「目を覚ましていなさい」         十三章一四ー三七節


 イエスの弟子達がエルサレム神殿の立派さに感嘆した事から、イエスはその神殿も木っ端みじんに崩壊する時がある事を予言し、その時はいつかと弟子達が問い、その問いに答える形で、イエスは終末について予言するのであります。先週に引き続き、イエスの終末についての教えであります。

 十四節を見ますと、「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば、その時は、ユダヤにいる人々は山に逃げよ」というのであります。

 「荒らす憎むべきもの」とは誰の事をいうのか。これは西暦七○年イスラエルがローマに反抗した時、ローマの軍隊がエルサレム神殿を破壊するために、神殿に侵入した時の事をいっているのだろうとも言われております。ルカによる福音書には同じ箇所を「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、その時は滅亡が近づいたと悟りなさい」となっておりまして、その「荒らす憎むべき者」はローマの軍隊として受けとめているようであります。しかしその時に終末は来なかったわけですから、これはやはりローマの軍隊よりももっと強力な敵、サタン的な存在を考えた方がよさそうであります。

 そのサタンが「立ってはならない所」、つまり、神殿の事であります、その神殿に立つならば、その時には、もうそのサタンと戦おうなどとしないで、ただひたすら逃げなさいというのであります。「屋上にいるものは下に降りるな。また家から物をとりだそうとして内にはいるな。畑にいるものは、上着を取りにあとへもどるな。」というのであります。ただひたすら逃げなさいというのであります。

 「その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である」というのであります。ここのところに来ると、いつも不思議に思うのです。これが地震とか火山の爆発とか、そういう自然の災害なら、確かに「身重の女とか乳飲み子を抱えた女」は逃げにくいわけですから、不幸であるという事はわかりますが、ここは神がこの世界を裁かれる時であります。それならば、「ただ不幸である」と言うだけでは済まされないのではないか。神の裁きならば、そういう女に対してはもっと特別な配慮があってもよさそうなのではないかと思ってしまうのであります。

 マルコの福音書にはありませんが、マタイによる福音書には、「その時、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、一人は取り残されるだろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるだろう」というのであります。これも自然の災害のことなら、よく分かることでありますが、神の終末の裁きの事にふれているのに、こんなことでいいのかと思いたくなるのであります。神の裁きならば、もっと厳密に選択が行われるべきではないか。善い行いをしている者、真面目な生活をしている女は救われ、そうでない女は不幸な目に会うとか、少なくとも、信仰のあるなしが問われてもいいのではないかと思ってしまうのであります。しかしここでは、そんな選別の基準は全く無視されて、まるで偶然のようにして、一人は取り残され、一人は取り去られるというのであります。

 終末の裁きとは、そういう裁きだというのであります。もうその時には、われわれが自分はこれだけの事をしてきました、こんなに信仰的な生活をしてきましたとか、そんなこちらの言い分は、全く問題にならないという事であります。われわれのわざも信仰も、自分の救いの資格とか権利などにはならない。そんなこざかしい自己弁明とか自己主張をもうすべて投げ捨てて、ただひたすら逃げなさいというのであります。
 
 宗教改革者のマルチン・ルターが修道院に入った動機について、何かの本で読んだ記憶では、ルターが友人と散歩しているとき、雷雨に会って自分の目の前で、友人は雷にうたれて死に、自分は助かった。そのことが契機になって修道院に入ったと言う事でした。しかし、どうも事実はそうではなくて、彼が学生の時、彼の友人が試験を受けている最中に突然急性肋膜炎で死ぬという経験したという事、そして後にある時ルターは激しい雷雨に会って、落雷を経験し、自分の死を恐怖し、それが契機になって修道院に入ったという事が真相のようで、この二つの出来事が結び合わされて、少年向きの話しとして、自分の目の前で落雷に会い、友人は死に、自分は助かったという経験をして、それが契機になって修道院に入ったという伝説が生まれたようであります。

 ともかくルターはその友人の突然の死を通して、そして自分の死の危機をくぐり抜けたという事を通して、神の裁きを経験した事は確かだろうと思います。その時、ルターは、友人は死に、自分は助かったという事が、自分はそれまで真面目な信仰的な生活をしてきたから、自分は死ななかったのだなどとは決して思わなかっただろうと思います。何故友人は死に、自分は助けられたのか、その事があまりに不思議で、その事を通して、人間の合理的な説明を超えた神の神秘にふれたために修道院に入って、もっと神様の事を知りたいと思ったに違いないと思います。
 
 神の裁き、神の終末の裁きとは、人間の合理的な説明とか理屈などを粉砕してしまうくらいのすさましい裁きなので、ある意味では、人間のこざかしい自分の正義の主張なんかが役に立たない、そんなものを粉砕してしまうくらい小気味よい裁きだと言う事であります。

 だから、こういう裁きに会う時には、もう自分の正しさなんか頼りにしないで、ただ神の憐れみにすがるようにして、ただひたすら逃げなさいというのであります。
逃げるという事は卑怯のように感じられるかも知れません。イエスは自分の命を守ろうとするな、自分の命を捨てよと言われたのです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失うものは、それを救うであろう」と言われたのであります。いわば自分の命を守り、自分の命に執着して逃げようとするなと言われているようなのであります。それなのにここでは、自分の命を救うために、ただひたすら逃げなさいというのであります。

 「家から物を取りだそうとして内に入るな」と言うのです。確かにそれはなにか欲の突っ張った事で、自分の事に執着しているみっともない有り様かもしれませんが、しかしそうした事をしないで、ただひたすら逃げるという事だって、みっともない事かも知れないのです。もっと自分の命に執着していることになるのかも知れないと思います。しかし自分の命を捨てよ、自分の命を失う事を恐れるな、と言われたイエスは、すぐその後で、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したらなんの得になるか。人はどんな代価を払ってその命を買い戻せるか」と言われているわけで、自分の命をただ失う事を勧めている訳でない事がわかります。

 つまり、火事の時に自分の持ち物に執着して家に取りに戻る、そういうみみっちい仕方で、自分の命を守ろうとする仕方は、自分に執着する事で、それに対して、なにもかも捨てて後をみないで、ただひたすら自分の命を守ろうとして逃げると言う事は、神の憐れみにすがるという大変信仰的なことなのだという事ではないかと思います。
 
 終末の神の裁きに対して、われわれはもう自分の義の主張はなんの役にもたたないのです。ただひたすら神の憐れみにすがって、逃げる以外にないのであります。
そしてイエスは「この事が冬おこらないように祈れ」と言われるのであります。冬は逃げるのに大変だからであります。

 渡辺信夫がここの所の説教でこう言っております。「終末の思想は、ほとんどみな運命論的・決定論的である。それは神の決定だから、この神の絶対的・超越的な決定を動かすことができないものとして考えがちだ。だから終末に対しては、なるがままにまかせる以外にないと思いがちだ。しかしそれは私達の考えの浅さだ。ここではイエスはこの絶対的超越的な決定をなお動かすことができるように『このことが冬起こらぬように、大胆に祈れ』と教えている。イエスは神の子としての自由と、信仰に生きるものの望みとを強調する。終末の時をさえ変えることができるかのように祈り求める信仰の堅さを教えているのだ。」

 そして神は選民のためには、その期間を、その苦しい期間を縮めてくださるだろうというのであります。だから神に憐れみを乞うて、ひたすら祈れというのであります。ここでもただ神の憐れみにすがれ、というのであります。
 
 そして「その日には、その患難のあと、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が(つまりこれはイエスの事ですが)、雲に乗ってくるのを見るであろう。そのとき、彼は御使いたちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」というのであります。もう激しい患難のために弱り果てているわれわれのために、自分たちの方からは手を差し出すことができないほど弱り果てているわれわれのために、神の方から手をさしのべて呼び集めてくださるというのであります。

 そして太陽が落ちて一切の光がなくなった時、ヨハネの黙示録では「主なる神が彼らを照らすから、夜はもはやなく、あかりも、太陽の光もいらない」(二二章五節)というのであります。
 
 そして二八節から、弟子達の問い、その終末の前兆は何か、という問いに答えるのであります。「いちじくの木からこのたとえをまなびなさい。その枝が柔らかになり、葉がでるようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらの事が起こるのをみたならば
、人の子が戸口まで近づいていることを悟れ」というのであります。

 ここの所も、渡辺信夫の説明では、「ここではイエスはどうして、『いちじくの葉が枯れ落ちたならば、冬が近い』というたとえを引かないのか。万物が凋落する冬の方が適切ではないか、それなのにイエスは終末のしるしのたとえを、冬のイメージではなく、木が枯れることよりも木が葉を繁らせる夏のイメージで表そうとしている、それは旧約聖書での終わりの日の予言でも収穫の日の喜びの叫びや、ぶどうを酒ぶねで絞る喜ばしい歌声によって象徴しているのと同じで、イエスにとって、終末は冬としてではなく、夏のイメージでとらえられる、つまり、終わりの日は悲しむべき裁きの日ではなく、それは喜びの日なのである」と説明しているのであります。

 神が本当に神として全ての人に明らかにされる日なのですから、それはどんなに厳しい裁きの日であったとしても、それは喜ばしい、救いの日なのであります。少なくとも、われわれイエスの恵みを知っている者はその事を信じて、ルカによる福音書に「これらの事が起こり始めたならば、身を起こし、頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」(二一章二八節)と、記されおりますように、終末の日に対しては、身を起こし、頭をもたげて待ち望まなけれぱならないのであります。

 そしてイエスは結局最後に言われる事は「その日、その時は誰も知らない。天にいる御使いたちも、また子も、(つまりイエス自身も)知らない。ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、わからないからである。」と言う事なのであります。

 終末は、われわれの将来、前方にある事柄ではなく、われわれの上から突然落雷のように迫ってくるのだから、いつ来るかはわからないのだから、いつ来てもいいように、いつも目を覚ましていなさい、というのであります。

 しかし「いつも目を覚ましている」と言う事は、具体的にはどういう事なのでしょうか。終末はいつ来てもいいように、「眠らないでいなさい」と言う事なのでしょうか。そんな事をしたら、それこそその時がきたら、不眠症のためにとても逃げきれなくなってしまわないでしょうか。いつも緊張のしっぱなしで、小心翼々で、神経質でいつもびりびりする生活をしていなければならないのでしょうか。

 そうではないと思います。マタイによる福音書には「いつも目をさましていなさい」という事を教えるために、イエスが語った「思慮深い乙女と思慮浅い乙女」のたとえ(二五章一ー一三節)があります。花婿がいつ来るかわからないから、思慮深い乙女は、油を用意して眠った、しかし思慮浅い乙女は油を用意しないで、眠ってしまって、いざ花婿が来たときには灯火をともせなかったという、たとえですが、その思慮深い乙女もやはり眠っているのです。しかしいつ花婿が来てもいいように、油を用意して眠っていたのです。

 目を覚ましているという事は、いわば、油を用意して、やはり安心して眠ると言う事で、毎日を緊張のあまり、不眠症的になって神経質に生きると言う事ではないのです。

 神学校時代に、牧師になって説教に当たる時には、今日が最後の説教だという緊張感をもって説教に当たれ、たとえば、自殺する前に最後の賭をするようにして、説教を聞きにくる人が礼拝に見えるかも知れない、その人にとってはその日が最後の説教なのだ、そのように緊張感をもって説教に当たれ、とよく言われたものであります。確かにそういう気構えが必要なことはよくわかるのですが、しかしわたしはある時、説教が終わったあと、ああこの次も説教が許される、今日の説教では充分語れなかった、しかしこの次の聖日もある、この次にも説教することが許されるんだ、もう一度やり直しができるんだ、それを信じることができるという事はなんと有り難い事だろうと思ったのであります。

 神を信じて生きるという事は、「今宵汝の命とられるべし」という今日だけの命だと緊張して生きるという事かも知れませんが、しかしそれだけでなく、神はきっとこのわたしの失敗をとりもどさせるために、神はわたしのために明日も用意してくださるに違いない、と神を信頼して今日一日今日一日を送るという事でもあると思うのです。

 ヤコブの手紙には「あなたがは明日のこともわからぬ身なのだ。あなたがたの命はどんなものであるか。あなたがたはしばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであるならば、わたしは生きながらえもし、あの事もこの事もしよう』というべきだ」(四章一三ー)という箇所があります。
「主のみこころならば、わたしは生きながらえる」、そう信じてこの事もしよう、あの事もしよう、と思えというのであります。「主のみこころを」信じて、明日も生かしてくださる、明日と言う日も与えてくださるに違いないと信じていく、この事も大切なのではないか。「今宵、汝の命を取られるべし」というう緊張も必要だし、しかし主のみこころを信じて、あすもあることを信じることも大切なのではないか。
 
 O・ヘンリーの「最後の一葉」という短編小説に出てくる少女は、結核になってもう自分の命はない、あの木の葉が全部落ちたら自分の命はないのだ、と勝手に決めて、友人がせっかく作ってくれたスープも飲もうとしない、そういう少女のために一人の年老いた画家が最後の力を振り絞って、その少女の病室から見える外の壁に一枚の木の葉を描いて、どんなに嵐が来ても落ちない葉っぱを描いてあげて、自分は命を落とすという小説ですけれど、その事を通して、その少女はこういうのであります。「私は悪い子だった、あの最後の一枚がなにかの力でいまでもあそこに残っているのは、私がどんなに罪深かったかを私に教えるためだったのだ。死にたいと願うなんて罪悪ね、わたしにも少しスープをもってきてちょうだい」というのであります。
 
 終末の日は、いつくるか分からないのであります。それだからいつも目をさましていなくてはならないのであります。それは自分勝手に終末の日を計算したり、今日来るのではないかと決めたりして、緊張して神経質になって生きるのではなく、今日もそして明日も、神を信頼して生きようと、今日一日今日一日を神を信頼して生きていくという事なのであります。