信仰と祈り          十一章二○ー二六節


 私が牧師になって毎日曜日の説教をするようになって、始めはそれほど自覚的ではありませんでしたが、いつのまにか説教においていつも自分が戦っているものが三つある事に気がつきました。それは私が牧師になって数年たった時に、教会婦人会連合という団体で出していた「教会婦人会連合」という機関誌から、「あなたが説教をする時になにを一番心がけますか」と言うようなテーマで原稿を依頼された時に、その原稿を書く時に気がついた事なのでありますが、一つは律法主義との闘い、一つは神秘主義との闘い、そしてもう一つはご利益信仰との闘い、この三つである事に気がついたのであります。
 律法主義との闘いについては、改めて申し上げる必要はないと思いますが、これは私のこれからも闘わなくてはならない永遠の闘いであると思っておりますが、後の二つの問題はそのうちにそれほど全力をあげて闘わなくなったテーマであります。なぜかといいますと、こういう事であります。

 神秘主義との闘いとは、キリスト教の信仰を神秘主義から守りたいという事であります。キリスト教の信仰を何か神秘的な体験とかというものでごまかされたくない、信仰というものをもっと理性的に、知性にも耐え得るものにしたいという願いであります。あの神秘的なもののもつうさんくさとういものを排除したい、それが宣教の任に当たる牧師の務めだし、責任だと考えていたのですが、それは今でもそう思っている事には変わりないのですが、しかし、それでは聖書にそうした神秘的な出来事はないのか、聖書からそうした神秘的な出来事を取り去ってしまったら、聖書の一番大事な中心的なものまで失ってしまうのではないかという事に気がついたのであります。聖書の中心は神の出来事が中心なのだから、そこには人間の理性や知性を越えた神秘的と言われるものがあるのは当然ではないか。それを排除するために、自分が全力をあげて取り組んでいるうちに、いつのまにか聖書の中心である「神の出来事」まで失ってしまうのではないか、という気がついたのであります。神秘主義の問題は、なによりも人間が神秘化されないように、ある人を聖人扱いにしないように、牧師が神秘化されないよ うに気を付ければいい、そのためには牧師自身がふだんの生活において、自分を隠さないで人間的である事をさらけだして生きていけばいいことだ、人間を神秘化する事と闘えばそれでいいと思うようになったのであります。

 そしてもう一つの問題、ご利益信仰の問題ですが、これは若い牧師ならば、牧師になる時多少みなもっている事だと思いますが、自分はあの新興宗教の布教者とは違うのだという自負であります。キリスト教は、あのもろもろの新興宗教とは違ってもっと知的で教養があって、高尚なものなのだ、キリスト教がそうしたご利益を求める新興宗教と一緒にされたくないという思いであります。そのために、なんとかして聖書の信仰をご利益信仰から区別したいという事であります。しかしキリスト教を求める人は、第一自分自身の事を考えてみても、みな何らかの意味で自分の幸福を求めて信仰をもとうとしているという点では、本質的にはご利益信仰と変わらないではないか。聖書に出てくる民衆、イエスを慕い、イエスに奇跡を求めた人々はみな病をいやして貰うためにイエスの所に来たのだし、そしてイエス自身そうした人々を決して拒まずに病気をいやしているではないか。人間が信仰を求めるという点では、教養があるなしに関わらず、みなご利益を求めるという意味では一つも変わりはない。そういう人間の弱さに、牧師はむしろ深く関わらなくてはならないと、考えるようになっていったのであり ます。

 しかし、ご利益信仰の問題はやはりいつも問題として考えておかなくてならない事であります。それは、キリスト教が他の宗教よりも高尚だという意味ではなく、ご利益信仰の問題は、やはり人間の欲望、人間の罪と深く関わる問題で、神を自分の都合のよいように、打出の小槌のような神にしてしまう、神を人間の願いに自動的に答えてくれる機械じかけの神にしてしまう、そういう人間の罪の問題が深くからんでいる問題であります。そういう意味では、ご利益信仰との闘いは、牧師はいつも自覚的にしていかなくてはならない事だと思います。その場合もご利益を求めざるを得ない人間の弱さの立場に牧師はいつも立って、しかし、その人間の自己中心的な幸福主義を問題にしていくことが必要なのではないか。われわれの信仰はいつでも自分の欲望、人間の願いを神に対して押しつけるという事から始まるのですが、そういう人間の期待から始まる信仰を、最後には、神に対する信頼へと転換するような信仰になればいい事に気がついたのであります。
 
 そしてこの神秘主義の問題とご利益主義の問題は、今日の説教の主題であります「信仰と祈り」の問題と深く関わっている問題なのであります。祈りというものを信仰的に正しくとらえるには、どうしたらいいかという問題であります。今日の聖書のテキストに「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言った事は必ずなると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりになるであろう」とか「あなたがたに言うが、なんでも祈り求める事は、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」というイエスの言葉は、取りようによっては、信仰の神秘主義とご利益信仰を生み出しかねないのではないかと思います。

 このイエスの言葉は、イエスがいちじくの木を呪ったら、たちまちいちじくの木は枯れてしまったという弟子達の驚きから始まっております。実際はイエスはその木を呪ったわけではなく、ただ弟子達がそう思い込んだだけなのだという事は、すでに学んだところであります。しかし、ともかくいちじくの木は枯れてしまったという事実から、神はなんでもおできになるという印象を弟子達がもったようなのであります。それを受けてイエスは祈りについて教えるのであります。そうすると祈ったらなんでも可能だという事になって、ここでのイエスの祈りについての教えは、場合によっては祈りと神秘主義、祈りとご利益信仰を生み出しかねないところであります。

 祈りに専念する事によって、いわゆる念力によって、何か超能力が働いて自然現象を越えた超自然現象が起こるのだと言って、そのような超能力をひきだすような熱心な祈りが奨励されているように受け取られかねないのであります。祈ったら、真剣に祈ったら山が動きだして海に入る事だって可能だという事だからであります。もちろんこれは比喩でイエスが語られている事はだれでも分かる事でありますが、しかし祈ることによって、たとえば山にでもこもって断食したりして、あるいは修道院にでもこもって、祈りに祈ったら何か神秘的な体験をしたという話は始終聞く事であります。

 祈りと神秘的な体験とは深く結びつけられるのであります。われわれが神秘的体験を経験できないのは、われわれに祈りが足りないからだと批判されるのであります。そういう話しを聞くたびに、そういう神秘的体験、あるいは聖霊体験ともいうかも知れませんが、私なんかは、そういう体験のうさんくささにうんざりしてしまいます。祈りによって自分を何か精神的に追い込んでいって、むりやりに恍惚状態に追い込んで、むりやりに霊的な体験をするというのは、あまりにも人間的な演出というものが感じられて、何かいやなものを感じるのであります。

 聖書には、そういう祈りによって神と出会うという箇所はでてまいります。たとえば、預言者エリヤがホレブの山にこもって祈っているうちに神の声を聞いたと言う話であります。しかしそれだって、それは神から言われて山の上で主の前に立ちなさいと言われて、預言者エリヤは山にいくのであります。そして神の声は、神の声なのだから当然激しい風とともに現れると思っていると、風の中には現れず、地震の中にも現れず、火の中にも現れず、最後にエリヤの期待に反して静かな細い声で、神の言葉が聞こえて来たというのであります。それは人間の期待、人間の想像を否定するするような形で、神の神秘が示されるのであります。人間の努力によって、なにか人間的な演出によって、これだけ祈りましたから、さあ神様の神秘をお示しください、などというものではなかったのであります。

 あのパウロのダマスコ途上での、イエスとの神秘的な出会いも、パウロはクリスチャンを迫害するために息を弾ませている時に、突然、イエスの方からパウロに対して、「パウロ、パウロなぜわたしを迫害するのか」という声をきくのであります。
パウロは、熱心に祈ったからイエスの声にふれたわけではないのであります。
 神の神秘は、人間の要請とか人間の宗教的な演出によって体験できるものではなく、それは神の神秘ですから、いつでも神の方から一方的に示される神秘であります。もし祈りとそういう神秘的体験と関係があるとすれば、祈ることによって、自分の心をむなしくする、人間の無力さをひしひしと感じるようになる、人間の、自分の祈りの無力をむしろ自覚する、その時に神の力とか神の神秘が示されると言う事ではないかと思います。
 
 そしてご利益信仰の問題であります。「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」というイエスの言葉はまさにご利益信仰をわれわれに教えているのではないかと思われるのであります。祈ったら、どんな願いだってかなえられるということなのでしょうか。ここには「祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」というのです。われわれはこんな祈りができるでしょうか。われわれはいつも神様に対して、疑いながら、こんな事は本当はかなえてもらえないのではないかと疑いながら、神に祈っているのではないか。そしてそういう自分の中からふつふつとわいてくる疑いをなくすために、否定するために、ますます熱心に祈るということなのではないか。

「すでにかなえられたと信じなさい」とイエスは言われますが、自分の祈る祈りが神にすでにかなえられたと信じられるという事は、考えてみれば、これは本当に大変な事だと思います。その前のところでは、「心に疑わないで信じるなら」とありすが、これも大変な事であります。

 もしわれわれが「すでにかなえられたと信じる」ことができ、心にいささかの疑いをもたずに信じられたら、それはもうその時には、自分のちっぽけな欲望とか人間的な願いなどはすっかりなくなってしまっている時ではないでしょうか。もう自分のご利益を求める気持ちなどは一切なくなっていて、全く神に全面的に信頼できるようになった時ではないでしょうか。自分の願いと神のみこころが全く一致した時であります。その時には「そのとおりになるだろう」という事は当然なのではないでしょうか。自分の心に疑いの思いが一切なくなって、ただ神のみ旨を信じられるようになるという事は、それは自分の中のそうしたつまらない欲が神のみこころに屈服させられているという事なのではないでしょうか。

 ですからイエスはこの祈り求める事を教える時に、その冒頭に「神を信じなさい」という言葉をもって始めているのであります。神を本当に信じる切るという事は、神にすっかり信頼するという事で、自分の願いを神にむりやりに押しつける事ではないのであります。

 われわれの祈りは、いつも自分の願いを神に聞いていただくという、神に対する要求、神に対する期待から始まるのであります。しかし、聖書はそれでもいいのだ、といっているのであります。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」と言い、「何事も思い煩ってはならない。ただ事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申しあげるがよい」というのであります。われわれの祈りはいつでも、期待と願いとから始まるのであります。そういう意味では、みなご利益信仰を一歩も出てはいないのです。しかしそのように祈り始めていく内に、次第次第にその祈りが神によって浄化されて、清められていって、神に対する信頼へと変えられていくのではないでしょうか。それがわれわれの祈りというものなのであります。そしてわれわれの信仰が神への信頼に変えられていった時には、神のみ心とわれわれの願いは一致している時ですから、自分の願いが神にかねえられるのは当然であります。

 そしてイエスはその後こういうのです。「また、立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい」というのであります。これはここの関連からいうと、ずいぶん唐突な話であります。ですから、これは、イエスがこの祈りについて教えている時に言われた言葉ではなく、別の時に言われた事が、イエスの祈りについての教えとしてここにまとめられて、挿入れたのではないかとも考えられます。しかし、実際にイエスがこの通りの順序で言われた事であると考えてもおかしくないほどに、祈りとゆるしとは深い関係にあるのかも知れません。それは祈りの一番大切な事の一つが、ゆるしについての祈りだからであります。われわれが神に一番求めなくてならない祈りが、自分の罪の赦しであり、そしてそれは他人の罪をどうやったら赦せるようになるかという事だからであります。自分が赦されるという事と、他人の罪をどう赦すかという事は深く関わっている問題であります。

 人を恨むと言う事はいやなものであります。出来る事なら、人を恨みたくないのであります。竹森満佐一が、説教のなかで、「恨みをいだかないという聖書の言葉のギリシヤ語は、人の悪を数えないという意味だ。恨みというのは、いつまでも憎いと思いつづけることだ。憎いと思うのは、その人の悪いことを思い出しては、数をかぞえるように繰り返し考えることだ。実際恨みほどつまらないものはない。恨むときには同じ事を何度も考えるものだ。考えてみても仕方ないのに、ただ赦すことができないばかりに同じ事を思うことだ」といっております。

 そういうわれわれが、もし人を赦せるようになったら、こんなに平安が与えられることはないし、こんなに救われることはないと思います。ですから、われわれが神様に一番祈りもとめなくてはならない事は、この、人の罪を赦せるようにしてくださいと祈りなのではないかと思います。

 イエスは「また立って祈るとき、誰かに対して何か恨みごとがあるならばゆるしてやりなさい」というのであります。実際には人をなかなか赦せないのです。しかしあなたが祈る時、せめて祈る時だけでもいいから、神に赦しをこいつつ、あなたもその人を、祈りにおいて、赦してあげなさいというのであります。その祈りが終わった後、実際にその人と会ったときには、やはり赦せないでいるかも知れません。しかしそれでもいいのではないでしょうか。神に祈っているうちに、神の前に立たされた時だけでも、その人を赦す気持ちになっていたら、そのうちいつか具体的に、その人を赦せるようになるのではないでしょうか。

 赦しは祈りから始まるのではないでしょうか。われわれが神の前に立たされた時、われわれはイエス・キリストにおける神の赦しをいやでも知らされて、自分自身が神から赦されている事を知らされるからであります。そして人もまた赦せるようになるからであります。