「神を愛する・隣人を愛する」          十二章二八ー三四節


 先週の説教では、キリスト教は、神を愛することと隣人を愛することと、この二つの焦点をもった楕円形なので、その人の置かれている状況によって、何かを選び決断をするとき、さまざまな決断の仕方がある、そういう幅があるのではないか、幅があってもいいのではないか、と言う事を考えました。
 今日は、その「神を心から愛する」こと、「隣人を愛する」こととは、どういうことなのか、その内容について考えてみたいと思います。
 
 まず始めに、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛する」という事から、考えてみたいと思います。「隣人を愛する」とはどういう事か。ルカによる福音書には、イエスからあなたの隣り人を愛しなさいと言われて、律法学者は「わたしの隣り人とはだれのことですか」と訊ねた事が書かれています。それに対してイエスは、あの「よきサマリヤ人のたとえ」を語られたのであります。そこでイエスは、強盗に襲われて、裸にされ、傷ついて、倒れている人をみて、祭司たちは見てみないふりをしてそこを通り過ごしたが、サマリヤ人は丁寧に親切に介護してあげた話をして、「この三人のうちだれが強盗に襲われた者の隣り人になったと思うか」と言うのであります。つまり、自分が愛さなくてはならない隣り人はどこかにいないかと、隣り人をうろうろ探し回るのではなく、自分に助けを求めてくる人、自分が今助けられる人、そして自分しか助けられない人の隣り人になってあげる事が「あなたの隣人を愛する」ということなのだとイエスは言うのであります。

 つまりどこかに隣人はいないかと、こちらが探し回るのではないという事であります。そういう探し回りかたをして隣り人を探しても、こちらが主体になって探し出す隣り人は結局自分が好きな人、自分にとって都合がいい人を選ぶだけで、結局は自分の気持ちを満足させるために親切をしたり、愛したりするだけで、そうした事が本当の愛なのかどうか、という事であります。

 それに対して、自分に助けを求める人に対して、こちらがその人の隣り人になるという事は、自分の方で相手を選べないわけです。ある時には、あのサマリヤ人のように、相手は日頃仲の悪い者であるかも知れないのであります。今自分に助けを求め、愛を求めている人に、こちらが隣り人になること、それが「あなたの隣り人を愛する」という言う事なのであります。

 自分に助けを求める人は、必ずしも自分の隣にいる身近な人であるとは限らないかもしれません。シュバイツアーがアフリカの黒人の隣り人になったように、あるいは、マザー・テレサのように、ある時そういう遠い人の声を聞いて、そういう人々が自分に今助けを求めていると、その声を聞いてしまうかも知れません。自分の身近な人、自分の家族の人はどうしても愛せないが、遠い人なら愛せるという事だってあると思います。そんなのは愛でないと、批判する必要もないと思います。身近な人を愛するという事は難しい事であります。そこから逃れるようにして、直接利害関係とか血のつながりのしがらみから離れた人を愛する事だってあると思います。

 隣人を愛するという時、「自分を愛するように」という言葉がその前についているのであります。この言葉をめぐって、色々な解釈がなされております。聖書全体の考えかたからすれば、自分を捨てなさいと言われているのだから、ここも当然「自分を愛する」という事が肯定的に言われているのではなく、その自分を愛する自己愛を捨てて、隣人を愛する事が言われているのだとか、いや、ここでは自分を愛する事が許されている事として語られているのだとか、いや、自分を愛するという事はいいも悪いもないのであって、人は自分を愛さない者はいないし、自分を愛する時には、われわれは熱心にまた具体的に愛するわけで、そのようにして隣人を愛しなさいという事が勧められているのだとか、そういう色々な解釈があります。
 
 われわれは他人を愛する時には、あまり具体的でないのです。観念的というか、抽象的なのではないでしょうか。たとえば他人がお腹をすかしているときは、具体的にパンをあげることをしないで、お説教をしたりしてごまかしてしまうのであります。ところが自分がお腹をすかしているときには、なによりもパンをまず具体的に口にいれるのであります。他人がお金がなくて困っている時にはいろいろ理屈をつけて、なるべくお金をあげないようにして、口でごまかそうとするわけであります。しかし自分がお金がないときには、欲しいのは、具体的なお金なので、お説教ではないはずなのであります。そのように、われわれは他人を愛する時には、はなはだ観念的抽象的なのであります。

 イエスはある時に、「なにごとでも、人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい」といわれましたが、自分を愛するように、隣人を愛するとは、まさに自分が人々からしてもらいたいように、具体的に人々にもその通りにせよ、という事なのではないかと思います。
  
 そしてもう一つ考えたいことは、これはわたしの個人的な経験なのかも知れませんが、わたしはいわゆるミッションスクールと言うキリスト教主義の学校で育てられましたので、この「自分を愛するように」、という所をずいぶん律法的に教えられたのではないかという事なのです。つまり、その学校の先生から教わったのか、自分がキリスト教の本を読んでそう思ったのか、忘れましたが、ある時、「神を愛する事は自分を憎む事だ」という言葉にぶつかって、強烈な印象をもったのであります。その頃は純朴でしたから、神を愛するために一生懸命自分を憎もう自分を否定しようとしたものであります。そして自分を憎み切れない自分、自分を否定出来ない自分に長い間苦しんだものであります。自分を憎み、自分を否定しないと、そのようにして、自分を捨てられないと、神を愛し、神に従っていく事はできないのだと思って、ずいぶん長い間苦しんだものであります。

 青春時代というものは、誰でも自分の欠点とかあの若い時代のぎらぎらした欲望に満ちた青春というものをもてあましているものであります。そういう自分を出来る事なら、否定したいのであります。そういう時に、「神を愛することは、自分を憎むことだ」という言葉にぶつかって、そういう方向で生きようと思い、それが出来ない自分に傷ついていったのであります。

 しかし考えて見れば、自分を憎んでいる人は、他人を愛せるでしょうか。自分の欠点が目について、それが許せなくて、憎み、否定している人は、他人の欠点をやはり許せないし、他人を心から愛するなんて事は到底できないのではないでしょうか。自分を憎んでいる人は、いらいらばかりしているのではないでしょうか。始終自分で自分を許せなくて、自分で自分を裁いている人、そういう人は、神経質で、自己反省ばかりして、いつまでも自分のところをぐるぐるまわっているだけで、自分から一歩も外に踏み出せないのではないでしょうか。自分に対して厳しい人は、人に対しても厳しくなってしまうのではないでしょうか。

 そういう意味では、自分を自分で受け入れ、自分で自分を肯定し、自分の欠点をも含めて、自分をあるがままに、受け入れられる人、自分を自分で許せる人が、始めて人をも本当に許せるようになるのではないでしょうか。ですから、自分を愛することが出来る人が、始めて人を愛する事ができるのではないか、そういう意味では、この「自分を愛するように」という事は、自分を愛し、自分を受けいれるということを意味しているのではないでしょうか。

 ただ問題は、どうしたら自分を自分で愛せるようになるかであります。欠点の多い自分であります。否定したいところが一杯ある自分であります。自分を愛したいよりは、自分を憎みたいぐらいの自分であります。そういう自分をどうしたら、自分で許し、自分で肯定できるだろうかという事であります。

 自分が座っている椅子を自分が座り続けながら、自分で持ち上げられないように、われわれは自分の事をただ自分で受け入れ、自分で肯定し、自分で愛する事は到底できないのではないでしょうか。そういう事ができるのは、ただナルシストだけなのではないでしょうか。ナルシストというのは、自分を始めから愛している人で、始めから自分は美しいと思っているのであります。自分の欠点に気がつき、自分の罪に気がつき、それに苦しんで、そしてあるがままの自分を受け入れようとしているわれわれとは違うのであります。
 
 どうしたら自分を肯定し、自分のあるがままを受け入れ、自分を愛せるようになるか、そのために、あの第一の戒め、「心をつくして、精神をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という戒めが大事になってくるのではないでしょうか。
 われわれが神を心から愛する時はどういう時でしょうか。それは神からわれわれが一杯愛を受けている時ではないでしょうか。この戒めは、あのイスラエル民族があの苦しかったエジプトでの奴隷生活から神によって解放されて、ようやく、シナイ山まで逃れて来て、その神の前に立たされ「主なる神はあなたをすべての民のうちから、あなたを選び、自分の宝の民とした。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し」といわれて、だからあなたがの方でも「心をつくし、精神をつくし、力をつくして主なるあなたの神を愛せよ」といわれた戒めなのであります。

 つまり、これはすでに神に愛されて、神の愛を一杯受けている者に対して言われている言葉なのであります。われわれが愛について学ぶのは、愛されて始めて、愛する事を学ぶ事ができるのであります。子供は親から愛を一杯受けて、人を愛する事を学んでいくのであります。親から自分が全面的に受け入れられ、肯定され、愛されている事が身体ごとでわかって、子供は始めて自分で自分を受け入れることができ、そして自分から解放され、他人をも愛せるようになるのではないでしょうか。ですから、親とかそれに代わる人から、愛されないで育った子供はどこか不安定で、ゆがんだ形で、愛を執拗に求めるようになるのではないでしょうか。あるがままの自分が誰かによって、赦され、しっかりと受け入れられていないと、われわれは自分で自分を受け入れることは難しいのであります。

 親は頼りになるでしょうか。子供の時はそれでいいかも知れませんが、青年期を迎えた時には、恋人が親の役目をしてくれかも知れません。しかし大人になって、自分の醜さに痛い思いをし、自分の罪に気づいた時、もう親も恋人も夫婦でも、自分を受け入れ、自分を肯定してくれる存在としては頼りにならないのではないでしょうか。自分は受け入れられているという安心感を持つ事はできないのであります。われわれが親になって分かる事は、われわれも自分の子供から頼られるほど、そんなに全面的に頼りになれるものでないという事であります。

 北欧の人の話ですけれど、そこでは、親の子供に対する教育の一番大切なしつけは、親は子供に対して根元的に頼りになれる存在ではないという事を小さい時から子どもに教えることで、そのようにして出来るだけ早く子供を自立させる事だ、と聞いた事があります。親の頼りなさを教え、子供に孤独を体験させて、神だけが頼りになるんだという事を教え込むことが、親の子供に対する大事な教育なのだというのであります。そのために夜は、子供部屋で独りで子供を寝かす、夜子供が独り切りの恐怖と寂しさでどなに泣きわめこうが、親は助けにいかない。そうして子供に、その孤独の中で、神に助けを呼び求め、神に祈る事をそれによって教えるのだというのであります。本当にそういう事をやっているのかどうかは知りませんが、あの北欧の厳しい風土を想像しますと、いかにも何かそんな事がありそうな気もしてまいります。

 私自身は、神を愛するためには、一生懸命自分を憎まなくてならないと悪銭苦闘して、そして結局は自分を憎み切れず、神の愛がわからなくなり、キリスト教から離れてしまった時があります。そういう時に、ある日突然聖書の言葉が、それはパウロに語られた主イエスの言葉でしたが、「わたしの恵みはあなたに対して充分である。わたしの力はあなたの弱いところにあらわれる。」という言葉、つまり「わたしはあなたの弱さをそのまま受け入れ、肯定し、愛している」という主イエスの言葉が、自分に迫って来て、その時始めて、神が自分のこのままを受け入れくださっていると言う事に気づいて、神が自分を受け入れてくださっているのならば、もう自分で自分を憎む必要はないんだという事に気づいて、この「そのままでいい」という神の大いなる肯定を聞いて、救われたのであります。主イエスは、われわれの罪を赦すために、そのためにクリスマスの夜、あの汚れた飼い葉おけの中で誕生し、そのためにわれわれの一番汚れている足を洗い、そのために十字架についてくださったのだという事がわかったのであります。

 その神の愛があって始めてわれわれは自分で自分を受け入れ、自分を愛せるようになり、そうして、自分を愛するように、自分の隣人を許し受け入れ、愛せるようになるのではないでしょうか。

 そして最後に考えておきたい事は、「主なるあなたの神を愛せよ」という戒めには「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」という神を愛する愛し方がつけられている事であります。それは具体的にはどういう愛し方なのでしょうか。この事を考える時、その前に実は前置きがあるのであります。それは「主なるわたしたちの神はただひとりの主である」という前置きであります。神は唯一の神である、神はひとりしか存在しないという事であります。それはわれわれが神を選べないという事であります。日本のように、やおろずの神、たくさんの神様がいるという信仰に立つならば、こちらで自分の都合で神を選べるわけです。商売繁盛の場合にはこの神、受験の時は、これといって自分の都合で選べるわけです。しかし神はただひとりしかいないという事は、こちらで神を選ぶ事はできない。むしろこの神様に自分が選んでもらわなくてはならないのであります。少なくともこちらが主体になって、どちらの神様がいいかと選べるわけにはいかないという事であります。ただひとりの人を愛するという事は何か品物をどれにしようかと、とっかえひっかえして選ぶという事はできないと いう事であります。

 神をただひとりのかたとして愛するというのは、こちらが自分勝手に選ぶのではない、選べるのではないという事であります。最初はこちらが選んだつもりかも知れませんが、そのうちに神の愛がわかり、自分が愛するかたはこのかた以外にないという事が分かると、自分が神を選んだのではなく、神様の方で自分を選んでいただいたのだという事がわかってくるのであります。その時に自分の都合で、自分の好き勝手で神を愛するのてばなく、この神に仕えていく、相手が主人なのであって、その主人に奴隷が仕えるようにして、誠意をつくして、仕えていく、そういう愛を注ぐようになるという事であります。

 われわれが神をただひとりの方として愛するということ、この方に仕えていく、そういう愛し方をするという事、それが「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、主なる神を愛する」ということではないかと思います。
 クリスマスを前にして、われわれはひとり子をこの地上に送ってくださった神を心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、この神に仕え、愛していきたいと思います。