「終末の前兆とは何か」        十三章一ー一三節


 イエスの弟子の一人がエルサレム神殿を去る時、「なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」と感嘆したのであります。それに対してイエスは「その石ひとつでも崩されないまま、他の石の上に残ることはない」と言われました。その神殿も木っ端みじんに崩壊する時があると言われたのであります。その時のイエスの口調は非常に厳しいものがあったのではないかと思います。それでその場では、弟子達はイエスに何も言う事が出来なかったようであります。

 その後、夕方、郊外のオリブ山に登って、夕日をあびている神殿を見ている時、その時に改めて、弟子達はイエスにひそかに訊ねたのであります。

 「いつそんな事がおこるのでしょうか。またそんな事がことごとく成就する場合には、どんな前兆がありますか。」
 この場所はもう人里離れて、イエスとその弟子達しかいないところであります。それなのに、ひそかに訊ねるというのはおかしな事であります。まさか、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレたちが他の弟子達に知れないように、ひそかに訊ねたという事ではないと思います。この「ひそかに」と言う事は、この神殿が崩壊してしまう時、その様な事が起こる時は、この世の終わりの時なので、その終末の時はいつですかと聞くという事、それはやはり重要な事なので、みんながひそかに聞きたがっている事なので、つい、ひそかに聞くようになったと言う事だろうと思います。

彼らは、終末の時はいつかとただ聞いたのではなく、その終末が起こる前兆は何かという事を聞いたのであります。彼らが、聞きたかった事は終末はいつ来るかという事よりも、その終末の前兆は何かという事を聞きたかったのではないか。終末がくるという事は避けがたいことで、それは覚悟している。イスラエルの人々はみなその事は覚悟はしていただろうと思います。そのためにみんなが一番知りたいのは、その終末の時はいつくるか、という事よりも、その終末が起こる前兆は何かと言う事なのではないかと思います。
 なぜそのように前兆の事を知りたいのでしょうか。それはその前兆を一早く知って、その終末に備えたいという事だろうと思います。備えたいという事は、その終末の災害から逃れたいという事であります。だから、他の人よりも早くその前兆を知って、他の人よりも早く、逃げる準備をしたいと思っていたのではないか。イエスの弟子達もそう思っていた。だからそれを聞こうとする時、つい「ひそかに」という事になってしまったのではないか。辺りにだれもいないのにであります。ですから、終末の時を知るということ、というよりもその終末の前兆を知りたいという事は大変卑しい事なのではないか。卑怯な事なのではないか。極めて利己的な自己中心的な事なのではないか。だから、ひそかに聞くことになるのではないかと思うのであります。
 
もう一つわれわれが、終末の前兆を知りたいという願いをもつ理由があると思います。それはその前兆を知ったら、ああもうすぐ終末の裁きの時が来るから、その時に悔い改める準備をしよう、その時に真人間にになって神の前に出れるようにしよう、それまでは自分がしたいことをしておこうという気持ちが働いているのではないか。
 
よく壮年の人が段々年をとってきて自分の死ぬ時が迫ってきて、あわてて信仰を求めようとする事に似ているのではないでしょうか。その人がまだ若い時に、教会に来て見ませんか、と言いますと、まだまだ早い、もう少し、年をとってから教会にいきますという返事が返ってくるものであります。
 
どちらにせよ、われわれが終末の時そのものを知りたいというよりは、その終末の前兆を知りたい、その前兆を知る事にいつでも関心をもつという事はわれわれの卑しさを暴露しているのではないでしょうか。
 
 それに対してイエスはなんと答られたか。イエスは色々と終末の前兆めいた事をいいますが、しかし結局イエスが言われている事は、たとえば「戦争と戦争の噂を聞くときにも、あわてるな、それは起こらなければならないが、まだ終わりではない。」と「まだ終わりではない」といったり、「それは産みの苦しみの始め」であるといったりしています。つまり前兆のようなものは起こるが、しかしまだ終わりではない、それは終わりの始まりにすぎないというのですから、結局は前兆の事は言わないと同じであります。そうかと思うと、「その日にはこの患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つ事をやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光をもって人の子が雲に乗ってくるのを見るであろう」と言っているのですが、これはもう前兆というよりは、終末そのものでありますから、前兆の役割は果てせないと思います。
 
そしてイエスは結局は、「その日、その時は、誰も知らない。天にいる御使たちも知らない、神の子である私自身知らない、ただ父なる神だけが知っておられる。だから、気をつけなさい。目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。」というのであります。

 われわれが終末の前兆を知って、自分だけはひそかにその準備をしておきたいと思っていましたら、そういう卑しいよこしまなわれわれの願いをみすかすようにして、イエスはそのわれわれの期待を粉砕して、いつ来るかわからないのだから、いつも目を覚ましておけ、いつでも悔い改める生活をしておかなくてはならないと言われるのであります。

 ですから、われわれの信仰が終末を自覚して、終末的に生きなくてはならないと言う事は、ノストルダムとかの予言に興味をもつとか、昨年の韓国のあるキリスト教の一派が終末の日を計算して、その日を待つというような事ではなく、それはいつ来るかわからないものとして、いつ来てもいいように、今日来てもいいように、今来てもいいように、いつも目を覚ましていて、神様との関係の中で生きるということなのであります。
 
 終末の日はいつかと自分の人生の前の方に、遠い将来起こる事として、前の方にそれを想定して生きるのではなく、今日一日今日一日を神との関係の中で生きるという事であります。終末の日を前方に設定するのではなく、神の臨在しておられる上から迫って来るものとして、自分の頭上に、前方ではなく、自分の上におかなくてはならない。従って終末を自覚しながら生きるという事は、自分の将来を考えながら生きるという事ではなく、神を考えながら生きる、神の臨在しておられる上を見上げて生きる、それが終末的に生きるという事なのであります。

 終末とはどういう日なのでしょうか。われわれはどうかすると、終末とは神の裁きの日で、われわれが何か善い行いをしてきた者が、その時選別されて、天国にいき、悪い行いをしてきた者は裁かれて、地獄に落とされる、そういう選別の時だと考えていないでしょうか。そういうふうに思っているから、終末の日に備えて、いち早くその前兆を知って、あわてて悔い改めておきたいと思うのではないでしょうか。

 終末は確かに神の裁きの日ではありますが、それはどういう意味で裁きの日かと言えば、その日に、神が神としてご自分を現す時、神があらわになる時、誰の目にも明らかに決定的に神が神としてご自身を現す時なのであります。そういう意味で裁きの時なのであります。つまり神でないものが裁かれる時なのであります。神を神として奉る事をしてこなかった人、神をないがしろにして来た人の思いが裁かれる時なのであります。

 ですから、まず始めに偽りの宗教者が裁かれる時であります。神でもない者が、神の座に座って権力を奮っている、そういう神殿が、徹底的に崩壊するときであります。

 そして「多くの者がキリストの名を名乗って現れ、自分がメシヤだと自称し、多くの人がそれに惑わされていく」時なのであります。つまりイエス・キリストを救い主として受け入れようとしなかった人、あの十字架の道を歩むイエス、神の子でありながら、人々に卑しめられながら、謙遜の限りをつくして主のしもべの道を歩むかたを自分たちの救い主として受け入れ、信じようとしてこなかった人々は、きらびやかな神殿の中に座っている者を、金と政治的な権力の座に座っている者をメシヤとして奉ってしまう、そういう偽キリストに安易に惑わされてしまうのであります。

 そういう事が終末の時に起こるのであります。本当の神が現れる時、それまでいいかげんな信仰しかもとうとしなかった人、あるいは自分の利益ばっかりおいかけてこの時にあわてて信仰をもとうとする人は、そういういんちきな偽キリストに惑わされて酷い事になるというのであります。そういう裁きであります。

 そして戦争が起こる。戦争というのは、これは庶民が起こすものではなく、世の指導者が起こすものであります。庶民はそれに巻き込まれるだけであります。戦争は権力を握っているものが、その権力をあらわにするときであります。

 そして地震や飢饉が起こる。これはもう個人的な災難ではなく、全国民的な災難であります。この時にはもう個人の良心などというものが役にたたないのであります。共同責任というものが神によって問われる時なのであります。自分だけは良心的に行動してきましたなどという弁解が許されずに、全人類が連帯的に神の裁きの前にひれ伏せられるのであります。

 そしてイエスはその終末の裁きに際して、信仰を与えられているわれわれはどうしたらいいか、と九節から述べるのであります。まず「あなたがたは自分に気をつけなさい」と言って、信仰者に対していうのであります。まず信仰者は迫害されるというのであります。「あなたがたはわたしのために、衆議所に引き渡され、会堂でうたれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられる」といいます。

 渡辺信夫がここを説明してこう言っております。「ささやかな証を立てている限りでは、どうしてもイエス・キリストが主であるという証しに接することができないポケット地帯がある。それは権力の座に座っている人々のいる地帯だ。そこにいる者は、証に直面できないでいる。イエスの福音にすべての人が接することができた。しかし、ただヘロデやピラトは接することが出来なかった。彼らが権力の座をおりて、主イエスの前にひれ伏したならば接する事ができたが」というのであります。そしてそういう人々にキリストを証する道はもう殉教という形しかない。その時に、権力の座に座っている人々もいやおうなく、キリストの証に接する事になるというのであります。あのピラトがそうだった。ヨハネを殺したヘロデも結局はイエスにおびえたのであります。権力者たちはキリスト者を迫害し、抹殺するつもりで、結局は一番強力に彼らに証をさせる場を提供したことになるのであります。

 福音は、そのように自分の方からは権力の座から降りようとしないで、そのためにキリストの福音に接する事のできないでいる人にも、殉教者を通して、伝えられるのであります。もちろんだからといって、彼らが悔い改めるわけではないのですが、それでもともかくそのようにして福音はまず全ての人に宣べ伝えられることになるというのであります。

 その迫害にはどうしたらいいのか。自分達の勇気を奮い立たせて臨めというのか。イエスはあの弱い弟子達の事をよく知っておられるのであります。そしてわれわれの弱さをよく知っておられるのであります。
 「その時何をどう言おうかと前もって心配するな、その場合、自分に示される事を語ればいい。語るものはあなた自身ではなく、聖霊である」と言います。 われわれの思い煩いというのは、いつでも「前もって心配する」ところから起こるのであります。明日がまだこないうちに、明日のことを心配するから思い煩いが起こるのであります。まだ死なないうちに命のことを心配するから、死についての思い煩いが起こるのであります。

 神を信じる、神を信頼すると言う事は、この「前もって心配する」ことをやめてしまう事なのであります。神が必ず神様の方で、前もって準備し、用意してくださっている事を信じることが神を信じるという事であります。ましてこの迫害の時、キリストを証しなくてはならない時、神がわれわれを支え、神が言うべき事をわれわれに授けない筈はないのであります。ここでは自分の勇気とか、前もっての覚悟とか、そんなものをあらかじめ用意するのではなく、ただ徹底的に神を信じていきなさいと言う事であります。
 
 そして最後に、あの生温い家族の関係がこわされるというのであります。「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させる」というのであります。ずいぶん酷い事が言われております。しかし極限状態の時、われわれが一番安全だと思っていたあの家族、血のつながりも、結局は利己的な自己中心的なつながりでしかなかった事があらわにされるのであります。家族の温かいぬくもりは、結局は自分達の家族の結束を守るための交わりの強さでしかなく、事が起これば、他の家族を自分達の交わりに入れさせないという自己中心的な交わりにすぎない、それが家族の交わりの強さであり、温かさであるという事がこの時あらわにされるのであります。そしてそれはもっと状況がきびしくなれば、他の家族を排除するだけでなく、自分を守るために自分の家族のなかでもお互いの対立が生じる、そのようにして家族のもつ利己的な性格が暴露されるのだというのであります。
 
 この様にして、終末の時、神が神としてあらわにされるとき、神以外のものを頼って生きようとするわれわれの全てのあり方があらわにされ、裁かれるというのであります。

 その時、われわれはどのようにしたらよいのか。イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われるというのであります。」最後まで耐え忍ぶという事は、最後まで、神を信頼する者という事であります。自分の信仰的強さとか、自分の勇気とか、まして、自分の善行などなんの頼りにもならないというのであります。ただ神の憐れみを信じて、ただ上だけを見上げて、耐え忍ぶ以外にないというのであります。

 あの芥川竜之介の「くもの糸」と言う中で描かれておりますカンダタという男の事を思い出していただきたいのであります。それはカンダタという男がいて、生きている時に悪い事ばかりしていたのですが、死んで地獄にいった。ある時天上からその下を見おろしていたお釈迦様がカンダタに目をやり、彼は生きているときに悪い事ばかりしたけれど、ただ一度だけ蜘蛛を踏まないで助けた事を思い出して、天上から蜘蛛の糸を降ろしてあげた。彼は自分を救うために上から降ろされてきた一本のか細い糸だけにすがって上に登るのですが、途中でふと下を見ると、自分と一緒にいた連中までその糸を頼って、地獄を抜け出して極楽にいこうとして糸にすがりついて登っていこうとしている。彼はそれをみて、必死にこれは俺だけの糸だ、俺の善行のために降ろされた糸だと、他のものをけ落とそうとした時、その振動で糸は切れてしまい、カンダタは再び地獄にあともどりになったという話しであります。

 彼はただ神の憐れみだけにすがって、その糸を登ればよかったのに、これは自分が蜘蛛を助けた善行のために降ろされた蜘蛛の糸だと、自分の善行などというみみっちいものを頼ろうとした時、人を排除する気持ちが起こり、彼自身も再び地獄に落ちてしまったのであります。

 終末の裁きは、悪い事した人間が地獄へと選別され、善い事をした人間が天国にいくというような、裁きの時ではないのです。聖書には教育的な意味で、そういう表現をとる時もありますが、聖書全体が言おうとしている事はそういう事ではなく、パウロがいうように、その時に、「神が全ての人を神のもとに服従させて、神が全ての人に対して全てとなりたまう日」(コリント人への第一の手紙一五章二八節)なのであります。そうであるならば、われわれはもうこの神のみを見上げて、神のあわれみの前にひれ伏す以外にないのであります。