「ユダの裏切り」             十四章一○ー二一節


 「ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長達に引き渡そうとして、彼らの所へ行った。」引き渡すという事は、具体的にはどういう事かと言いますと、祭司長達はもうイエスを捕らえて、なんとかしてイエスを抹殺してしまおうと考えていたのであります。しかし「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかも知れない」と考えていた。なぜなら、まだまだイエスに対する民衆の人気が高かったからであります。そしてその当時はまだローマの支配下にありましたから、民衆が騒ぎ出すと、これはローマに対する反抗のための騒動だと当局に誤解される事を彼らはなによりも恐れたのであります。ですから、民衆がいないところでイエスを捕らえたかったわけであります。そのためには、イエスを民衆から離れた所で捕らえたかった。それは夜でした。そのために夜のイエスの行動、居場所を知りたかったのであります。ユダがイエスを祭司長達に引き渡すとは、その夜のイエスの居場所を彼らに知らせるという事であります。ユダはイエスの弟子でしたから、彼の夜の居場所を知っていたわけです。

 聖書は、そのユダの裏切りの記事を記す時、「ときに、」という小さな接続詞で書くのであります。これは英語でいえば、AND(そして)という接続詞ですが、そのためか、新共同訳ではこの接続詞は訳されておりませんが、しかしこの「ときに」という接続詞は大切だと思います。

 それは先週学びましたナルドの香油の記事、罪ある女がイエスの葬りの用意をしたという、ナルドの香油を注いだ記事のあとの「ときに」「そして」という接続詞だからであります。イエスの葬りの用意がここにも続いて起こったという事であります。

 女は罪赦されたという感謝からイエスに香油を注いで、イエスの葬りの用意をしたのに対して、ユダは祭司長達にイエスの夜の居場所まで、彼らを手引きして、イエスを捕らえさすという形で、イエスを葬るための用意をした、準備をしたのであります。女は三百デナリの価値のある高価な香油をイエスのために捨てて、イエスの葬りの用意をいたしましたが、ユダは祭司長達から、金を貰ってイエスの葬りの用意をしたのであります。
 
 ユダの裏切りといいますが、普通「裏切り」という場合には、拷問にあってやむを得ず仲間の名前をいってしまうとか、自分の信条を曲げてしまうとか、愛を裏切るとか、ともかく、いやいやながら、強いられて、自分の弱さのために、自分の身を守るために自分の仲間を、自分の信条を裏切ってしまうという事だと思いますが、イスカリオテのユダの場合はどうだったのか。

 たとえば、ペテロの場合でしたら、イエスが捕らえられて、イエスはどうなったかと、大祭司の庭まで様子を見にいって、「あなたはイエスの仲間だ」と女中に言われて、あわてて、「そんな人のことは知らない」と、三度イエスのことを否認するという事で、それはまさに自分の身を守るために、強いられて、自分の弱さのために、相手を裏切るという事になったわけですが、ユダの場合はどうもそうではないようであります。

 何故ユダはイエスを引き渡したのか。銀貨三十枚というお金欲しさから裏切ったとは思えないのであります。やはり、ユダの信条とイエスの生き方が合わなくなったからイエスを祭司長達に引き渡したのではないかと思われます。ある人の解釈ですけれど、ユダはイエスにローマに対する反逆という形の革命の指導者としてのメシヤを期待していたのだ、ところがイエスは体制に対してある程度は批判的ではあるが、そのために決起しようとはなかなかしない。それどころか自分は祭司長達役人達に捕らえられて十字架で死ぬんだなどという事を言い出している、それはユダの考えている事とは違う方向なので、ユダはイエスに決起を促すために、あえて積極的にイエスを彼らに売り渡して、イエスを追いつめ、イエスに立ち上がって貰おうとしたのだというのでありすま。しかしイエスはユダの期待に反し、黙々とむしろ十字架の道を歩み始める始末である。それでユダは自分のした事が裏目に出た事を知って、自分に絶望して、最後には銀貨三十枚を(マタイによる福音書によると)祭司長達の所に返しにいって、それが拒否されて、自殺してしまったのだと説明するのでありす。少し解釈のし過ぎで、あ まりにもうがった見方かもしれません。

 それはともかくとして、ユダはイエスに失望して、自分の信条とイエスの信条とが合わなくなってイエスを裏切るようになった事は確かだろうと思います。つまり、それはイエスを裏切ったというよりも、自分の方が、イエスに裏切られたということなのではないかと思います。

 ペテロは自分の弱さの為に、自分のふがいなさのために、イエスを裏切ったのであります。そしてそれは本当はイエスを裏切ったというよりは、自分自身を裏切ったという事ではないかと思います。しかし一方ユダは、自分の強さのために、自分は裏切られたと思って、イエスを裏切ったのであります。ユダはあくまで自分を貫き通すのであります。それはその後の悔い改めにもみられるのであります。ペテロはイエスを三度、そんな人は知らないとイエスの事を否認した後、にわとりの鳴き声とともに、イエスの言葉を思い出して、外に出て激しく泣きますが、マタイによる福音書二七章三ー)によれば、ユダは最後には「わたしは罪のない人の血を売る様な事をして、罪を犯しました」と言って、首をくくって自殺をするのであります。悔い改めの仕方として、ペテロに比べて、ユダの方がはるかに完全で、徹底しているのであります。

 ユダの悔い改めは、自分を自分の意志で抹殺するという意味で最後まで、自分の強い意志を貫き通すという悔い改めだったのに対して、ペテロはただ「外に出て激しく泣く」という悔い改めでしかなかった。その悔い改めの仕方も自分の弱さを無様にさらけ出すだけだったのではないかと思います。

 しかし聖書でいう悔い改めは、それは原語を見ますと、メタノイヤという字が使われておりまして、それはもともとは方向転換、向きを変えるという事で、自分に向かっている方向を神の方向に変えるという事であります。そういう悔い改めという事からすれば、ペテロが自分のふがいなさに「外に出て激しく泣い」ただけで、その後は自分ではなにもしなかったというのは、自分ではなにも出来なかったというのが本当で、それはあのパウロの言葉、パウロが自分の罪に気づいた時のパウロの言葉「わたしはなんとみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙七章二四節)という、心境だったのだろうと思います。もう自分ではどうにもならない、ただ自分を助けてくれるものを自分以外のところから来て欲しいという心境だったのだろうと思います。それは視線を自分から神に方向を変えている姿勢であります。そのパウロが悔い改めについてこんな事をいっているのでありすま。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」(コリント人への第二の手紙七章一○節)

 ユダは自分の過ちに気づいた時、あくまで自分の手で自分の意志で解決しようとしたのでありすます。それはただ死をきたらせるだけなのであります。
 
 イエスはユダについてこういっております。「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、よかったであろう」と言ってりおますが、カール・バルトという人が、このユダの悔い改めの真剣さも、このイエスの「わざわいだ」という言葉を少しも変えることはできなかっただろうと言っているのであります。ユダの悔い改めは、ペテロの悔い改めに比べれば、はるかに完全で徹底しているのであります。しかしそれはあくまで自分の手で、自分の手の内の中での悔い改めなのであります。悔い改めの本当の意味の「方向転換」はひとつもなされてはいないのであります。それに比べて、ペテロは自分ではなにひとつしようとはしなかった。ただ上から差し出される救いの手を待ったのであります。

 女が高価なナルドの香油をイエスに注いだ時、人々が憤って「なんでもったいない事、無駄な事をするのか。それを三百デナリ以上にでも売って貧しい人に施した方がよかったのに」と言ったとされている所を、ヨハネによる福音書ではそう言ったのはイスカリオテのユダであったと記されております。女は自分の罪を赦し、自分の罪をおおってくれたかたが今死のおうとしている、よくはわからないが、そういう運命をたどろうとしている、その事を予感して、なんとかして自分を救ってくれたかたに感謝の気持ちをあらわしたいという思いから、今自分の目の前にいるイエスに香油を注いだのに対して、ユダは今自分の目の前にいる人、これから十字架の道を歩もうとしている人の事を何も思わないで、ただ観念的に貧しい人々に施せばいいと言っている。しかも自分のお金ではなく、人のお金でであります。

 確かにユダは正義感はあったのであります。しかし、その正義感は結局は人のために愛を施すという事にはならないで、いつも自分の信条の主張、自分の正義感の押しつけに終わっているのではないか。それは結局は自分の信条を遂行し、自分を主張する、自分を肥らせるという事でしかないのではないか。ヨハネによる福音書はこのユダの事を痛烈に皮肉って、「彼がこういったのは貧しい人に対する思いやりがあったのではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていた」と言っております。ずいぶん酷いことをいっております。しかしそれは、実際にユダが財布の中身をごまかしていたという事ではなく、自分を肥らす事だけを考えていたのだという事をこういう表現で言いたかったのではないかと思います。

 イスカリオテのユダは、イエスを裏切ったわけですが、彼にはイエスを裏切ったという自覚はなく、むしろ自分の方がイエスに裏切られたという思いがあったのではないか。だから自分の方でもイエスを裏切ってやったのだと言う事なのではないか。それはいつも自分の非は一つも認めないで、わたしは裏切られた、わたしは裏切られたとわめきたてて、自分は被害者だと言い立てるどこかのヒステリーの女、あるいはヒステリー男と少しも違わないことにならないでしょうか。

 ユダは自分自身に対して自信があった。自分に対する挫折感がなかった。そういう挫折感なくして何かをしようとする事は、それが政治のことでも、人間関係のことでも、家庭の問題でも大変危険ではないでしょうか。

 それは、聖書の言葉に直せば、自分の罪を知ろうとしないという事であります。自分の罪の自覚のない正義、自分の罪が赦されたという思いのない愛は、どこか危険なのではないか。

 ユダは確かに最後には、「罪のない人の血を売って罪を犯しました」と言って自分の罪を知りましたが、その罪を自分で処分してしまうというやりかたで、更にもっと深く罪を犯すことになってしまったのであります。それは繰り返すようですが、悔い改めにはならなないのです。悔い改めとは、「このみじめな自分を誰が助けてくれるだろうか。助けてください」と祈りの叫びを神に向かって投げることだからであります。

 イスカリオテのユダについては、更に考えなくてはならないことがあると思います。今日はユダの人間的な側面からだけからユダの問題を考えていきましたが、聖書では、このユダの問題は、「十二弟子のひとりユダ」という事、つまりイエスによって選ばれた者のひとりから、イエスへの裏切りが起こったという事を考えなくてはならないと思います。つまり神の救いのご計画の中にあるユダの問題であります。それはこの次に考えて行きたいと思います。