。しかし、彼はその後もこのイエスの言葉は大変重い言葉として、生涯背負っていったのではないでしょうか。そしてあるいは、徐々にその生き方も変わっていったのかもしれないのであります。彼がイエスの言葉を聞いて、怒って憤然として去っていったのではなく、顔を曇らせ、悲しみながら去っていったからであります。

 大人になった人は、そう急激に人生を変えられるわけはないと思います。また急激に変えてしまう場合は、やはりどこか無理しているわけで、本当に心の底から変わったのではないかもしれません。もちろん劇的に変わった人もいるとは思いますが、そういう人はむしろ例外ではないでしょうか。そういう人に限って、自分は変わりましたと全国を講演旅行して歩くという鼻持ちならない変わり方をするのではないでしょうか。

 自分のもっているものをすべて捨てよ、と言われて、どうしても捨てきれないで、顔を曇らせて、悲しみながらイエスのもとを去っていく自分の姿を一度はじっと見つめることが大切なのではないでしょうか。自分ではどうしても自分を捨てられない、そういう悲しい自分に気づき、どうか、この罪ある私を救ってくださいと祈り出す事が大切なのではないでしょうか。
 
 弟子のひとりのペテロは「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従ってまいりました」と胸をはって言ったというのです。マタイによる福音書には、「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては何がいただけるでしょうか」と言ったと、まるで笑い話のような事が記されているのであります。これはマタイの弟子達に対する痛烈な皮肉てはないでしょうか。ペテロを始めとするイエスの弟子達の俗ぽっさというのはあきれるばかりであります。

 イエスは「わたしのために、また福音のために家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは、畑を捨てた者は、必ず百倍を受ける」と、具体的に自分達の生活の場を捨ててイエスに従って来た弟子達を、確かに一応は評価するような事をいいますが、イエスは最後にはこういうのであります。「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」というのであります。自分達は一番先に何もかも捨ててイエスに従って来たと自負していた弟子達に対して、そんな事を言っていたら一番後になるぞ、とイエスは釘をさすのであります。そして「あとのものは先になる」というのです。この「あとのもの」とは誰のことでしょうか。
 あの顔を曇らせ、悲しみながらイエスのもとを去っていった青年の事をイエスは思っていたのかも知れないと、想像したらどうでしょうか。

 弟子達は、イエスの十字架を通して、みなイエスに従い得ない自分を見つめさせられて、イエスの救いがわかったのであります。われわれも、自分の財産をすべて捨てきれない、自分を捨てきれない事に、顔を曇らせ、悲しみ、しかしあの青年とは違って、そうであるが故に、なおイエスに助けを求め続け、イエス・キリストにしがみついていきたいと願って、今信仰者になっているのではないでしょうか。