「仕える人となれ」           十章三二ー四五節


 イエス・キリストはいよいよ自分の死が待っているエルサレムに上っていくのであります。その時のイエスの様子が三二節に記されております。

 「さて、一同はエルサレムへ上る途上であったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」というのであります。先生である人が、弟子達の先頭に立つという事はそう珍しい事ではないはずであります。イエスが弟子達の先頭にたってもそう珍しい事ではないはずであります。この時弟子達が非常に驚いたという事は、イエスというかたはそれまではあまり先頭に立つ事はなかったのかも知れません。弟子達の後ろから歩まれたのかも知れません。もちろん先頭にたった事はあったでしょうが、それは弟子達を強力に引っ張っていくというような先頭の立ち方ではなかったのだろうと思います。

 しかし、この時はちがったいました。弟子達が驚くほど、いや弟子達が恐れるほどの気迫をもってエルサレムに向かったというのであります。そして弟子達に「私たちはエルサレムにの上っていくが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引き渡され死刑を宣告されるだろう。あざけられ、つばきをかけられ、むちうたれ、そしてついに殺されるであろう」と、告げるのであります。この事についてイエスが弟子達に告げるのは、これで三度目であります。

 なぜイエスは三度にわたって、しつこっく、自分が十字架にかかる事を弟子達に話すのでしょうか。弟子達がなかなか理解しようとしなかったという事があったかも知れません。しかし、弟子達はイエスから何度言われても理解できなかったのであります。イエスの方でも弟子達に理解してもらえるとはあまり期待してはいなかったのではないかと思います。それなのに三度にわたって、この事を口にしているという事は、弟子達に告げておくという事もあるでしょうが、それと共に、それ以上に、イエスは自分自身に言い聞かせようとしていたのではないかと思います。
 
 このところで、不思議に思うのは、イエスがご自分の事をいうのに、どうして「わたしはこうだ」と、「わたし」という言葉を使わないで、まるで他人事のようにして「人の子は」という言い方をするのだろうかという事なのであります。出だしは「見よ、わたしたちはエルサレムへ上っていくが」と、「わたし」になっているのであります。しかし、途中から「人の子は」という言葉に変わっているのであります。これはどうしてなのだろうか。もちろん「人の子」という表現はメシヤ、救い主を表す表現だという事はわかります。しかし、それでもこれはイエスご自身の事をいっているわけですから、「わたしはこうだ、わたしは祭司長、律法学者たちの手に引き渡され、十字架にかけられ、殺されるのだ」と言った方がよほどわかりいいし、弟子達もぴんときて、覚悟もしただろうに、イエスはまるで自分のことではないかのように、「人の子はこうなる」告げるのはなぜなのでしょうか。

 これはイエスが、自分のこれからの運命というものをまだまだ自分自身の事として受けきっていないで、まだまだ納得できていないで、「人の子としてのメシヤのたどる道はこうなのだ」と、自分自身に言い聞かせるように自分に言ってきかせていたということではないか。イエスが本当に、この「人の子」としての運命をご自分の事として納得し、受け入れ、覚悟できたのは、あの捕らえられる前の夜のゲッセマネの園での父なる神との激しい祈りを通してではないでしょうか。そこでイエスは、出来る事なら自分を十字架につけないでくださいと祈り、しかしこれが神のみこころならば、これを受けますと祈ったのであります。そしてその祈りを通してイエスは、これが父なる神のみこころだと覚悟ができた時、イエスは始めて「立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」と、「わたし」という言葉を使うのであります。

 始終みなさまに紹介しております、あの決断するという事についてのある人の言葉をここでも思いだします。「決断するという事は、手をたたいてぱっと決めるような事ではない。何かを決めるという事は自分の中に何かが生まれてくることだ、何かが出来てくることだ、そしてそれを豊かに育てることだ、そしてそれを清めることだ、そしてそのようにしてそれを実現することだ」という言葉であります。
 イエスの中に、ある時、何かが生まれて来た、出来て来た、そしてイエスはそれをじっくりと豊かに育てて来た、そしてそれをもう一度これが本当に神のみこころなのかどうかを確かめるために、あのゲッセマネの園で祈り、その決断を神に清めていただいた、そしてそれを実現していったのだという事であります。

 イエスは神の子でありましたが、イエスは決して神のロボットのような存在ではなかったのであります。イエス自身、神の使命を受けて、それを実現するためにどんなに悩み苦しみ、とまどい、時間かけてあたためたか、そうして実現したのであります。
 
 そういうイエスの生き方に比べると、われわれの生き方、われわれが自分の人生に求める求めかたというものが如何に浅薄であるかと言う事であります。

 イエスの弟子達のうちゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスの所に来て「先生、わたしたちがお頼みすることはなんでもかなえてくださるようにお願いします」と言いに来たのであります。「何をしてほしいと、願うのか」とイエスに言われますと、彼らは「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」と頼んだのです。イエスが殺された後、三日後によみがえるという言葉を聞いて、イエスは神の栄光を受けるために天に登られると思ったから、そういったのだ思われます。イエスが苦しみ屈辱を受けて殺される事など、何も聞かなかったかのように、ただ最後の勝利のことしか考えようとしていないのであります。

 あなたが死んで天国にいった時、そして自分達も死んで天国にいった時、自分達を天国の一番の上席に座らせてくださいと願ったというのです。 それを聞いた時、イエスはその二人にこういうのです。「お前たちは自分が何を求めているかわかっていない。」
 天国にいったら上席につきたい、そういう願いは、いわば一流の大学にいって、一流の企業に就職し、いいとこのお嬢さんを嫁にしたいと言う願いと同じであります。われわれもそういう事を求めているかも知れません。しかし、よく考えてみれば、それは世間が常識的に考えている願いに過ぎないのであって、そんな事をわれわれが心の底から本当に求めているかどうか分からないと思います。ただわれわれが世間の浅はかな常識にとらわれているだけなのかも知れません。われわれの求めているものというものは、案外本当に自分が心の底から求めているものではなく、ただ時流に動かされて求めているのに過ぎない場合が多いのではないでしょうか。イエスから「お前たちは自分が何を求めているかわかっていない」と言われて、われわれも自分が本当に求めているもの、あるいは自分が求めなくてはならないものは何かを、一度、いや何度も立ち止まってじっくりと考えみる必要があるのではないでしょうか。
 イエスの弟子達は一度はすべてを捨てて、世間の常識を捨ててイエスに従っていったのです、しかしその弟子達も、まだまだ世間の常識から完全に離れられないのであります。

 イエスは「お前たちは何を求めているかわかっていない。」といった後、「お前たちはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と言います。彼らはよくわからないまま、「できます」と答ますと、「確かにそうなるだろう」とイエスはいいます。イエスの受ける杯とバプテスマとは、恐らくイエスの十字架の死をさしていると思われます。そして弟子達にとっては、殉教の死をさしていると思われます。弟子達はよくわからないままに、それを受けますと答えております。われわれの人生は自分がそれを望もうが望むまいが、決定的な事というのは、向こうから迫ってくるものが多いのではないかと思います。だからいやでもそれを引き受けなくてはならないのであります。しかし、それを最後までいやいやだと言って後ろ向きに引き受けるのと、これが結局は自分に与えられた人生なので、これが結局は自分が求めていた人生なのだと覚悟を決めて引き分けるのとは、違ってくると思います。
 
 イエスはこの二人の弟子に、一番の上席につきたいと願った二人の弟子達に、お前たちの人生は殉教の死を覚悟しなくてはならない人生なのだぞ、それでもいいのか、と念を押した後、その覚悟が出来て、その道を歩めたら、「わたしの右、左に座れることになる」とは言われなかったのであります。「しかし、わたしの右、左にすわらせる事は、わたしのすることではなく、ただ備えられた人々にだけにゆるされる」と言われたのであります。マタイによる福音書では、「わたしの右、左にすわらせる事は、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々にだけゆるされている」となっております。

 何も殉教の死をとげたから、天国では上席が用意されているわけではない、とイエスは厳しく言われるのであります。そんな人間の功績によって上席が決まるわけではないというのです。ただ父なる神がお決めになることなのだというのであります。人間の功績によって決められるのではなく、ただ父なる神がお決めになるのであれば、われわれの上に立つ人、上座につく人も、ただやたらに権力をふりまわす人ではない人だと安心できるのではないでしょか。
 
 天国がどんなところか、どんな秩序があるかはわかりませんが、その天国のいわばひな型ともいえる、教会にも秩序があるんだと聖書は告げています。パウロは、神は無秩序の神ではなく、平和の神である、(コリント第一の手紙一四章三六節)といって、教会にはやはり長老という制度が必要だというのであります。悪しき平等主義をしりぞけ、教会は無政府主義であってはならいというのです。そこにはやはり、教える者と教えを受けなくてはならないものがいるし、そういう秩序は必要だというのです。みんながみんな自分勝手に自分の権利を主張するような事ではいけないというのです。パウロは、神は無秩序の神ではなく、というのですから、その後は、神は秩序の神だというのかと思いましたら、神は平和の神だというところがいかにもも聖書らしいところであります。教会には秩序が必要であります。そこには形の上では、上に立つものと従う者という関係、そういう秩序が必要だというのです。しかしその上に立つものは、人間の功績によって決まるものではなく、ただ神が備え、神がお決めになるんだとイエスは釘をさすのであります。だから、そこにあるのは、単なる秩序のある世界とい うのではなく、平和の世界があるというのです。上に立つ者もその事をしっかりと自覚しておかなくてはならないという事であります。そうでないとわれわれはすぐ傲慢になってしまうからであります。
 
 そしてイエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う人は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思うものは、すべての人のしもべにならなくてはならない」と言われるのであります。「仕える人になれ」と言われるのです。今の若い人は知りませんが、あの戦争を経験した人にとって、この「仕える」という言葉は、そう素朴に受けとめられない言葉ではないかと思います。今日の説教の題は「仕える人となれ」とつけましたが、わたしはずいぶんためらいながら、ああいやな言葉だと思いながら、実はつけた題なのであります。

 わたしは以前に、青山学院で高校生に聖書を教えた事がありますが、その授業で、黒板に「滅私奉公」と書いた時に、授業がおわって、生徒のひとりから、先生、字が間違っていますと言われました。わたしは自分の思い込みが多いので、よく漢字を自分の思い込みで間違うのですが、誤字が多いのですが、その時もそう言われて、あわてて辞書をひきましたら、確かに間違っておりました。わたしは、滅私奉公という字の奉公という字を間違って、奉仕するという意味で、「滅私奉行」と書いてしまっていたのであります。奉公の「公」という字は、おおやけ「公」という字であります。日本語の奉公という字は、英語でいうとパブリックサーブィスということになるわけです。滅私奉公というのは、結局は「私」を殺して、「公」に仕えるということなのであります。戦争中はそのようにして、多くの人が国家に仕えろと言われて「私」を殺していったのであります。それがわれわれの世代が「仕える」という事から受ける第一の印象なのです。

 聖書も同じ事を言うのか、仕えなさい、といって、決局は公に仕えなさい、あるいは、自分の上の人に仕えなさいという事がすすめられるのかと思うと、何かうんざりするのであります。ですから教会の中で、わたしはあまり「仕える」とか「奉仕」という言葉使っていないし、使いいたくないのであります。

 しかし、ここを気をつけて読んでみますと、イエスはこういっているのであります。「あなたがたの間でかしらになりたいと思うものは」というのです。上に立つ者は、「仕えるものになれ」といっているのであります。それは上に立っている者、権力をにぎっているものが、下の者にむかって、お前たちはひたすら上の者に仕えよ、奉仕せよ、と言っているのではないということであります。それは「滅私奉公」という事とまるで正反対の事であります。私を滅ぼして公に、国家に仕えよ、という事ではなく、上に立つものが、権力を握っている公の方が、国家の方が国民に仕えよ、奉仕しなさいということであります。

 イエスはただやたらに何でも人をつかまえて、「仕える人となれ」といったのではないのです。上座につきたいと願っている弟子達を戒め、上に立つものは、権力をもっているものは、ただひたすら人に仕え、すべての人のしもべになれ、といっているのであります。学校の先生が、生徒に向かって、「仕える人になれ」と言って、ひたすら先生に学校に仕えさせるのではないという事であります。

 イエスはこの時、エルサレムに向かって行こうとする時、弟子達が驚き、いや恐れるほどに、先頭に立ったのであります。ご自分が今先頭に立ち、上に立たなくてはならないと思ったのであります。その時に、その上に立つ者は、仕える人にならなくてはならないと言われたのであります。そして「人の子がきたのも仕えられるためではなく、仕えるために」来たのだといい、そうして十字架の道を歩み始めるのであります。