「葬りの用意をする」         十四章一ー九節


 祭司長たちがいよいよイエスを策略をもって捕らえ、なんとかして殺そうと決意し、その具体的な案を練り始めた時であります。
 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食事についておられたとき、ひとりの女が非常に高価な、ナルドの香油と言われている香水が入れてある石膏の壷をもってきて、それを壊し、イエスの頭に注いだというのであります。それは異常な行動でした。そばにいた弟子達もあっけにとられて、それを阻止出来ないほどに、その女の行動にはある決意というもの、思い詰めたようなものがあったようであります。

 後に、この女がどういう人であったのかをめぐって、いろいろな解釈というか、伝説というか、物語ができたようであります。ヨハネによる福音書では、イエスによって甦らせて貰ったラザロの姉妹マリヤとマルタのうちのマリヤだったと記しております。またルカによる福音書では、「その町で罪の女であったものが」となっております。もっともルカによる福音書の方では、らい病人シモンの家ではなく、あるパリサイ人の家にイエスが招かれて、そのパリサイ人の家での出来事になっておりますから、これと同じ出来事ではなかったかも知れません。しかし、ルカによる福音書には、この葬りの用意をしたという香油の出来事は記されていませんので、マルコやマタイにあるこの記事をこのように変えたのだとも言われておりますので、もともとは同じ出来事であったも考えられるのであります。

 この女はどんな人であったかは、マルコによる福音書には記されてはおりません。しかしこの高価なナルドの香油をもっていたわけですから、貧しい女ではなかったようであります。その香油は弟子達の言い分では、三百デナリにもなるというのです。当時の労働者の一日の賃金が一デナリというのですから、今日のお金に直すと、三百万円から二百万円という事になるのかも知れません。ともかくそれだけの高価なものを一気にイエスの頭に注いだというのですから、すいぶん異常な行動であったようであります。

 弟子達は始めはあっけにとられておりましたが、一段落つくと、この女の行為を非難いたしました。「なんのために香油をむだにするのか。この香油を三百デナリにでも売って、貧しい人に施せばいいのに」と言ったのであります。

 弟子達はあの富める青年、全財産を売って貧しい人に施せと、イエスに言われて、それが出来ないで、イエスのもとを去っていったあの富める青年の事を思い出していたのかも知れません。弟子達は少なくとも、そういう事によってイエスの意を汲んだと思っただろうと思います。ところがイエスはその弟子達を逆に叱り、この女の行動を最大の言葉でおほめになったのであります。「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしに善い事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りのことをしてくれたのだ。わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのだ。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べつたえられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」とイエスは言われたのであります。

 弟子達の言い分は、それ自体としては決して間違ってはいないのでしょう。しかしいかにも、今日のよくテレビに出てくる、なんとか評論家がいいそうな事ではないでしょうか。何か事が起こってから、ああしたらよかった、こうすべきだった、というのであります。すべて、事が起こってから、いうのであります。そして自分は自分を安全地帯において、自分の身銭を一銭も払わないで、そういって、非難したり、批評したりするのであります。

 イエスは最大の言葉をもってこの女のした事をおほめになりました。ついその前にはイエスは、たったレプタ二つを神殿のさい銭箱に投げ入れ、貧しい女のした事をほめました。その女に比べれば、この女は三百デナリの香油をもっていたわけですから、お金持であったかも知れません。

 イエスはレプタ二つしかもっていなかった貧しい女の事もほめましたし、今は三百デナリをもっている女のこともおほめになったのであります。イエスは持っているお金の額で人を見るのではなく、そのお金に対する執着度を見られたのかも知れません。それよりは、お金持であろうと、貧しい人であろうと、その事で人の価値判断をするような方ではなかったと言う事であります。
 
 イエスはなぜあのレプタ二つを捧げた女の行為をほめ、そして今又この女の行為をおほめになったのだろうか。それはこの二人の女は共に、レプタ二つを捧げた女は神に対する感謝の思い、そしてこのナルドの香油を注いだ女はイエスに対する感謝の気持ちがあふれでて、こういう事をしたという事だろうと思います。

 感謝の気持ちから出ていない行為、それがどんな愛の行為であっても愛にはならないのではないかと思います。それはパウロが「たとえ自分の全財産を人に施しても、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である」といわれるような行為になってしまうのではないか。感謝するという事は、自分の危機を救って貰ったと言う事、自分の弱さを知っていて、その弱さを慰め支え、救ってくれたという思いから、感謝という気持ちが生まれるのであります。

 弟子達にはこうした経験はまだなかったのではないでしょうか。弟子達はまだ自分達の弱さがわかっていなかった、自分達の罪が分かっていなかった。だから、貧しい人に施すと言う事は知っていても、それはいつでも何か自分は一段高い所に立っていて、いわば有り余る中からなにがしかのお金を施すという事でしかなかったという事なのだろうと思います。ですから、この時、この女の行為を理解出来なかった。「なんと無駄な事を」という批評しかできなかった。弟子達が人を本当に愛せるようになったのは、イエスの十字架をとうして自分達の弱さと自分達の罪が身にしみてわかってからではないでしょうか。

 この女は、ルカによる福音書が描いておりますように、罪の女であった、そしてその罪がイエスと出会うことによって、罪赦されたという思いを深く味わったに違いないと思います。そういう経験をしていなかったならば、到底こういう異常な行動はとれなかっただろうと思います。
 
 そしてイエスは、この女のこの行為をただおほめになったのではなく、「この女はわたしの葬りの用意をしてくれたのだ」と言って心から感謝しているのであります。

 竹森満佐一が説教の中でこう言っております。「ひとは、自分の愛する者のことについては、敏感に感じるものだ。どんなに隠していても、その心を知ることが出来る。その運命について何かを感じとるものだ」というのであります。イエスはこれまでにも自分の十字架の死について弟子達に何回となく告げて来たのであります。しかし弟子達はそれを本気にしなかった。今祭司長たちはいよいよイエスを策略をもって捕らえ、なんとかして殺そうとしていた時であります。「弟子達がこの期に及んでもなお悟れなかったことを、この女ははっきりと見ることが出来たのだ」と言っております。

 つまりこの女だけは、イエスの死を予感した、イエスの運命を予感した、だからこの女は、このかけがえのない人、もういなくなってしまうかも知れないこの人に、なんとか自分の感謝の気持ちをあらわしたいと切実に思ったのだろうと思います。それがこの異常な行動になったのだろうと思います。

 人を愛すると言う事は、その人の死の葬りをしてあげるという事ではないでしょうか。その人の死を看取ってあげる、それが本当にその人を愛するという事ではないでしょうか。
 
 永瀬清子の詩、「悲しめる友よ」という題のついた詩を思い出します。
「悲しめる友よ、女性は男性よりも先に死んではいけない。男性よりも一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、またそれをおおわなければならない。男性がひとりあとへ残ったならば、誰が十字架からおろし埋葬するであろうか。聖書に書いてあるとおり、女性はその時必要なのであり、それが女性の大きな仕事だから、あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。だから女性は男よりも弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ」
 
 実際にイエスの死体を十字架から降ろし、埋葬したのは女性ではなく、男性であるアリマタヤのヨセフなのです。しかしイエスの死を本当に葬ったのは、この時、イエスにナルドの香油を注いだこの女であり、イエスの十字架のもとにとどまっていた女性達、男の弟子達はみな逃げ去っている中で、十字架のもとにとどまっていた女性達だったのではないかと思います。

 永瀬清子さんもその事を言っているのであります。つまり実際にその人の死を、たとえば病院にいて看取ってあげるとかという事ではなく、病気によってはその臨終に間に合わない事もあるでしょうし、何かの用事でたまたま間に合わなかったという事もあるだろうと思います。ですから、そういう実際の葬りの用意ができるできないという事ではなく、実は生きている時に、その人の死を看取ってあげるという事であります。

 その人が生きている時に、その人の死を予想し、その人の死を覚悟し、だからその人が生きている時に、かけがえのない人として、その人を大事にするという事であります。本当は死んだ後に、死んでしまった後に、その人を葬ったって、あまり大した意味はないのです。死んだ後にどんなに立派な葬式をしてあげたって意味はないのであります。その人がまだ生きている時に、あなたの最後は、あなたの死はわたしが看取ってあげますと言っておく、実祭に言葉に出す出さないは別にして、本当は言葉に出して言う必要があると思いますが、ともかくそういう態度でその人と接している。生きている時に、葬りの用意をするという事が大事なのではないでしょうか。

 人を愛するという事は、その人もいつか死ぬんだ、死んでいく時があるんだと思う事ではないか、そうしたら、その人のかけがえのなさという事がわかるのだし、その人の弱さもその人の過ちも許せるかも知れない。その人の挫折をおおってあげられるかも知れない。その人が病気になった時、その人の死が間近になった時、あわててその人の死を看取るのではなく、その人がまだ元気な時に、その人が生きている時に、どこかにそのような思いをもってその人と接する、そうしたらわれわれは人に対して、もっともっと優しくなれるのではないでしょうか。

 さきほど引用した言葉、「ひとは自分の愛する者のことについては、敏感に感じるものだ、どんなに隠していても、その心を知ること、その人の運命について何かを感じとるものだ」という意味はそういう事ではないでしょうか。
 
 イエスは今自分ひとりが人々の罪を背負って、十字架の道を歩もうとしているのであります。弟子達はそのことを一つも理解しようとしない。神の子がそんな運命をたどる筈はない、そんな事はあってはならない事だとペテロは言う始末であります。そうした中で、ただひとりこの女だけは、自分のために高価な香油を注いでくれた、イエスはこの女だけは自分の待ちかまえている運命を知っていてくれている、そう感じたに違いないと思います。イエスはこの女が自分の葬りの用意してもらったと思ったのであります。

 この時イエスがこの女のこの行為をこんなにも喜ばれたという事は逆に言うと、この時イエスが十字架で死ぬという事で、やはりどんなに弱気になっていたか、どなんに思い悩んでいたのかという事が分かるのであります。それはやがてあのゲッセマネの園での祈りにおいてわれわれは知らされる事であります。

 この女はそのイエスの思いに敏感であった。イエスの苦しみに敏感であったのであります。
 後にパウロは、ピリピ人にあてた手紙の中で、「あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって何が重要であるかを判別できるようになるように」(ピリピ人への手紙一章九節)と祈っております。愛はがさつであってはならない、愛は鈍感であってはならないのであります。

 イエスは「福音が語られるところではこの女のした事は記念として語られる」と言われたのであります。人を愛する時、その人の死を予想して愛する、その人の挫折をおおい、その人の弱さをおおってあげながら愛する、それが福音が語られるという事だからであります。