「十字架へのイエスの祈り」(一)        十四章三二ー四二節


 イエスはオリブ山の中腹にあるゲッセマネの園に来た時、恐れおののき、悩み始め、弟子達に「私は悲しみのあまり死ぬほどである」といわれたのであります。そして「できることなら、この時を過ぎ去らせてください」と父なる神に祈ったのであります。

 ヘブル人への手紙をみますと、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」と言い、それに続けて、「彼は自分の前におかれている喜びの故に、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の右に座するに至ったのである」と書いてあります。ここを見ますと、この手紙を書いた人はこのイエスのゲッセマネの園で祈っているイエスの悩み苦しみを知っていたのだろうかと疑いたくなるのであります。しかし、その同じヘブル人への手紙で「キリストはその肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いとをささげ」と書いておりますから、このイエスの園での悩み苦しみを知らなかったのでないようであります。ですから、この「彼は自分の前におかれている喜びのゆえに恥をもいとわないで十字架を忍び」という事は、イエスの十字架を復活という結果からみたことでしょうが、しかしそれれにしても、その当事者であるイエスは、「その喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」というような事とはほど遠いものであったことを福音書は隠そうとしないのであります。

 ゲッセマネの園でのイエスの祈りの記事を読む時、われわれはいつもいつも大きな戸惑いの中におかれるのであります。一つは、これまでイエスはさいさいにわたって、自分は祭司長たちに捕らえられ、殺されるのだと予告してきているのであります。その覚悟はできているはずなのです。ペテロが「そんな事があってはなりません」と言った時には、イエスはそのペテロに向かって「サタンよ、退け」と言われている。「お前は神の事を思わないで、人のことを思っている」と言っているのです。そういうイエスがここにきて、なんでこんなに弱気になってしまうのか、思い悩むのか、悲しむのかということであります。

 もう一つの事は、神の子であるイエスがどうして堂々と十字架で死ななかったのかと言う事であります。
 
 イエス・キリストにとって十字架とはなんだったのでしょうか。それは多くの殉教者がその正義のために迫害されて、時の権力者に処刑されるということとは違っていたのであります。そういう面からイエスの十字架をみる事もできますが、福音書はそういう見方をしていないのであります。ただ正義のための殉教という事ならイエスはこんなにも思い悩み、悲しみのあまり死ぬほどであるなどとは思わなかったと思います。

 これはマタイによる福音書にあるイエスの言葉ですが、イエスが捕らえられた時、弟子達の一人が剣で兵士を切ろうとしたとき、イエスは「剣をしまえ。剣をとる者はみな剣で滅びる」と言われ、それに続けて「わたしが父なる神に願えば天の使いがきて自分を助けに来てくれるのだ。しかし、それではこうならねばならないと書いてある聖書の言葉はどうして成就されようか」と言われたというのであります。つまり自分が十字架で死ぬと言う事は、父なる神の決定なのだ、ただ時の権力者によって殺されるのではないのだ、という事であります。これは自分の正義を主張して、そのために殉教の死を遂げるという事とは違うのだという事であります。
 
 イエスの十字架は、正義を主張するためではなく、彼が罪人のひとりに数えられて、罪人のひとりとして死ぬと言う事だったのであります。それが罪人であるわれわれを救うための神のご計画だったのだという事であります。罪人として死ぬと言う事はどういう事か。それは罪に対する罰を引き受けて死ぬと言う事であります。罪を犯した人間は罰を受けなくてはならない、罪を犯した人間は裁きを受けなくてはならないという事であります。

 罪を犯した人間の一番大きな問題は、罪を犯した後の態度であります。自分の犯した罪を絶対に認めようとしない、あるいは、色々な理由をつけてその犯した罪を弁解したり、正当化することであります。われわれは罪を犯す時も卑怯ですが、罪を犯した後の方が、もっともっと卑怯であります。それは自分の犯した罪に対する罰を逃れたいからであります。罪を犯した後の方が、われわれはもっともっと罪人になっていくのであります。われわれはなんとかして自分の罪に対する罰を、裁きを逃れようとするのであります。そのために見苦しい言い逃れをし、知恵を働かせて自分の罪を弁解するのであります。幼子はそういう事はしないのであります。罪を犯した者は、罰を受けなくてはならない、裁かれなくてはならないのであります。

 イエスが罪人の一人になりきるという事は、罪を犯したものとして徹底的に神の裁きを受けるという事、神の罰を引き受けるという事だったのであります。
 
 罪を犯した人間が自分の罪を自覚し、自分の犯した罪の恐ろしさに気づいた時は、みずから進んで罰を受けますというのではないでしょうか。どんな罰をも受けますというのではないでしょうか。少なくとも一度はそういう気持ちになるのではないでしょうか。実際に罰を受ける時になって、あわててその罰は重すぎると、不平をいったり、泣き言をいう事はあるかも知れませんが、自分の罪に気づいた時には一度はこのわたしを罰してくださいというだろうと思うのです。

 もちろん罰を受けたって、自分の犯した罪は償われないのです。だから罪は赦してもらう以外にないのです。しかし本当に自分の犯した罪の深刻さに気づいた人は、その罰を受けながら、どんな罰も受けますから、わたしの罪をお赦しくださいというのではないでしょうか。自分の犯した罪の重大性に気づいた人は、決して罰を逃れようとはしないだろうと思います。

 その罰の最大の罰は、死であります。罪の支払う報酬は死なのであります。罪を犯した者は死ななくてはならないのです。われわれはそれが恐いのです。だからなんとかして罰から逃れようとするのであります。そうしては卑怯になり、ますます罪に罪を重ねていくのであります。

 人間の罪とはなにかという事であります。それは自己を主張しようとすることでしょう。罪を犯しながら、なお開き直り、自分の罪を正当化しようとすることでしょう。それに対する罰とは、そういう人間の自己主張を打ち砕く事であり、そういう人間を死なしめる事であります。それは自分を捨てさせるという事であります。そして自分を捨てる最大の捨て方は、敵に自分を渡してしまうという事であります。つまり、サタンの手に自分を渡すという事であります。イエスは今そのようにして自分をサタンの手に渡そうとしたのであります。そのようにして罪に対する罰を引き受けようとされたのであります。

 イエスは今罪人のひとりになりきって、その罪人の死を受けとめようとしているのであります。ですから、これは正義のための死ではないのであります。イエスほど死の恐ろしさを知っていた人はいなかったのであります。それは罪の報酬としての死、罰としての死だからであります。最大の罰としての死、サタンに自分を引き渡してしまうという死を死のおうとしているのであります。今イエスが受けようとしている罰としての死は、ただ病気になって死ぬとか、病気でも癌になって死ぬとか、と言う事ではなく、何か事故にあって死ぬとかという事でもなく、敵の手によって殺されるという死であります。サタンの手に渡されて死ぬと言う事だったのであります。ですから今イエスは罰のなかでも一番厳しい罰を引き受けなくてはならない、一番激しい罰を引き受けようとしているのであります。

 イエスはその宣教を開始するときには、サタンの誘惑にあってそのサタンに勝利して、サタンに勝って宣教を開始したのであります。しかし今はそのサタンの手に渡されて、サタンに身を任せてしまって、罰を受けようとされている、それが本当に人間を救うことになるのか、それが本当に神のみこころなのか、イエスは文字どおりこの期に及んで思い乱れたのでります。だからイエスは必死になって、「これが本当にあなたのみ心なのですか、あなたのご意志なのですか」と祈るのであります。神は今イエスをサタンの手に渡そうとしているのであります。そのようにして人間を救おうとなさっているのであります。
 
 われわれは勝つことが救いの道だとしか考えようとしないのであります。しかし勝つという事は、結局は自分を主張して勝つことであります。

 創世記(三二章二二ー)にあるヤコブがヤボクの渡し場で、神の使いと相撲をとって勝った話が出てまいります。神の使いは、ヤコブと組打ちして、勝てなくて「もう夜があけてしまうかにら、自分を去らせてくれ」とヤコブにいうのですが、ヤコブは承知せずに「どうしても去る前にわたしを祝福してください」と訴えるのです。それで神の使いはとうとう根負けして、ヤコブを祝福して、「もうお前はヤコブと言う名前を変えて、これからイスラエルという名前にしなさい」というのです。一説によると、ヤコブという名前は「押し退ける者」という意味があって、それはそれまでのヤコブの生き方をあらわしていて、それを改めさせてイスラエル、つまり「神が支配する」という名前に変えさせたのだというのです。「あなたはもはや名をヤコブといわずに、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに争って勝ったからです」というのであります。

 そして面白いことに、この事を預言者のホセアはこういうのであります。「ヤコブは胎にいたとき、その兄弟のかかとを捕らえ、成人したとき神と争った。彼は天の使いと争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた」というのであります。ヤコブは神の使いと取り組み合いの相撲をしながら、そしてそれに勝ちながら、神に泣いてあわれみを乞うたというのです。今までの自分の人生を振り返り、自分の生き方を振り返り、今まで自分を主張ばかりしてきた、そしてイサクに勝ち、人生に勝って来たと思って来た、そして今神の使いに勝った。しかしその途端、勝つと言う事がどんなに空しい事か、勝つという事がどんなに人を傷つけることかを知って、まるで負けたようにして泣きながら神に祝福を求めたのであります。
 
 今世界は冷戦時代が終わったと思ったら、民族紛争がどうにもならない形で激化しております。それはもうどうしようもない泥沼のような状態を示しております。それは民族と民族とのお互いの受けた傷をどうしても赦すことができなくて、ただやられたらどうしてもやり返すという形で、憎しみがどんどんエスカレートしていく、つまり勝つことによって相手に深い傷を与えてしまい、恨みをかい、結局は憎しみを買い、復讐を受ける、そしてその繰り返しで、この争いはもう理性が働けなくなってしまって泥沼化していっているのではないかと思います。

 勝つということがどんなに悲惨であるか。勝つことによっては人間の罪は解決がつかないという事であります。人間の罪を倍加させるだけだという事であります。
そのために神は今イエスに人間の罪を負わせて、サタンに負けさせて、人間の罪を解決しようとされたのであります。ですから、イエスは死の恐ろしさを誰よりもよく知っていて、どんな人間よりも死の恐ろしさを知っていて、恐れおののき、悲しみ、もう一度これが神のみこころなのかと確認したかったのであります。
 
 それに対して神は何もお答になりませんでした。神はイエスにただ信じることを求められたのであります。ここのところを竹森満佐一はこう言っております。「主イエスはご自分を悪魔の手に渡さないで、勝利をしめる道はないとお考えになったのだ。しかしご自分を渡してしまえば、自分が代って死のうとするすべての罪人がしたように、悪魔の手のうちに落ちて罪を犯した、あれと同じになりはしないか、と思われたかも知れない。これが本当に悪魔に勝つことなのか、人間を救う道になるのか。その先はどうなるのか。それは、神のみの知っておられることであったでしょう。主イエスすらも、そのことについては、信じるだけであったでしょう。それならばこの戦いは、神のみが知っている戦いだったと言える。われわれには分からないのである。しかだって主イエスが恐れおののき、悩み始められたと言っても不思議はないと言わなければならない。」

 つまり、信じるだけの道というのは、恐れおののき、悩みがあるのは当然だというのです。われわれが死について未だに恐れおののき、不安になるのは当たり前なのであります。死という罰を受けてどうなるのか、罰を受けたら、それでもう永遠に地獄に落とされる事になるのかどうか、不安でたまらないのであります。そのために恐れおののき、悩むのであります。死を迎えるに当たっては、もう神様を信じる以外にない。死の蔭の谷を歩む時には、もうただ信じるという武器しかわれわれには与えられていないのであります。だからわれわれは恐れおののき、不安になっていいのです。イエスが今死の本当の意味を悟って、恐れおののき、戸惑うのは当然といえば当然なのであります。イエスは今自分が迎えようとする死を、ただ神のみを信じて、ここを乗り切ろうとされるからであります。そしてそれが神の罰を受ける正しい受けとめ方であり、罪人が死を受け止める正しい道だと思われたのであります。

 その結果はなんだったのか。その答は、神はこのイエスを見捨てなかったという事であります。神は人間の罪を罰しましたが、その人間を見捨てることはなさらなかったのであります。それが罪の赦しということなのであります。

 パウロが罪の赦しを説き、最後に言った事は「もし神がわれらの味方であるならば、誰がわれらに敵し得ようか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが私達を罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって神の右に座し、また私達のためにとりなしてくださるのである。だれがキリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。」と言って、最後に「どんなものも私達の主イエス・キリストにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできない」(ローマ人への手紙八章三一ー)と宣言するのであります。

 つまり、われわれ罪を犯した人間は罰を受けるのであります。裁きを逃れることはできないのです。しかし罪は赦されるのです。なぜなら神の愛からはどんなことがあっても切り離されないからであります。罪の赦しとは、罪が曖昧にされることではなく、従って罰が免除されることでもなく、そうではなく、神の愛からはどんな事があっても切り離されないという事だからであります。その罰を閻魔大王からではなく、愛の神の御手から受け取るのだという確信を与えられるのであります。