「レプタ二つを捧げる」         十二章三八ー四四節


 高見 順という小説家に「おれの期待」という詩があります。
 「徹夜の仕事を終えて、外へおれが散歩に出ると、ほのぐらい街を少年がひとり走っていた、ひとりで新聞を配達しているのだ。おれが少年だった頃から新聞は少年が配達していた。昔のあの少年は今、なにを配達しているのだろう、ほのぐらいこの世間で。なにかをおれも配達しているつもりで、今日まで生きてきたのだか、人々の心になにかを配達するのがおれの仕事なのだが。この少年のようにひたむきにおれは何を配達しているだろうか。お早う、けなげな少年よ、君は確実に配達できるのだ。少年の君はそれを知らないで配達している。知らないから配達できるのか。配達できるときに配達しておくがいい。楽じゃない配達をしている君に、そんなことを言うのは残酷か。おれがそれを自分に言っては、おれはもうなにも配達できないみたいだ。おれもおれなりに配達をつづけたい、おれを待っていてくれる人々に、幸いその配達先は僅かだから、そうだ、おれはおれの心を配達しよう。」

 こういう詩であります。新聞の配達少年に託して、自分の人生を振り返って、自分は今までなにをしてきたのか。世間になにを配達してきたのか、と一瞬空しさに襲われながら、最後にそうした自分の心を奮い立たせるようにして、「そうだ、おれはおれの心を配達しよう」と言う詩であります。解説によりますと、これは「わが埋葬」という一連の詩の中の一つで、その詩集を出したその年に高見順は亡くなっているのであります。つまり、その亡くなる年、五十八で亡くなっておりますが、その亡くなる年に自分の今までの人生を振り返り、もう一度自分の心を奮い立たせて、あの新聞配達の少年のひたむきさに託して、自分の心を配達しようといっているのであります。

 新しい年を迎えて、もう別に今更新しい感慨はないかも知れませんが、しかし高見順がそのなくなる年に、もう一度少年にかえって「そうだ」と決心を新たにしましたように、われわれも何かを奮い立たせる事は必要かも知れません。せめて年の始め位にそういう事をしておかないと、またずるずると古い自分を引きずりながら一生を終わってしまうという事にもなりかねないのであります。イエスのたとえにありますように、それぞれ託されたタラントを活かしていかなくてはならないと思います。それがたとえ一タラントであったとしても、それをなくす事を恐れて地面に埋めて一年を過ごしてしまうことのないようにしたいと思います。

 れわれもどんなに年とったからといって、高見順がいうように、自分の心を配達することはできるわけですから、心を配達していけるようになりたいと思います。

 今日の聖書の箇所は、いわゆる「レプタ二つ」と言われている箇所であります。イエスが神殿の庭で、さい銭箱にお金を投げいる様子をなんとなくみていたのでしょう。金持ち達はあり余るお金の中から、沢山のお金を投げ入れていた。その時、貧しい女がレプタ二つを投げ入れた。レプタ二つでは、それは一コドラントに当たり、当時の労働者の一日の賃金の十分の一にしか当たらない額だそうです。それを見てイエスは「あの貧しいやもめはさい銭箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。」と言われたというのであります。

 これは何もイエスが生活費全部を献金する事を奨励しようとしたわけではないだろうと思います。どこかの新興宗教の教祖や幹部がやりかねない事をイエスが言う筈はないのです。第一、彼女が生活費全部を捧げて、後の生活はどうなるというのでしょうか。いくらなんでも一コドラントが、彼女の生活費全部とは考えられませんし、イエスがそんな細かい事まで、知っているわけではないと思います。その後、十三章では、イエスの弟子達がエルサレム神殿の立派さに感嘆したら、イエスは「これらの大きな建物をながめているのか、このお前達が感心している宮もやがて木っ端みじんに壊れる時がある」と言って、そうした信徒の献金で建てられた大きな神殿を批判するのであります。

 そのようなやもめの尊い献金も人間的野心の壮大な神殿に用いられてしまうのであります。そうであれば、生活費をすべて捧げて献金する事をイエスが奨励するはずはないのであります。第一この時、イエスはこのレプタ二つを捧げた女の行為について述べる時、女をみんなに紹介して、みんなに大声をあげてほめたのではなく、ただ弟子達だけをひそかに呼び寄せて、そう言われただけなのであります。レプタ二つを捧げた女を別にほめたわけではないのです。ですから、これは信仰的な美談なんていうものではないのです。

 これはこの女の生き方の問題、生き方の姿勢の事であります。レプタ二つをもっていたのですから、レプタ一つを残しておいて、レプタ一つだけ投げることも出来たわけです。しかし二つとも捧げた。自分の持っているすべてをゼロにして、ただ将来を神に委ねきって生きようとする姿勢、それをイエスは弟子達に言っているのであります。

 初代教会においては、貧しい信徒の生活を支えたり、伝道のために、多くの信徒が自分達のもっている土地や家屋を売って、それをお金に変えて、教会に捧げた時期がありました。しかしそうしたやりかたは、やはり無理があっていつのまにか立ち消えになっていたようなのであります。そのきっかけになったのが、使徒行伝に記されております、アナニヤとサッピラという夫婦の起こした事件であります。彼らもみんながそうしているからというので、自分達の資産を売って、その一部を持ってきて、これは自分達のもっている全資産ですと、夫婦で共謀してごまかして、使徒達の前に置いた。それが嘘だということが分かって、神に裁かれて、夫婦とも死んでしまったという事件であります。この時、ペテロはこう言うのです。「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずにのこしておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由ではないか。どうしてこんな事をする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 「神を欺いたのだ」と言われて、そのショックのあまり、アナニヤは死んでしまったというのであります。ペテロは、自分の地所を売って、その多くの部分を自分達の生活費としてとっておいたって、一向にかまわない事なのに、どうしてこれが自分達の持っているすべてですと偽るのか、と言っているのであります。

 それ以来、自分達の資産をすべて教会に捧げて、それを共有財産にして自分達の信仰生活とか、伝道活動続けていくという事は、無理がある、どうしてもこういう偽善を生みだしかねないという事がわかって、次第にこうした事は消えていったようなのであります。
 ですから、生活費を全部を捧げたという事が問題ではないのです。彼女が家になにがしかの生活費があったってそんな事はどうでもいいことなのです。今さい銭箱を前にして、レプタ二つをしっかりとにぎしめて、そのうちの一レプタだけを捧げたのではなく、手にしているレプタ全部を捧げて、手を空っぽにしたという事であります。

 この後、いわゆる「ナルドの香油」と言われている記事があります。イエスがいよいよ十字架の道を歩む時、イエスの弟子達はそんな事をあまり本気に考えていないとき、一人の女が高価なナルドの香油をイエスに注いだ、弟子達はそんなもったいない事を何故するのか、それを売って貧しい人に施した方がいいのに、と非難したのに対して、イエスは「この女は香油を注いで、私の葬りの用意をしてくれたのだ」と言って、大変喜ばれたと言う出来事であります。この場合は、レプタ二つという少額のお金の事ではなく、その何十倍も何百倍もする高価な額をイエスに捧げたことがほめられているのであります。ですから、額の問題ではない、捧げ方の問題、というよりは、神に対する姿勢の問題であります。
 
 お金とか家族とかあるいは健康とか、そういう所で、自分の生活の基盤を確保しておいて、それだけではなんとなく不安なので、神を信じていこうとする生き方でいいのか。自分というものをいつでもどこかで確保しておくという生き方、自分自身をすべて投げ出すという賭けをしないという生き方、そういう事でいいのか、そういう神の信じかたの問題であります。もちろん始終そんな賭けのような生き方をする必要はないと思いますが、「この時」と言う時、自分を賭けなくならない「この時に」賭ける事をためらってしまっていないか、という事なのであります。

 「この時」という時には、自分の退路を断ち切って、自分の今まで渡って来た橋を断ち切って、神に委ねきってみる、そういう信じかたをしてみるという事が必要だという事であります。いつでも、自分を捨てる用意している、そういう覚悟をもちながら、生活しているかという事であります。それは具体的に言えば、明日の事をもう思い煩わない、そういう生活をしているかという事であります。明日という日を、いつもいつも自分の計画と、自分の持っている貯金とか、自分のかけてきた保険とか、そういうもので安定をはかろうとするような生活の仕方しかしていなのではないかという事であります。

 あるいは自分の命のことで、自分の健康のことばりを気にして、自分の生活については健康のことばかりしか、関心がないというつまらない生き方になっていないかという事なのであります。もちろん病気の時には健康のことしか関心がいかなのは当然の事であります。そうい事ではなく、普段の健康な時も自分の身体のことばかりを思いわずらっていないかという事であります。会えば話題は健康のことだけというのは情けないことであります。自分の命のことは、もっとふっきてしまってもいいのではないか。自分の命のことを神に委ね、明日の事を神に委ねて生きてみる、そういう生き方をしてみてもいいのではないかという事であります。

 イエスが今、レプタ二つを捧げたやもめ女の献金の捧げ方を通して、弟子達に語ろうとした事はその事ではないかと思うのであります。

 マルコによる福音書には、その前に律法学者達の偽善的な姿勢に対するイエスの批判の言葉が記されております。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場で挨拶されること、会堂の上席を好み、宴会の上座を好む。また、長い祈りをする」というのであります。これはすべて律法学者たちが自分達は宗教的に上の位にいる事を絶えず示そうとすることからおこる偽善であります。

 律法学者達は、聖書のときあかしをしなくてはならないのですから、もちろんその時には神の権威を代表する意味で、長い衣を着なくてはならない時もあるだろうし、会堂の一段高い所に立つ必要もあるかも知れない。しかし、その「高い所に立つ」という事が彼らのすべての生活の習慣になってしまっている、だから、結果的には、「やもめたちの家を食い倒す」という事をやってのけることになるのであります。自分達の宗教的な権威を嵩にして、そういうひどいことを平気でやるようになってしまうのだというのであります。

 神でもない人間が、神の位置に立っていると思ったり、神の位置に立たなくてはならないという錯覚をもってしまうと、われわれはとんでもない偽善的な事をしてしまうという事であります。

 それに対して、レプタ二つを捧げた貧しいやもめ女には、そのような偽善はみじんも感じられないのであります。ただ一人、神の前に打ち砕かれた罪人として立っている、ただ神の恵みに感謝し、神の憐れみをひたすら乞おうとして、レプタ二つを捧げている、そこには偽善というような事はみじんも入り込む余地はないのであります。 

 宗教的な偽善が起こるのは、われわれが神の前に、一人の罪人として立とうとしないからであります。神の前に立ちながら、自分には少しはましなところがあるなどと、密かに自分を誇ろうとしているから、宗教的な偽善が起こるのではないでしょうか。われわれはもちろん社会生活するためには、お化粧をするくらいの偽善は必要かもしれないのです。そんなものは偽善だといって開き直るよりは、自分の恥ずかしい所、自分の醜い所を隠すと言う恥じらいをもった方がずっとつつましいかも知れないと思いまます。大きな偽善に陥らないために、小さな偽善、自分に対する恥じらいをもつという小さな偽善をもった方がいいかも知れないと思います。

 この新しい一年、われわれもいつでも自分のもっているレプタ二つを、二つとも捧げる用意をして、そういう覚悟をして、信仰生活の歩みをしていきたいと思うのであります。そして自分達の心を人々に配達していきたいと思うのであります。