「汚れた霊を追い出す」         一章二一ー二八節

 イエスは安息日に会堂に入って教えられた。その会堂に汚れた霊に憑かれた者もいたのであります。そしてその霊が「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたかわかっています。神の聖者です。」と叫んだというのです。汚れた霊とか悪霊はイエスを恐れたのであります。聖なる者を恐れたのであります。それならばなぜ会堂にきていたのでしょうか。

 汚れた霊に憑かれた男、悪霊に憑かれた男は、五章では、墓場にいたと記されております。恐らく彼は悪霊に引きずり回されて、精神錯乱を起こし、周りの人々に何か乱暴でもしたのではないかと思われます。そのために彼は鎖で足をしばられたりしたようですが、それでもその鎖をひきちぎり足かせを砕くので、誰も彼を押さえつける事ができなかった。彼は夜昼墓場を住処にしていたというのであります。

しかしこの人は、安息日に会堂に入っていて、聖書の話を静かに聞いていたのであります。恐らく何も乱暴をしなかったのであります。彼は恐らく聖書の話とか神様の話を聞くのが好きだったのではないかと思われます。ある意味では非常に宗教的だったのであります。それならばなぜイエスに出会った時、イエスを「神の聖者」と認めながら、イエスを恐れ、自分達を滅ぼしに来たのかと言い、叫びだしたのでしようか。
 
聖者を恐れ、聖なるものを恐れ、自分は聖なるものによって滅ぼされるという事を知っているのならば、なぜ安息日に会堂に来て、聖書の話を聞こうとしていたのでしようか。聖なるものを嫌うならば、墓場にいた方がずっと彼の住処としてふさわしい筈なのにです。

 いわゆる霊に憑かれた人というのは、非常に宗教的なのではないでしょうか。ここに登場してくる、汚れた霊に憑かれた人とか、悪霊に憑かれた人が今日にもよく見られる霊に憑かれた人と全く同じかどうかわかりませんが、いわゆる新興宗教にみられる、そういう霊にとりつかれた人の姿などをテレビなどでみておりますと、そういう人たちとあまり違わないのではないかと思われます。今日でもそういう霊に憑かれた人は、非常に宗教的であります。ある人は新興宗教の教祖になったりしているのであります。

霊に憑かれた人は神がかり的なのであります。だから、彼が安息日に会堂にいて神様の話を聞きにきていても不思議はなかったのかも知れません。彼は普通の人以上に宗教的なものに鋭い感覚をもっていたのであります。ですから、イエスを見たとたん、「あなたが誰だかわかっています。あなたは神の聖者です。」とイエスの本質を見抜いているのであります。そしてイエスに「わたしと係わってくれるな」というのです。「わたしを滅ぼさないでくれ」と叫びだすのであります。

 イエスが来るまでは安息日に会堂にいて気持ちよさそうにおとなしくしていたのであります。しかしイエスが来た時、急にそのように叫び出したのは何故でしょうか。それはイエスとそれまでの教師たちと全く違っていたからではないでしようか。
 
イエスが会堂に入って聖書の話をしますと、今までの教師達、律法学者たちの話と全く違っていたというのであります。イエスは権威ある者のように語っていたというのであります。イエスは本当の神の聖者で神の子だったから、それは当然であります。それに対して、それまでの律法学者たちは確かに聖書の話はしても、本当に汚れた霊をゆさぶるような権威のある話をしていなかったという事であります。宗教的な話はしていても、人の魂にふれるような、人の魂をゆさぶるような話をしていなかった、悪霊でも汚れた霊にとっても、何となく居心地のよい話しかしていなかったという事なのであります。

 悪霊、いわゆる霊的な人は非常に宗教的なのです。霊の話とか、神秘的な話は大好きなのであります。終末の滅びの予言とか、背後霊の話とか占いの話などは大好きなのであります。筋の通った、論理的な話、人間の理性的判断に耐えられるような話よりは、なんとなく得体の知れない霊的な話の方が好きなのであります。しかし本当に霊的な話、筋の通った、人間の理性的判断に耐えられるような論理的な、それでいて人間の理性の限界を突破するような本当の神の神秘にふれるような「権威ある話」には耐えられないで、逃げ出していくのであります。

 汚れた霊につかれた者がイエスに対して「わたしたちを滅ぼしにこられたのですか」と叫びますと、イエスはこれをしかって「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、汚れた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出ていったというのであります。こういう聖書の記事を見ますと、イエスが今日はやりの何か新興宗教の教祖様のように感じられて、何かいやな気がするかも知れません。しかしその様子を見ていた人々は非常に驚いて互いに論じあったというのです。「これはいったい何事か。権威ある新しい教えだ。汚れた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ。」

 イエスの悪霊を追い出す業をみて、これは新しい業だといって驚いたのではなく、これは「権威ある新しい教えだ」と言って驚いたというのであります。これはある意味で不思議なことであります。そういう霊に憑かれた人から霊を追い出す教祖とか巫女がやるように、教祖自身が何か霊に憑かれたように恍惚状態に陥って、教祖と同じ恍惚状態に彼を心理的に引きずり込んで霊を追いだしたというのではなく、イエス自身は決して恍惚状態に陥ることなく、極めて冷静に「黙れ、この人から出て行け」と「言葉」で命ぜられていただけなのであります。それで人々はこの様子を見て、「これは権威ある新しいわざだ」と言って驚いたのではなく、「これは権威ある新しい教えだ」と言ったのではないかと思うのであります。それは恐らくイエスが会堂に入って教えられたという事とも結びついているのではないかと思われます。

 つまりイエスは悪霊とか、汚れた霊に憑かれた人を何かいわゆる宗教的な方法で、人を何か洗脳するような方法で、人を精神的におかしくさせて、一種のヒステリー現象に追い込んで治療に当たったのではなく、いわば説教で、言葉で霊を追いだしたのだという事であります。

 わたしは牧師になって、自分のやっている事に何か自信を失いかけた事があります。いろいろな悩みを抱えている人の話を聞いていて、その人の苦しみを何とか解決してあげようと思っている時、自分のやっている事、やろうとしている事は、まるで精神科の医者のような事ではないか、しかも自分はそんな勉強は専門にしていないし、あやふやな知識でいわゆるカウンセリングをしても何にもならないではないか。牧師であるよりはいっそのこと心理学を勉強して、カウンセリングを勉強してカウセラーになった方がよほどいいではないか、牧師とカウンセラーとどこが違うのかと思ったものであります。その頃は牧師もカウンセラーの勉強をしなくてはいけないと盛んにいわれていたのであります。

その時わたしなりにその問題を克服したのは、精神科の医者やあるいは心理学者やカウンセラーは、心理学的な方法で治療に当たるだろう、しかし自分は、人間の苦しみとか悩みの問題を思想的に考えていこう、それが牧師の任務なのではないかと思ったのであります。心理的操作によってではなく、思想的に考えていこうと思ったのであります。思想的にという事は、たとえば、人間とは何か、人間は造られたものであって、人間には造り主なる神がいましたまうという事実、その神が愛をもってわれわれを導いておられるという事実、その事を身をもってわれわれに知らせるためにイエス・キリストがこの地上に来られたという事実、その事実を宣教し、それを信じるように導く、それによって問題を克服していこうという事であります。

そうした思想、これは思想というよりは信仰といった方がいいのかも知れませんが、あえて思想といっておきますが、この思想を、牧師は宣べ伝える。心理学者は心理的操作によって人の苦しみを解決してあげるという方法をとるかも知れないが、牧師の任務はそれとは違うのだという事であります。

心理的なカウンセラーとかいう「わざ」によってではなく、まして新興宗教の教祖様の霊力によってではなく、「教え」によって、説教によって人を慰め励まし、救いへと導けたらと思ったのであります。今日心理学の方でも、単なる心理的操作、精神分析をどんなに巧みにやっても駄目だ、その根底に深い人間観をもっていなくてはならないという反省があるそうであります。それを実存的心理学というのだそうですが、そういう反省が心理学の中でも起こっている事を何かで読んだことがあるのであります。

 汚れた霊に憑かれた人、霊に憑かれる人というのはどういう人でしょうか。色々な事が原因でそうなるのかも知れませんが、一つ言える事は、霊に憑かれる人というのは非常に人の暗示にかかりやすい人だと言えないでしょうか。洗脳されやすい人なのではないかと思います。人の暗示にかかりやすいという事は、自立していない人だと言えないでしょうか。

自分の自主的な判断で考え行動できない。非常に人に依存しやすいのであります。従って自由にものを考えられない、いつも何かに縛りつけられていないと不安なのであります。ですから、何かに縛られたい人だと言ってもよいかも知れません。彼は悪霊に憑かれて苦しんでいるわけですが、それは確かに苦しめられているのですが、ある一面それは彼にとってそうした状態が居心地のよい状態なのかも知れないのであります。イエスをみると「あなたはわたしと何の係わりがありますか。あなたはわたしを滅ぼしに来られたのです。」と霊が叫び出したとありますが、それは霊の叫びであると同時に、彼自身の叫びでもあるのではないでしょうか。彼は自由になるのがこわいのであります。自分をいつもなにものかに縛り付けておきたいのであります。
 
 この霊、汚れた霊とか、悪霊はいつも自分ひとりでは何もできないで、どこかに寄生していないと生きる事ができない存在の様に聖書には書かれております。あの墓場を住処にした汚れた霊、それはレギオンという名前がつけられておりますが、彼はイエスによってその人から追い出されそうになると、「わたしどもを豚の中に住まわせてくれ」と懇願するのであります。また、マタイによる福音書を見ますと、汚れた霊が人から出ていくと、休み場を求めて水のないところを歩き回るけれど、なかなか見つからないで元いた場所にいって見ると、その家はあいていて、そうじしてあって飾り付けがしてあった。それでその霊は自分以上に悪い七つの霊を一緒に引き込んでその人の中に住み込んでしまったという話が出てくるのであります。

こうした話をみると、汚れた霊は自分一人では生きていく事ができずに、誰かの中に入り込み、寄生しないと生きて行けない存在として描かれているのであります。汚れた霊自身が非常に依存的な存在なのであります。その依存的な存在である霊は、依存的な人間を捜し求めて、そこを住処にするのであります。霊に憑かれた人、憑かれやすい人とは、非常に人の暗示にかかりやすく、人に依存しやすい人なのではないかと思うのであります。
 
イエスはその人に対して「黙れ、この人から出て行け」と命ぜられた。この霊は一つではなかったようであります。二四節をみますと、「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがありますか」と、「わたしたち」と複数形が使われております。五章に出てまいりますレギオンの話は、その「レギオン」というのは「大勢」という意味だと説明されております。一人の人間の中に大勢の悪霊が住み込んでいるというのであります。

 その人が何かを判断し行動しようとすると、彼の心の中で、そうしてはならない、いやそうしなさいと、色々な声が彼にささやきかけるのではないでしょうか。自分の心は分裂していくのであります。自主的判断、自主的行動ができないのであります。
 
 ここにはそのようにしてイエスによって汚れた霊を追い出された人間がその後、どうなったかは記されておりませんが、五章に登場してまいります人は、イエスによって霊を追い出されて正気にもどった後、彼はイエスに「あなたにお供させてください」と申し出ますと、イエスは「お前は家に帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんでくださったかを、それを知らせなさい」と言われるのであります。イエスの後についていく事を、イエスはその男にはお許しにならなかったのであります。彼にとって何よりも今必要な事は自分の足で歩くという事だったからであります。

 救われるという事は、自分の足で立てるようになるという事であります。自分の足で歩けるようになるという事であります。救われるという事は、自由を与えられる事なのだ、と聖書はいうのであります。救われた人間は、決して依存的な人間になることではないのです。教祖様に盲目的になにもかも従うというような依存的な人間になるということではないのであります。

 どんなにおぼつかない足であっても、自分の足で立ち、自分の心で判断し、決断し、選択できるようになる、行動できるようになるという事であります。

 確かに、神を信頼して歩むという事は、神に依存して歩むという事と似ているかも知れませんが、しかし信頼するという事は、神が背後で必ずわたしを助け、励まし、導き、裁いてくださるから、自分の足で歩けるのだという生き方なのであって、神に信頼して生きる事は、決して自分の責任を放棄して生きることにはならないのであります。
 
 イエスは、悪霊にものを言う事をゆるさなかったと三四節に記されています。それは彼らがイエスを「神の聖者である」ことを知っていたからだというのです。なぜ悪霊にものを言う事を許さず、イエスを神の聖者と言わせようとしなかったのでしょうか。

 それは汚れた霊は、イエスの事を「自分を滅ぼすもの」としてしか理解しようとしていないからであります。イエスをただ恐怖心をもってしか見ようとしていないからであります。もしわれわれがイエスに対して、神に対して、ただ恐怖心をもってしか接することができないならば、われわれは萎縮し、われわれは自由でなくなるのであります。イエスを自分を滅ぼす者としてしか知ろうとしない、神をただ裁き主としてしか知ろうとしないならば、われわれはたちまちの内に、神経症に陥ってしまって、それこそ霊にとりつかれるような生き方をするようになるのではないかと思うのであります。

聖書は、神はわれわれを滅ぼすためにひとり子イエス・キリストを送ったのではなく、われわれを愛するためにひとり子をこの世に派遣したのだと告げるのであります。