「イエスの呪い」         十一章一二ー二一節


 イエスの一行はエルサレムに入った日の夕方には、エルサレムを出て、郊外のベタニヤに帰り、翌日再びエルサレムに入るのであります。その途中の事であります。イエスは空腹を覚えて、いちじくの実を食べようとして、いちじくの木に近づいていったのであります。しかし、そのいちじくの木は葉っぱばかりで実が一つもなっていなかった。いちじくの実がなる季節ではなかったからであります。するとイエスは「今からのちいつまでも、お前の実を食べるものがいないように」と言った。翌日朝早くそこを通りかかって見ると、いちじくの木は根元から枯れていて、弟子達は驚き「先生、ごらんなさい。あなたが呪われたいちじくが枯れています」と言ったというのであります。

 ずいぶん奇妙な話であります。いちじくの実がなる季節でもないのに、実がなっていないからというだけで腹を立てて、いちじくの木を呪い、その木を根元から枯らしてしまったというのは無茶な話であります。しかもそれをほかならぬイエスがなさったというのです。われわれは空腹の時というのは誰でもいらいらするものですが、イエスもまた空腹だったから、いらいらしてそんな事をしたのでしょうか。しかしここをよく読んでみますと、イエス自身は別にこのいちじくの木を呪ったわけではないようなのです。ただ「今から後、いつまでも、お前の実を食べる者がいないように」と言っただけであります。ここではイエスは「今からのち、お前に実がならないように」と言ったわけでもない、もしそう言ったのなら、いちじくの木を呪ったことにもなるかも知れませんが、そう言っているわけではないのであります。イエスも人の子で、お腹がすいていたのに、食べたいと思っていたいちじくの実がなかった、それでがっかりして、多少腹立ち紛れに「今後お前の実を食べる者がいなくなるぞ」と多少ユーモラスに言ったのではないか。これをイエスの呪いと受けとめたのは、弟子達なのであります。 弟子達が勝手にこれはイエスがいちじくの木を呪ったから、一夜にして枯れてしまったのだと驚き「あなたが呪われたいちじくの木が枯れています」といったのであります。

 そしてもっと興味深い事に、この記事をもとにして書いたと思われますマタイによる福音書はこうなっているのであります。マタイ福音書二十一章一八節以下です。そこではイエスは「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言ったとなっております。そしてたちまち、いちじくの木は枯れてしまったと記されているのであります。マルコは、いちじくの木そのものに「その実がならないように」と言ったのではなく、ただその実を食べる者がいなくなるぞ、と言ったというのに対して、マタイではいちじくの木そのものに「実がならないように」と言い、そしたらたちまち、翌日ではなく、その場でたちまち木は枯れてしまったとなっております、こうなると、もう明らかにイエスはいちじくの木を呪ったと言う事になるのであります。

 この二つの記事は、聖書というものが弟子達に語り継がれていく過程、少し難しい表現で言いますと、聖書の伝承過程を知る上では面白いところであります。イエスが、いちじくの木に向かって「今後お前の実を食べる者がいなくなるぞ」と言われたという事があった、そうしたら翌日そのいちじくの木は枯れてしまったという事があった。そのいちじくの木が枯れたと言う事実があって、イエスの弟子達はこの事実に驚き、その事からこれはイエスがこの木を呪われたのだと弟子達が受けとめた。それが語り継がれていった、そうするとその事はだんだんエスカレートされて、イエスは「実がならないように」といちじくの木を呪ったのだ、そのためにその場で、いちじくの木はたちまち枯れてしまったのだと言う風になっていったと言う事であります。

 いちじくの木が翌日にしろ枯れてしまったのですから、それをイエスの呪いと受けとめたっていいではないか、それをイエスの呪いと受けとめるのはむしろ当然ではないかといわれるかも知れません。なぜイエスが呪ったのがどうかという事にそんにこだわるのかと言われるかも知れません。しかし「呪い」という事にこだわりたいのであります。イエスが「呪う」という事をなさるだろうか、どうしてもその事にこだわりたくなるのであります。イエス・キリストは、少なくともイエス・キリストというかたは、呪うという事はなさならいかたではないかと信じたいからなのであります。

 今日の説教の題は「イエスの呪い」という題をつけましたが、そういう題をつけるのを私はずいぶん躊躇しながら付けたのです。「呪い」という言葉はいやだな、それをイエスという名前に結びつけて「イエスの呪い」という題をつけるのはいやだな、イエスにはふさわしくないなと思いながら、そしてそれを看板に掲げたら世間の人々に悪い印象を与えるのではないかと懸念しながら、しかしここは普通はイエスがいちじくの木を呪った記事として読まれているところだから、現に新共同訳の聖書でもここの箇所の表題は「いちじくの木を呪う」となっているので、それでそういう題にしたのであります。しかし、その題をつけながら、こんな事を考えていたのであります。「イエスは確かにいちじくの木は呪ったが、木は呪ったが、人間を呪う事はなさらないかただ。このいちじくの木が枯れるという記事は、ただいちじくの木を呪ったというのではなく、この後に出てまいります、エルサレム神殿を清める記事と結ばれて、選民イスラエル民族が一向に悔い改めの実を結ばない事を、実を結ばないいちじくの木に託して言おうとしている記事なのだ。イエスは本当は実を結ぼうとしないイスラエル民族を 呪いたかったのだが、しかし、それをしないでいちじくの木を呪ったのだ」と、そういうテーマにしようと、ぼんやりと考えながら、「イエスの呪い」という題をつけたのであります。

 しかし、こうして改めてこのマルコによる福音書のこの箇所をよみましたら、イエスは、いちじくの木も本当は呪うとはしなかったのだ、呪ったと思ったのは弟子達なのだという事に気がついたのてあります。やはりイエスは人を呪う事はなさらないし、いちじくの木すらも呪う事はしなかった、イエス・キリストはおおよそ「呪う」という事はなさないかただ、その事を改めて知って、その事を強調したいのであります。呪われたと、受けとめたのは弟子達だった、おおよそ呪われると思い込むのは、すねに傷をもつ人間のほうが勝手にそう思い込むのではないか、という事なのであります。

 呪いというものはいやなものであります。単なる憎しみと言う事を越えて、もっとどろどろとした薄気味の悪い印象があります。自分の憎んでいる相手のわら人形でも造って、毎晩釘を打ち込んでいる図を連想させるのであります。そこには怨念といったようなものが込められております。イエス・キリストが人間に対してそんな怨念をいだくような事をなさるだろうか。
 
 このいちじくの木が枯れたという記事はルカによる福音書にはありません。その代わりににこう言う記事があります。イエスがこういう例え話をしたというのです。ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えていたので、季節が来たので実を求めて見にいった。しかし実は見つからなかった。それで園丁に「私は三年間も実を求めて、このいちじくの木のところに来ているが、いまだに実を見たことがない。その木を切り倒してしまえ。なんのために土地をむだにふさいでおくのか」といった。すると園丁は答えてこう言った。「ご主人さま、今年もそのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやってみますから。そうしたら来年実がなるでしょう。もしそれでも駄目でしたら切ってください」と懇願したというのです。ここで、このとりなしをする園丁をイエスはご自分の姿に例えようとしている事はあきらかであります。

 ここには実を実らせないいちじくの木を呪うイエスではなく、一向に実を実らせないいちじくの木のために、必死にとりなしておられるイエスの姿が示されているのであります。

 パウロの言葉によれば、「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いからあがない出してくださった。」と言っているのであります。イエス・キリストはいちじくの木を、いやイスラエル民族を呪うどころか、ご自分がその呪いを自ら引き受けて、呪いとなって十字架の上で死んでくださったというのであります。昔から木にかけられる者は呪われるとあるからであります。そのように書いているパウロ自身はずいぶん「呪い」という言葉を使うのであります。その「キリストは私たちの呪いとなってくださった」と書いている同じガラテヤ人への手紙で、「あなたがたの受け入れた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人は呪われるべきである。」というのです。

 他の箇所では「もし主を愛さない者があれば、呪われよ」ともいうのであります。そのパウロは「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、呪ってはならない」というのですから、パウロと言う人はずいぶん矛盾した事を平気で言う人であります。しかしパウロは「呪われよ」という時、それは「主イエス・キリストを愛さない者」に対してであり、そのイエス・キリストの十字架の赦しを宣べ伝える福音を信じないで、その福音を歪めて、再びあの律法の呪いの下に人々を導こうとするものは、呪われよ、というのであります。それは逆に言いますと、パウロという人が、イエス・キリストが罪あるわれわれを呪わないで、われわれの受けるべき呪いを身代わりに受けてくださった、そのイエス・キリストにどんなに感謝しているかを逆の意味であらわしているのではないかと思います。

 旧約聖書の民数記という所に、大変面白いというか奇妙なというか、ユーモラスな記事があります。イスラエルの民がエジプトを出てカナンの地に帰る為に砂漠を渡る時、周囲の国の人々はイスラエルの民を非常に恐れたのであります。そのためにモアブの王様バラクはイスラエルの民を呪わせようとしてバラムという占い師を呼び寄せて、イスラエルの民を呪って貰おうとした。ところがバラムはイスラエルの神からイスラエルを呪ってはいけない、とすでに言われていたというのです。バラムはそのことを王様に言うのですが、それでも王様はどうしても呪ってくれという。それで仕方なく、バラムはロバに乗ってとぼとぼと王様の所にいこうとするのですが、そのロバの前には主の使が抜き身のつるぎをもってたちふさがっていた。それはロバにしか見えないわけです。どうしてもロバは道を進もうとしなかった。ロバの背にのっているバラムは腹を立てて、ロバを鞭でうってしまうわけです。すると、今まで黙々と主人に忠実に仕えていたロバが突然口をきいてこう言ったというのです。「わたしがあなたになにをしたというのです。あなたは三度もわたしをうった。」すると、主人のバラムはろばに 向かって「お前がわたしを侮ったからだ」といいます。するとロバは「わたしはあなたが今日まで長い間乗られたロバではありませんか。わたしはいつでもこのようにしたでしょうか」と主人にいうのです。つまりロバは今まで忠実に仕えて来たロバなのだから、そのロバが今主人に逆らうのは何かがあるからだと、どうして気がつかないのですか、とロバが主人を諌めたのでありますす。そうしたら、バラムの目が開かれて主の使が抜き身の剣をもって立ちふさがっているのが見えたというのです。
 
 その後バラムは王様の所にいく事はいくのですが、王様には「神様が呪わない者をわたしがどうして呪えよう。神がすでに祝福されたものをわたしは変えることはできない」といって、とうとう最後までイスラエルの民を呪わないで、逆に祝福したというのであります。
 
 ロバが主人の横暴さを諌めるために口をきいたという面白い話であります。むろんこれは作り話でありましょう。しかしイスラエルの民はこのようにして、神は自分達をどんな事があっても呪わないのだ、祝福し続けてくださるのだ、だから恐れる事なく、おびえることなく、この神の前にいつも悔い改め、この神の赦しを信じて立ち上がっていこうと語りつづけたのであります。
 
 この事を後に申命記ではこういっております。「あなたの神、主はバラムの言う事を聞こうともせず、あなたの神、主はあなたのために、その呪いを変えて、祝福された。あなたの神、主があなたを愛されたからである」と言っているのであります。われわれの神は、イエス・キリストをとうしてわれわれに明らかにされたわれわれの神は、いつでもわれわれが呪われたと思っているとき、その呪いを祝福に変えて、祝福してくださる神なのであります。
 
 われわれも何かうまく行かない時とか、なにか突然の不幸に見舞われた時とかには、自分が呪われたのではないか、自分の人生はなにものかに呪われているのではないかと思ってしまう時があると思います。しかし、そういう時はわれわれが何か心にやましいものもっている時とか、自分達が落ち込んで気弱になっている時であります。あのイエスの弟子達が、イエスが呪ったから、いちじくの木が枯れたのだと解釈したように、われわれが勝手に呪われたのだと思い込んでいるのではないか。その時に、神はその呪いを変えて祝福してくださるのだと、その神を仰ぎのぞみたいと思うのであります。われわれの呪いを引き受けて死んでくださったイエス・キリストを信じて、神の祝福を信じたいと思います。