「十字架へのイエスの祈り」(2)       十四章三二ー四二節


 イエスはゲッセマネの園に来た時、恐れおののき、また悩み始め弟子達に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどある」と言われたのであります。

 こういうイエス・キリストの姿をみて、私達は一種の親しみを感じるかもしれません。しかしその場合、どういう意味で親しみを感じるのでしょうか。日頃尊敬していて、とても近寄りがたい偉い人がある時酔っぱらっていて、その無様な姿をわれわれが見て、あの人にもそんな弱点があったのかと知って、その人に人間味を感じて、急に親しみを感じるようになるという事まがよくあります。そのような意味で、十字架を前にしてのこの時のイエスの悩み悲しみを知って、イエスもやはり人の子だったのかと思い、何か親しさを感じる、そのような事であったとしたらどうでしょうか。

 イエスもわれわれと同じように死が恐かったのだと思い、そういうイエスに親しみを覚えるというのは、実はわれわれの中にある非常に卑しい気持ちが働いているのではないでしょうか。日頃偉い人だと思っている人も、結局は自分と同じレベルの人間だったと、自分の低さにまで相手を引きずり降ろして、そうして自分の低さに安心するという大変卑しい心がそこに働いているのではないでしょうか。
 
 われわれは確かに、このゲッセマネのイエスの姿に大変感銘を受けるのであります。あるいは親しみを感じると言ってもいいかも知れません。もし福音書の中に、このゲッセマネの記事がなかったら、福音書は大変味気ないものになっていただろうと思います。われわれはこのイエスの姿を見て、確かに、イエスはわれわれと同じ低さにまで、弱さにまで、降って来てくださって、われわれと同じレベルに立ってくださったと思うところでありますが、しかしそれは先ほど言いましたように、ここに来てイエスが突然日頃見せない弱さをさらけ出したのだと思うならば、それはこの聖書の箇所を誤ってみてしまうことになるのではないかと思います。

 ヘブル人の手紙の作者が「この大祭司はわたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯さなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じ試練に会われたのである。だからわたしたちは憐れみを受け」(四章一四ー)と書いている所は、このゲッセマネのイエスの悩み苦しみの事を思いながら、書いていることだろうと思います。
 
 それでは、ここでこの時のイエスは、どういう意味で、われわれと同じ弱さに立ってくださったというのでしょうか。
 それはイエスは今までは神の子として振る舞ってきたのだが、ここに来て突然変身して人間の弱さをさらけだしたのだという事ではなく、神の子であるイエスがいよいよ徹底して神の子として、救い主に徹してくださって、われわれと同じ人間の弱さに立ち給うたのだという事であります。それは突然酒を飲み始めて酔っぱらって人間的弱さをさらけ出したという弱さではなく、そうではなく、われわれ弱い人間にとって本当の救いはどこにあるのか、罪を犯し続ける弱い人間を救うためにはどうしたらよいかを徹底して知るために、われわれと同じ低さにまで立ってくださって、父なる神に「アバ父よ」と祈り求めてくださったということであります。

 同じヘブル人への手紙に「キリストはその肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ」(五章七ー)と書いている通りであります。

 われわれ人間の本当の弱さはどこにあるのでしょうか。それはわれわれが自分の犯した罪について正しく責任をとれない、とろうとしない、ということではないか、そのために神と正しい関係に立てないのだと言う事ではないか。何故自分の犯した罪に責任をとれないかというと、犯した罪に対する罰を引き受けられないと言う事であります。われわれは罪を犯した時、罰がこわくてたまらないのであります。罪を犯した時、われわれが切実に求めるのは、罪のゆるしではなく、罰の免除という事ではないのか。罰がこわい、そのために罰を逃れたい、罰が免除される事だけを痛切に求めるのであります。それがどんなに自己中心的な事かという事にわれわれは気がつかないのであります。

 たとえば、相手を車で殺しておいて、相手に対してすまないと思わないで、罰がこわいという事しか考えない、罰がこわくて逃げ回っているという事は、こんなにひどい話はないのです。それは相手に与えた傷なんか一つも考えないで、自分の事しか考えていないという事であります。

 しかしわれわれが求めているのは、いつもそういう事ではないか。罪の赦しではなく、罰が免除されることばかり求めているという事であります。われわれが神を求め、信仰を求めるのは、みんなこの罰から免除されたい、その事ばかりであります。そのために今日新興宗教がこんなにもはやっているのであります。新興宗教の宣教の有力な手段は罰(バチ)から逃れるために信仰しなさい、壷を買いなさいという事であります。

 ダビデがバテシバ事件を引き起こしてた事で、その罪が明らかにされた時、ダビデは神の前に罪を告白し、「わたしはあなたに罪を犯しました」と告白するのであります。そうすると、神は預言者ナタンを通して「主もまたあなたの罪を除かれました」と、罪のゆるしを宣言するのであります。しかしその後に不思議な事に、「しかしあなたはこの事によって神を侮ったので、あなたとバテシバとの間に生まれる子どもは死ぬ」と言われるのでりあます。罪はゆるされたのです。しかし罰の免除はないのです。その後、生まれた子どもは病気になりました。ダビデは断食して必死に神に祈りました。しかし子どもは死んでしまうのであります。家来たちがこの事を王様ダビデに報告するのをためらうのです。子どもが生きている時ですら、断食しているのに、死んだとわかったら絶望のあまり自害するかも知れないと思ったというのです。しかしダビデはあたりの空気で子どもは死んでしまった事を知ります。すると周囲の者をびっくりさせるほどに、断食をやめ身を洗い、油を塗り、その着物を着替えたというのであります。それで家来たちが「あなたのなさることはなんですか」と非難しますと、ダビデは 「子の生きている間に断食して泣いたのは、『神が憐れんでこの子を生かしてくれるかも知れない』と思ったからだ。しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなくてはならないのか。わたしは再び子どもを返すことができるか。わたしはいずれ子どものところに行くだろうが、子どもはわたしのところに帰ってこない」と言ったというのです。

 この事を説明して、竹森満佐一はこういう事をいうのです。「ダビデは神から『あなたの罪は除かれた』と言われながら、どうして子どもが病気になるのか、罪がゆるされたのなら、そのしるしに子どもの病気もいやしてくださいと祈ったのだろう。しかし子どがよくなるかどうかは神のなさることだ。われわれは手をつくすにしても、どうなるものでもない。神のなさることだと思うからこそ、神に祈ったのだろう。しかしもしそうなら、その神に信頼する以外には、何の方法もない。神に祈りながら、神を信頼しないとしたら、これくらい妙な話はない。自分の気にいるような結果が出た時だけは、神を信用し、思うようにならなければ、恨みごとを言うのであれば、神を信じている、神を信用している、信頼しているとは、絶対にいえないだろう。ダビデはそうではなかった。彼は神を信頼していた。だから子どもが死んだら、もう全部終わったと思ったのだ。一切を神に任せるというのは、こういう事をいうのだ。ここには悲しみはあった。しかし不平はない。悔いもない。神のなさることに全てをお任せするだけだった。」

 罪のゆるしを信じるという事は、こういう事を言うのだろうと思います。「ここには悲しみはあった。しかし不平はなかった」というのです。ところがわれわれの弱い信仰は、悲しみと共にいつも自分の思いどおりにいかないと不平だらけで、やがて神から離れていくのではないでしょうか。

 罪を犯したわれわれは罰がこわいのであります。そのために自分の罪に対して正しい態度がとれなくなってしまっているのです。罰が恐いために相手に、相手の家族に謝りにいけなくなったり、神の前に出れなくなったりしている。イエスはそういう弱いわれわれの立場に立って、その罰を今引き受けようとして、十字架の道に歩もうとしているのであります。罰の中でも一番重い罰は、敵の手に渡されるという事だろうと思います。今イエスはその罰、サタンの手に渡されるという罰をわれわれの代わりに引き受けて、しかも最後まで「アバ父よ」と、父なる神に信頼しながら、父なる神に祈りつつその道を歩もうとするのであります。
 
 姦淫を犯した女を捕らえてきて、みんなが「こんな女は石でうちこ殺してしまえ」と言い、「そうしていいか」、とイエスに人々が問うた時、イエスは「あなたがたのなかで罪のないものが石を投げればいいだろう」と言われた。するとみんなはすごすごとそこを去っていって、だれ一人彼女に石を投げるものがいなかったというのです。みんなが去った後、イエスが最後にその女にいわれた事は「わたしもあなたを罰しない」という言葉でした。それは内容的には、「わたしはあなたの罪をゆるす」という事だと思いますが、それはやはり具体的に、わたしもお前に石を投げるのをやめようという事で、そしてあなたの罪を赦そうという事なのであります。石で撃ち殺されるのではないかと、恥と恐怖で、おびえきっている女に、イエスはその罰を免除し、罪のゆるしを女に宣言したのであります。

 神は弱いわれわれのために、罰の恐怖でおびえ切っているわれわれのために罰を免除してくださって、罪の赦しを明らかにしてくださるのであります。
 
 聖書をみますと、われわれには確かに終末の裁きがある事を言っているのであります。ですから、神の赦しを受けたわれわれは裁きがなくなったわけではない、罰がなくなったわけではないという事がわかります。しかしイエスがあの父なる神を信じて、十字架の呪いという罰を引き受けてくださったことによって、神の裁きも、神の罰もまったくその様相を変えてしまったのであります。もうわれわれはその罰を恐れれる必要がなくなったという事であります。それは、われわれを救うための神の懲らしめであり、訓練としての罰に変わっていったという事であります。その裁きをとおし、その罰を通して、われわれにより深く神の愛を信じさせるための裁きであり、罰なのだと分からせてくれるためのものになったという事であります。

 イエスは今その罰を引き受けようとして恐れおののき、悩み苦しみ、悲しみのあまり死ぬほどの思いになっているのであります。それはもはや英雄としてではなく、一人の弱いわれわれと同じ人間の立場に立って、その罰を引き受けようとされているのであります。イエスは神の子であったからこそ、われわれ人間の罪の重大性をわれわれ以上に深刻に受けとめ、従ってこの罪を正しく解決するためには、この罪に対する罰を曖昧にしてしまうことではなく、この罰をまともに引き受ける事であることをイエスは知っていてるのであります。イエスは神の子だからこそ、罪の恐ろしさと、それに対する罰の深刻さをわれわれ人間以上によく知っておられた。罰の最も重い罰は、神から切り離され、神から見捨てられる事である事をイエスはだれよりもよく知っていて、だれよりもその悲痛さをよく知っておられた。それだからこそ、イエスはこの十字架を前にして思い悩み、恐れおののくのは当然なのであります。そうであるからこそ、ここでイエスがその弱さをさらけ出して、悩み苦しんだのは当然なのであります。

 そしてそういうイエスにわれわれが深く親しみを感じるのは、当然であります。何故ならイエスは英雄としてではなく、われわれ以上に、われわれの弱い立場にたってくださっているからであります。それはここにイエスの弱さを垣間見て、ほくそ笑むという卑しい思いから親しみを感じるという事ではなく、われわれ以上にわれわれの弱さを知ってくださったという尊敬の思いをこめて、有り難いという思いをこめて、イエスに親しみを感じるという事であります。

 イエスは必死に父なる神に祈りました。しかし神は一言も答えてはくれないのであります。神はまったく沈黙しておられるのであります。イエスがヨハネからバプテスマを受けた時も、あの山上の変貌といわれている出来事においても、神は「これはわたしの愛する子だ。わたしの心にかなうものだ」という声が天から聞こえたのであります。それならばこの時にこそ、イエスが「みこころのままになさってください」と祈り、この十字架が本当にあなたのみこころなのですかと祈り訴えているのですから「そうだ、これがわたしの意志だ」と一言、神は答えてもよさそうなのに、神は全く沈黙しているのであります。

 わたくしが神の沈黙について一番深く教えられのは、竹森満佐一の説教であります。こう言っております。
 「神がわれわれの祈りに答えてくださらない時、われわれは神の沈黙について考えざるを得ない。神のみこころがよく分からない時もそうだ。神の沈黙はこの場合には、神がなにをお考えになっているかわからないという事だろう。しかし本当を言えば、神の沈黙をもっとも強く感じるのは、神がわれわれの願い通りに答えてくださらない時だ。自分には神からしていただきたい事がある。それに対して、神はお考えをはっきりお示しになられている。しかしそれはわれわれが思っていた事とは違うわけだ。それで、われわれは満足できないので、何度も求める。しかし神のみこころは変わらない。こういう時に、実はもっとも強く神が沈黙されているように思うのではないか。神ははっきり語っておられる。ただ、われわれがそれを受け入れたくないということなのだ。それは神が何も語られないのと同じであり、むしろそれよりも、われわれにとってはつらいのだ。神の意志ははっきりしている。それは動くことがない。その時にわれわれは神が沈黙されると思うのである。神の沈黙とは、神の意志の堅さをいうことであり、人間のわがままを示すものだ。」

 イエスが今必死に祈っているのに、神が沈黙しているのは、神の意志の堅さをあらわしているのだということであります。
 
 しかしここでは、特に、もう一つの事があると思います。それは神ご自身がご自分の独り子であるイエスを敵の手に渡すという辛さであります。一声だしたら、こちらが弱気になって、「そんなにつらいなら止めなさい」と言い出しかねない、だから沈黙しているのだと言う事もあるのではないか。これはあまりにも人間的で、センチメンタル過ぎる解釈かも知れませんが、神の子が十字架につくという事はそのくらい神ご自身にとっても大変な事であったという事であります。

 ですから、ルカによる福音書(二二章四三節)では、御使いが天から現れてイエスを力づけたというのであります。何と言って力づけたとは書いてありません。しかしイエスは天からの励ましを受けると、イエスは苦しみもだえ、ますます切に祈られたと記されているのであります。イエスは御使いの励ましを受けると、この十字架は自分ひとりだけが負わなければならないものである事を知って、ますます切に父なる神に祈ったというのであります。
 
 しかしこの時、傍らにいた三人の弟子達は眠っていたのであります。イエスはその弟子達に「心は熱しているが、肉体が弱いのである」と言われております。これはイエスの皮肉ではないかと、ある人が言っております。何故なら、本当は、われわれの肉体が弱いからではなく、われわれの心が弱いから、この大事な時に眠ってしまうからであります。この肉体と言うのは、われわれの生理的な肉体という事ではなく、それも含めてわれわれ人間という事であります。どんなに霊的に燃えていても、われわれの精神が弱いので、大事な時に眠ってしまうのであります。

 もちろんこの時、弟子達が起きて、目を覚ましていたとしても、イエスの恐れとか悩みは解消はされないでありましょう。天からのみ御使いが降りて励ましても、イエスは苦しみもだえたというのですから、弟子達が目を覚ましていても同じだったでしょう。
 しかし自分の愛する人がかたわらにいてくれていたら、たとえ自分ひとりで死の蔭の谷を歩まなくてはならない時にも、どんなにか慰めになるかわからないと思うのであります。