「最後の晩餐の席で」            十四章一○ー二六節


 聖書がイスカリオテのユダの裏切りについて語る時、決まって「十二弟子のひとりイスカリオテのユダが」と言うのであります。ヨハネによる福音書では、ユダの裏切りについて言及する時、「イエスは彼らに言われた『あなたがた十二人を選んだのはわたしではなかったか。それだのにあなたがたのうちの一人は悪魔である。』」と言われたと記しております。

 イエスが選ばれた十二人の一人からイエスを裏切る者が出たというのであります。イエスほどの人がどうしてそのような人を選んだのか。それはイエスの教師としての無能力を示した事になるのでしょうか。ルカによる福音書によれば、イエスが十二人を選られるとき、夜を徹して祈られたと記しているのであります。その事について、竹森満佐一がこういうふうに言っております。

 「十二人が選ばれるためにイエスは夜、一睡もしないで祈られた。後にキリストを三度も知らないと言ったペテロ、これが第一に入っている。ペテロを選ぶために、その十時間なり、十二時間の夜を徹して祈られた間の、どれだけの時間をキリストはおとりになったか。それどころか、イスカリオテのユダも選ばれたのだ。ユダのためには、キリストはどんなに祈られたかわからないと思う。ユダの弱さをも知っておられただろう。ユダがどういう失敗をしそうかということもお分かりにならないはずはない。それが選ばれるためにどんなにキリストは祈られたかわからないと思う。したがって、これだけの者を選ぶために夜を徹してキリストが祈られても、なお、足りなかったのではないか。それならわれわれが選ばれるためにもまた、キリストは夜を徹して祈られたのではないか。自分が選ばれるために、ペテロよりもは、いな、ユダよりも少ない祈りで結構ですと言える人がひとりでもいるだろうか。」

 イエスがこのユダを選ぶために、どれだけの祈りの時間が必要だったか。その徹夜の祈りのほとんどの時間はこのユダの選びのために費やされたのかも知れないのであります。「それなのに、お前はわたしを裏切るのか」とイエスはユダに言いたいのであります。
 イエスはしばしば、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのである。」と言われたのであります。そうであるならば、これはこの十二人の弟子を選ぶ時にも言われてもいい事であるかも知れない。イエスは決していわゆるエリートを選んでご自分の弟子にし、自分の宣教という仕事を任せようとしたのではないのであります。

 そして考えてみれば、イエスが選ばれた十二人の中からイエスを裏切る者が出たという事は、神の選びという事が、選んだ人間を神がそれ以後何か操り人形のように動かすのではない事をわれわれに示しているという事ではないか。それはこの神の選びを拒否する自由を与えられて、選ばれているという事であります。そこに神の選びの本当の恵みがあるという事であります。

 神によって選ばれた人間が、その神の選びを裏切り、それを拒否し、神を捨てていくという事は、神の選びの失敗とか、神の方に人間に対する洞察力が欠けていたという事ではないのです。選ばれた人間が、それを拒否する自由が与えられている中で、操り人形のようにしてではなく、自分の自発性の中で、喜んで神に従っていく、その事を神様の方でも望んでおられるという事ではないかと思います。神の選びは、われわれが神の選びを拒否する自由を含んでいる、そういう余地が残されている選びだという事であります。神はわれわれにわれわれの自発性を残してくれているのであります。

 その自発性をもって神に従った人は、パウロがその神の選びを自覚した時、「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが」(ガラテヤ人への手紙一章一五節)といって、まるで自分の自発性なんかなかったかのように、自分の自発性なんか一つも誇ろうとせず、ただ神が一方的にこのような自分を選んでくださった事に感謝して、神に従っていく事になるのであります。

 そして一方その自発性に固執していく人は、その自発性をもって神に反逆し、自分は自分の意志で神を信じた、だから今自分の自発性をもって神を捨てるんだと、あくまで、自分の自発性にこだわっていくから神から離れていくのではないかと思います。

 イエスが選んだ十二弟子の中からイエスを裏切る者が出たという事は、裏切ったユダの方から見れば、イエスの愛を裏切るという事で、人間の罪の深刻さを見る思いがしますが、しかしそれは、逆にいうと、イエスが選んだ十二人弟子の中から裏切るものが出ているという事のなかに、神の選びの恵みの自由さ、その豊かさが、感じられるのではないかと思います。
 
 神の選びとか、神の摂理という事を考える時に、その事をわれわれが何か操り人形のようにして、選ばれたり、動かされたりするのだと考えてはいけないという事であります。神の選びとか、神の摂理を考える時、われわれはいわゆる宿命的なものの考えに陥ってはならないと思います。それはいわゆる死神がわれわれの命を狙っているような話ではないのであります。

 死神は、たとえばわれわれがその死神から逃れようとして、この電車に乗るとなんとなく事故に会いそうだから、一電車遅らせて電車に乗ったら、その一電車遅らせた電車が事故を起こし、死神に捕まえられてしまって死んでしまうというように、死神は、われわれを支配するんだとわれわれは想像します。宿命とか死神がわれわれの運命を支配するという時には、われわれの行く手行く手の前に立ちはだかって、待ちかまえてわれわれを強引に有無を言わせずに、われわれを悪い方にもっていってしまうのだと想像するかも知れません。

 それに対して、神の選びとか神の摂理は、われわれの前方で待ちかまえて、われわれの前に立ってわれわれの人生を綱で有無を言わせず引っ張っていくというのではないのです。そうではなくて、神はわれわれのしんがりに立ってくださって、われわれの後ろから、はらはらしながらわれわれの歩みを見守ってくださっているのではないでしょうか。

 イザヤ書五二章一二節には「あなたがたかは急いで出るに及ばない、またとんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。」とあります。

 自発性などという危なかっしいわれわれの歩みを神様はうしろからはらはらしながら、見守ってくださっておられるのではないか。そしてわれわれが何か過ちをしてしまってどうにもならなくなると、それを良い方向に変えてくださるという事ではないか。

 旧約聖書に出てまいります、あのヨセフ物語、兄弟の妬みをかってエジプトに奴隷として売られてしまうヨセフが、最後にはエジプトの大臣になって自分の一族の命を助けることになるという物語ですが、ヨセフはこの事を自分たちが信じている神が働いてくださったのだと悟った時、ヨセフはこういうのであります。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうとされたのだ。」

 神の摂理、神の選びというものは、われわれの自由を奪うという形ではなく、われわれに自由を与えながら、われわれの後ろから、われわれのしんがりとなって、われわれの自由な選択に応じて、神はもっと強力な恵みをもって最善の道を用意してくださるという事ではないかと思うのであります。その事をパウロはこう言っております。「神は神を愛する者たちと、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを私達は知っている」(ローマ人への手紙八章二八節)パウロは「ご計画に従って召された者たちと共に働いて」というのです。われわれと共に働いてというのは、何も神と人間が一緒に共同作戦をするという神人協力説という事ではなく、われわれの愚かな考え、われわれの愚かな自由な選択とか、われわれの自発性といったもの、われわれの貧しい努力とかを、神が最大限尊重してくださって、それを用いながら、神は神のもっと強力な大きな恵みと深い配慮をもってわれわれを良い方向に導いてくださるという事であります。

 そういう神の深い摂理に気づいたならば、われわれは自分のつたない努力であっても、貧しいなりに努力のしがいがあると思って、喜んで努力できるようになれるし、自分の自由さを感謝しながら、神に従って行こうという新たな決断が与えられるのてはないでしょうか。ですから、大切な事はイエスがそのような深い配慮をもってわれわれ一人一人を選んでおられるという事に気づく事であります。
 イエスがユダに対して「お前を選んだのはわたしではなかったか。それだのに」と嘆かれるイエスの言葉に気がつく事であります。イスカリオテのユダの悲劇はそのようにして自分がイエスによって選ばれた事に気がつかなっかったという事であります。もしユダがその事に気がついていたなら、イエスをあのような形で裏切る事はなかったかも知れないし、たとえ裏切ったとしても、その後であのような形で自分の過ちに決着をつけるという事はなかったのではないかと思うのであります。
 
 イエスはそのユダの裏切りを弟子達との最後の晩餐の席で告げるのであります。「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中の一人で、わたしと一緒に食事している者が、わたしを裏切ろうとしている。」と言い、そしてこう言います。「たしかに人の子は自分について書いてある通りに去っていく。」「人の子」という言い方は、イエスがご自分がメシヤとして自覚して言うときの、自分について言う時の言い方であります。ですから、「メシヤであるわたしは」という事であります。「自分について書いてある通りに」というのは、旧約聖書に予言されている通りに、という事であります。つまりそれは神のご計画に従ってという事であります。

 つまり、ユダが自分の事を裏切ろうが裏切るまいが、自分は十字架で死ななくてはならないのだという事であります。イエスにとって十字架は、ユダに裏切られたからだとか、祭司長たちの時の権力に迫害されて、ただ殉教の死を遂げるという事ではなく、これは神のご計画、人間を罪から救うための神のご計画なのだという事なのであります。そういう意味では、このユダの裏切りという事、イエスが選んだ十二人の中から、裏切り者が出たという事も、このイエスの十字架の意味を、神の救いの深さを更に一層深めるために用いられる事になるだけであります。
 
 カール・バルトという神学者が、この「裏切る」という言葉は、もともとは聖書の言葉では、「引き渡す」という意味なのだ。裏切るというと、何か人間の大それた行動のような響きがあるが、神のご計画に対して人間はそんな大きな事はできないので、人間は、ユダは、イエスを十字架へとただ「引き渡した」だけなのだ、と言っております。そしてこのバルトという神学者は、人間の罪は神の大きな救いのご計画からみれば、単なるエピソードに過ぎない、というのであります。それほどに神の救いは深く大きく、徹底しているのだというのであります。
 
それがユダが裏切ろうと裏切るまいと、「人の子は去っていく」という意味であります。われわれは人間の罪を過大評価してはならないのであります。

 しかし、イエスはその後こういいます。「しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」というのです。それだからと言って、ユダの責任は免除される事はないというのであります。われわれの罪は曖昧にされる事はない、責任を問われるというのであります。イスカリオテのユダは永久に滅びるのだろうか。これがユダについてわれわれが考えなくてはならない最後の事であります。

 イエスはこの後、今日の聖餐式になりました、いわゆる最後の晩餐を弟子達とするのであります。パンとぶどう酒を与え、「これはわたしのからだである。これはわたしの多くの人のために流すわたしの契約の血だ」というのであります。つまり自分はこれから十字架で死ぬことになるが、それはそうする事によってあなたがたの身代わりになるのだ、そしてあなたがたを救うのだと言う事をあらかじめ弟子達に告げようとしたのであります。そしてユダもこの聖餐に預かっているのであります。

 そしてこの時、弟子達はこの聖餐の意味は誰一人理解出来なかったのであります。弟子達はこの時一人としてこの事に感激をした者もいなかっただろうと思います。しかしイエスはこの事をこの時なさったのであります。
 
 われわれは今日この後、このイエスの最後の晩餐を記念して聖餐式を行いますが、聖餐式はどうかすると、その聖餐式の時に、何の感動もなく、その意味があまりぴったりこないので、その意味がよくわからないというかもしれません。しかし聖餐式はそういうわれわれの感動を誘うための儀式ではないのです。無理にありがたいと感動させるために、より儀式化して演出効果を高めたりする必要はないのです。

 聖餐式の時、本当にキリストの十字架の有り難さがわかって感動を受けたら、それにこした事はないと思いますが、しかし無理に人為的に感動しなければならないというものでもないと思います。われわれが感動しようがしまいが、このキリストの十字架の肉と血にあずかるという事が大事なのであります。神の救いのわざが、われわれの意識とか悔い改めとかに応じて、ゆれ動くのではなく、もっと確かな客観的な出来事として存在しているのだという事であります。救いの確かさを自分のその日の感情に動かされたり、自覚とか意識に動かされてはならないのであります。その事がわかれば、聖餐式はありがたい儀式ではないでしょうか。自分の悔い改めとか自覚とか、感動などというものがどんなに頼りなくあやふやなものかよく知っているわれわれにとって、この聖餐式はありがたいのであります。
 
 ユダもこれに預かったのであります。イエスはこのユダにもこの救いの招きから除外なさらなかったのでありすます。
 それならば、ユダも救われたのか。しかし聖書は「人の子を裏切るその人はわざわいである。その人は生まれなかった方がよかったであろう。」と言われ、ヨハネによる福音書には、もっと厳しく「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。」と言っているのであります。滅びの子とはユダの事であります。ユダだけは滅んだというのです。
 
 カール・バルトがこの問題を取り上げてこう言いいます。バルトは難しい表現をとりますので、わたしなりに理解した仕方で表現しますと、こう言うのであります。
「新約聖書では、一方では、イエス・キリストの恵みはユダに対しても何の制限もおかれないものとして、それどころか、ユダこそこの恵みの最も輝かしい光のうちに押し出されていくものであるとしている。しかし他方では、このユダをもって全ての人が救われるものの例とするような事については一切沈黙している」と言います。聖書では、ユダが救われるのか、あるいは永遠に捨てられるKかは、明確な答は出していない、それは未解決な事としてわれわれの前に提出しているというのです。だから「教会は、このユダの事を例にとって、すべてのものが救われるという説教をすべきではなく、またイエス・キリストの無力な恵みとか、それに対する人間の有力な悪意などを説教すべきではない」という。大事な事は、教会は「神の恵みのあふれるばかりの有力さと、それに対する人間の悪意の無力さを説教すべきだ」というのであります。

 つまりユダが最後的に救われるか救われないかは、われわれ人間が何か理論化すべきではなく、最後のところでは、この神の救いの問題は、神の決定に委ねるべき問題だというのであります。われわれはただこのユダのようなわたしをお赦しくださいと祈り、なんとしてでも救ってくださいと祈るばかりだという事であります。