「見えるようになる」         十章四六ー五二節


 イエスの一行がエリコに来た時のことであります。道ばたにすわって物乞いしていた盲人が、ナザレのイエスが通りかかると知って、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と執拗に叫んだというのです。弟子達がしかって黙らせようとしましたが、それでも彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び続けました。それでイエスは彼に、「わたしに何をしてほしいのか」と訊ねました。そうすると彼は「見えるようになることです」と答えたのであります。

 イエスはその盲人に「何をしてほしいのか」と訊ねたのであります。イエスはある時、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知である。」と言われたのです。だから、くどくどと祈るな、と言われたのであります。イエスほどの人ならば、自分の目の前に盲人が来て、「わたしをあわれんでください」と叫んでいるのですから、その人が何を求めているかくらいは、すぐわかった筈であります。しかし、イエスは「わたしに何をしてほしいのか、お前はわたしに何を求めているのか」と聞いているのであります。

 イエスはある時は、三十八年間歩けないで苦しんでいる人に対して「治りたいのか」と訊ねた事もあるのです。三十八年間も病気で苦しんでいる人に対して「お前は治りたいのか」と聞くこともないと思いますが、イエスは改めてそう聞くのであります。

 イエスは盲人の人が彼に何を求めているかくらいは聞かなくてもわかっているのであります。彼は、イエスが呼んでいると聞きますと、上着を脱ぎ捨て、踊りあがって喜んだというのですから、この人はイエスが多くの病人をいやし、盲人の目をあけるという奇跡をおこなって来たかただということを知っていて、今イエスが来たというので、大喜びで、自分の目をあけてもらえると思って、その事をイエスに求めて執拗に食い下がっている。イエスはそうした事はわかっておられる筈であります。それなのにイエスは、改めて「わたしに何をして欲しいのか、お前はわたしに何を求めているのか」と訊ねているのであります。

 そしてわれわれも、イエスに「お前はわたしに何を求めているのか」と改めて問われるという事は、大変大事なことではないかと思います。

 われわれはイエスから改めてそのように聞かれた時、その時にわれわれもイエスに自分が何を求めなくてはならないのか、何を求めていいのかという事に気づかせられるからであります。

 われわれは、イエスからそのように問われないで、ただ神様に求めようとしますと、先週学びましたように、あのイエスの弟子達のように「天国にいったら、天国で一番上席につきたい」と、イエスに願い、そしてイエスから「お前たちは自分で何を求めているのか分かっていない」と言われてしまうのではないでしょうか。それは、われわれが神様に祈る時に、ほかならない尊い神様なのだからこんなつまらない事は祈れないのだ、もっと高尚な精神的な事を祈らなくてはならないというように、あらかじめこちらで神様に祈る事を、神様に求める事を選択して、制限して祈らなくてはならないと言う事ではないのです。

 パウロは「何事も思いわずらってはならない。ただ、ことごとに感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申しあげるがよい」と勧めているのであります。

 ですから、あらかじめこれは神様にとても祈れないなどと、こちらで制限する必要はないのです。しかし、祈っているうちに、イエス様から、神様から「お前は本当にそれを求めているのか」と問われてくるということであります。お前は今必死にそれを求めているけれど、お前はそれを本当に求めているのか、もしかしたらただ世間の人たちが、それを求めているから、その時流に乗って人真似して求めているだけなのではないのか、と問われてくると言う事であります。

 一流の大学を目ざし、一流の企業に就職したいとと願っているかもしれないけれど、それが本当にお前が求めている事なのかと問われてくると言う事であります。
天国にいったら、天国の上席につきたいとイエスに願い出たあの弟子達も、もし始めにイエスの方から「お前たちはわたしに何を求めようとしているのか」と、イエスの方から始めに問われたならば、あんな事は言わなかったかも知れないと思います。

 イエスはある時、中風の者が連れられて来た時、いきなり「あなたの罪は赦された」と宣言したのであります。病気を直そうとしないで、そう宣言したのであります。そうしたら、その事が物議をかもしたのであります。すると、イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威があることが、あなたがたにわかるために」と言って、その人の病をいやしてあげたのであります。イエスは何も高尚な精神的な事だけを、われわれに押しつけて、ひとりいい気持ちになって満足しているかたではなく、われわれが今どうしても現実に必要だと思われる事もよく知ってくださって、われわれの願いを、求めを聞いてくださるおかたなのであります。
 
 イエスから「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれて、彼は「先生、見えるようになることです」と答えました。彼は道ばたで物乞いをしていたというのですから、イエスにお金を恵んでくださいと頼んでもいいのですが、彼はそんな事をイエスに求めたのではありません。彼にとって一番必要な事、イエスに求めたいと思っている事を率直に求めたのであります。「先生、見えるようになることです。」
 
 目の見えない人が、見えるようになる事を願う時、何を一番切実に見たいと願うのでしょうか。前に、ある人からこれを読んでごらんなさいと言われて、いただいていた本なのでが、それは斉藤百合という盲人のかたの生涯をつづったた本であります。斉藤百合というかたは、盲人で始めて東京女子大学を卒業したかたですが、盲人の女子教育と保護のために生涯を捧げ、「陽光会」という事業を起こされたかたであります。

 その斉藤百合が日記にこう記しているというのです。「人は盲人を見ると、まず、親の顔が見えないから悲しいだろうと言い、景色が見えなくてかわいそうだと言う。でも、親の顔は見えなくても、声と肌のふれあいで心は通う。美しい景色は、文学者の筆が、私自身が見る以上に美しく伝えてくれる。けれど、けれど、私自身の顔をどうしたら知ることができるだろう。自分自身の顔が見たい。わたしはみにくいのだろうか、それともそうでないのか。かがやくような若さと美しさを、どうすればこのわたしの顔にあらわせるのだろうか。」
 彼女がそのように日記に書いたのは、こういう事があったからであります。彼女がある青年に恋をしてその青年に誘われて、始めて音楽会にいった。そして始めてお化粧して音楽会にいったというのです。そうしたら、数日後に立ちよった薬屋の女主人からこんな事を言われた。「気をわるくしないでね。」という前置きで、「うちの娘が、あなたが学生さんと歩いているのをみたんだって、その時頬紅、まるを描いたようについていたから、なおしてあげたかったけど、言えなかったっていうのよ。今度つける時、だれかに見て貰うといいね。」と言われた。それを聞いて恥ずかしさで首筋までかっと熱くなったというのです。それまでは化粧をしたことはなかった。口紅は「人をくったような」という表現を聞いたりしてしていたので、こわくてつける勇気はなかった。粉白粉だけはたたいたり、落としたりした、頬紅はまるくつけるものと何かで読んでいたので、指でたどりながら塗ったというのです。しかし、それは他人から見ればとんでもないみっともないぬりかただったわけです。それを聞いて一緒にいった青年にすまないという思いで、涙もでなかったというのです。そしてその日にそのように 日記に記したのであります。

 盲人にとって何が見えない事が悲しいかというと、親の顔が見えない事でも、美しい景色が見えない事でもない。自分の顔が見えない事だというのであります。「自分の顔が見たい、自分はみにくいのか、美しいのか、見たい」というのです。
それは聾唖者にとっても同じ事かも知れないと思います。耳が聞こえない人にとって、一番聞きたいのは、自分の話す言葉なのかも知れません。聾唖者は言葉がしゃべれないのではないのです。自分の声が聞けないわけです。自分の発音がきけない、だから自分がどんな発声をしているかわからないので、相手に伝えられるような言葉が話せないのであります。

 そういえば、だんだん年をとって、耳が不自由になっていくとき、一番不安なのは自分の声が聞こえないという事だと聞いたことがあります。自分の声を聞こうとして、必要以上に大きな声を出してしまうわけです。

 大きな会場にいって話をさせられる時、自分の声が直ちに帰って来ないときというのは、大変しゃべりにくいものであります。ですから、あまり残響音がありすぎる会場というのは、聞く方も聞きにくいですけれど、話す方も話しにくいものであります。
 自分の顔が見えない、自分の声が聞けない、そしてそれが大変不安であるという事はどういう事かといいますと、それは結局は他人との関係で自分の位置が見えないということなのではないかと思います。

 もしわれわれが無人島に生きているのならば、何も自分の顔が見えなくても、自分の声が聞こえなくても不安になる事はないかも知れない。自分の顔が見えない、自分の声が聞こえないという事は、そこに他人との関係において、自分はどういう位置にいるのか、ということがつかめないから大変不安なのではないかと思います。他人は自分の顔をどう見ているのか、それがわからないから大変不安なのではないでしょうか。

 自分の顔が見えない、自分の声が聞けないという事は、ただ自分のことがわからないという事ではなく、それは自分がどこを歩いているかがわからない、自分がどこにいるのか分からないという事ではないでしょうか。盲人の人にとって一番不安なのは、知らない道を歩くときだろうと思います。自分がどこを歩いているかわからないからであります。
 
 そうであるとすれば、それは肉眼の目が見えると威張っているわれわれにとっても本当に自分がどこを歩いてるのかわかっているのか、自分の位置がみえているだろうか。われわれも「見えるようになりたい」と、イエスに求めなくてはならない事なのではないでしょうか。

 どの福音書もイエスのなさった最後のいやしの奇跡は、この「見えるようになる」という奇跡なのであります。それがイエスのいやしの記事の最後に置かれているという事は、神がわれわれに対してどんなに見えるようにことを望んでおられるかという事ではないでしょうか。

 自分の位置がわかるという事は、自分という人間が他人からどう思われているか、その人から愛されているのか憎まれているのか、うとまられているのか歓迎されているのか、その事がわかるという事ではないかと思います。そして、たとえば憎まれていることがわかるならば、それなりに対応できるのであります。憎まれないように自分を変えられるからであります。
 
 そして、「見えるようになる」という事は、もっと根元的には、われわれがわれわれの造り主である神との関係の中で、どのような関係にあるのかを知るという事であります。イエス・キリストはわれわれと神との関係がどのような関係にあるかを明らかにするために、この世に来てくださったのであります。それは「神がその独り子を賜ったほどに私どもを愛しているのだ」と、そういう関係にある事を明らかにしてくださったという事であります。
 自分は独りではない、自分はひとりぽっちではないという事であります。われわれと共に歩いてくださるかたがおられるという事であります。
 目の見えない人にとって何よりも心強い事は、自分と一緒に歩いてくれる人がいるという事ではないかと思います。その時には、自分がどこを歩いているかわからない時にも、その人に手をひかれ、言葉をかけられて歩く事ができるからであります。
 
 この物乞いをしていた盲人は、イエスに目をいやされてから、イエスに従っていったというのです。イエスのなさったいやしの奇跡の記事で、この記事には珍しく、バルテマイという名前がはっきりと記されているのであります。それはこの人がイエスに従っていった後、後の教会で何か人々の印象に残るような働きをしているから、こうしてバルテマイという名前が残ったという事ではないかと思われます。

 それにしても、こうした盲人の目がいやされた奇跡の記事とか耳の聞こえない人の耳がいやされたとか、あるいはライの人がいやされた記事を読んで、いつも考えさせられるのは、クリスチャンの中に多くの盲人や聾唖者やライのかたがおられて、立派な信仰者になられているという事実であります。そのかたがたはこうしたいやしの記事をどのように読んでおられのだろうか、という事であります。こんな事はうそぱっちだ、なぜなら自分の目はどんなに神様に祈ったって、あけられないではないかとは思っていないという事であります。もちろんそう言ってキリスト教から離れた人もたくさんいるでしょうが、こうした記事を読んでも、そして自分の目が現実にいやされなくても、この記事から大きな励ましと慰めを得ているに違いないと言う事であります。そこが聖書の記事の不思議さというものであります。われわれ、肉体の目があいているわれわれの聖書のよみかたの浅薄さを思わざるを得ないのであります。
 
 イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われるのです。本当はイエスがその人の目をいやしているので、その人の信仰なんかではないのです。その人の念力とか、信仰的な修業とかではなく、その人のそうした信仰ではなく、イエスがその人の目をいやしているのです。それなのにイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というのです。それはイエスがわれわれに対して、どんなに信仰を求めておられかという事であります。

 それではそれはどんな信仰かと言えば、それは盲人の人がただ「見えるようになる事です」と求めた、ただそれだけの信仰なのです。たったそれだけの信仰なのです。イエスが、神様が、われわれに求めておられる信仰はそういう信仰なのであります。