「イエスの逮捕と裁判」          十四章四三ー六五節


 カール・バルトと言う大変偉い神学者が、人間の罪を分析して三つに分けております。一つは、傲慢、一つは、虚偽、そしてもう一つは、怠惰であります。傲慢とは、いうまでもなく、神でもない人間が神の位置に自分を置こうとする事であります。虚偽とは、神でもない人間が、自分を神であるかのように、偽ることであります。言葉を変えて言えば、完全でもない人間が完全を装うとする、それで無理して自分を偽ることになるわけであります。そして怠惰とは、神の愛に鈍感になることであります。神の愛を一杯受けておりながら、そのようにして神から期待されながら、その神の期待に応えようとしないで、怠けているということであります。その傲慢という罪、虚偽という罪、怠惰という罪に対応する生き方は、謙遜であり、真実であり、真剣さという事であります。
 
 神の子であるイエス・キリストが、その神の座を捨てて、人間の低さにまで徹底して降りてきて、へりくだり、父なる神に従順に聞き従って真実を貫き通し、父なる神の愛に応えて、最後まで真剣に歩まれたのが、あの十字架への道であったのてはないかと思います。そうであるが故に、イエスがそのように、謙遜の限りをつくし、真実に、そして真剣に十字架への道を歩まれれば歩まれるほど、それに照らされて、われわれ人間の罪が、あの傲慢という罪、虚偽という罪、怠惰という罪があらわにされていくのであります。

 福音書のイエスの受難の記事を読み進めて行くとき、いやでもその事があきらかにされていくのであります。
 あの権威の座についていた祭司長、律法学者、長老達は、イエスが神の子である事をどうしても認める事ができずに、イエスを神の子として認める事は自分達の権威の座があやふくされる、従って自分達の偽りの座が暴露される事を恐れて、なんとかして、イエスを逮捕し、色々ないいがかりをつけて、抹殺したいと思い、その行動にでるのであります。人間の傲慢の罪がこうしてあらわにされていくのであります。

 虚偽の罪はどこであらわにされるのかと言いますと、思いがけないことに、イエスの一番側にいたペテロにおいて露呈されるのであります。イエスが「お前たちは一度はわたしにつまずく、それは羊が羊飼を失うからだ」と言われたにもかかわらず、ペテロは「わたしは絶対につまずきません。わたしだけは、みんなの者がつまずいても、わたしだけはあなたと一緒に死にます」と誓いながら、「そんな人は知らない」と偽ることになるのであります。羊飼を失って羊はつまずくのは当然なのに、ペテロは「自分は決してつまずきません」と、自分の本当の姿を偽ろうとするのであります。

 そして、怠惰の罪もまた一番あらわな姿で暴露されたのが、イエスの身近にいた三人の弟子達において示されるのであります。イエスが悩み苦しみ、悲しみのあまり死ぬほどである、わたしと一緒に目を覚ましていてくれ、と言われておりながら、そのイエスの期待に応えられないで、イエスが少し離れた所で、父なる神に祈っている間、つい眠りこけてしまうのであります。そして三度目に「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう」と言われてしまうのであります。

 これらの罪は、みな神に近くにいる者が犯したのであります。祭司長、律法学者、長老達はみな神のいわば代行的な役を担っている者であり、弟子達はイエスの一番身近にいた者であります。
 
 さて、イエスはゲッセマネの園で、必死に祈った時、そのイエスの祈りに応えてくださらない神の沈黙に直面して、その沈黙の中にかえって、自分が十字架への道を歩む事が父なる神の強い堅い意志だという事を悟り、いよいよ覚悟を決めて、眠りこけている弟子達を起こし、「立て、さあ、行こう、見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」と言って、決然として立ち上がるのであります。

 すると十二弟子のひとりユダが、祭司長たちから派遣された群衆を従えて、イエスを捕まえにくるのでりあます。彼らは、剣や棒をもってイエスを捕まえにきた。イエスを裏切る者はあらかじめ彼らに合図していたというのです。「わたしが接吻するものが、その人だ、そいつをつかまえろ」と示し合わせていたというのであります。その時、イエスの側に立っていた者の一人が、剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、その片耳を切り落とした。この剣を抜いてイエスを捕らえに来た者の片耳を切り落とした者は、イエスの弟子のひとりである事はあきらかで、そしてヨハネによる福音書でははっきりと、これはペテロだと名前が記されているのであります。しかしマルコによる福音書は、その名前を記そうとしないで、わざと「イエスのそばに立っている者のひとり」と記すのであります。

 渡辺信夫がこの事を指摘して、これは「ただ側にいたたげのことをいうのであって、もはやイエスの弟子ではない、ただ側に立っているだけの人間という事で、その言い方には、背筋の凍る思いがする」と言っております。

 イエスを捕らえに来た者に対して、戦いを挑み、剣で切りかかったというのですから、これは決して不名誉なことではなく、むしろ名
誉な事なのに、福音書はその名前を明らかにしようとせずに、ただ「イエスのそばに立っている者」、イエスのそばにただ立っていた者、と記すのであります。これがペテロだとすれば、その行動の前には、イエスが必死に祈り、わたしと一緒に目を覚ましていなさい、と言われていながら、眠りこけ、そして、その後には結局は、イエスを三度知らないと、言う始末のペテロであります。そういう事から考えますと、この時のペテロの行動は先生であるイエスを守るための行動というよりは、ただ弱い臆病な人間がとっさに自分の身を守る行動に出ただけのことであったのであります。

 この行動は後で、イエスからひどく叱られるのであります。「剣をおさめよ」と叱られるのであります。マルコには記されてはおりませんが、マタイによる福音書には「剣をとる者はみな剣で滅びる」と、イエスが言って叱ったことが記されているのであります。ですから、このペテロの行動はそのペテロの行動の一貫性という事から考えても、この行動だけから言っても、決してほめられた行動てもなく、名誉ある行動でもないことは明かなのであります。それにしてもこのペテロの事を「イエスのそばに立っていた者のひとり」と記すマルコ福音書の皮肉、マルコ福音書の弟子に対する厳しい目に、人間の罪に対する悲痛な思いが感じられるのであります。

 そしてユダについても、始めこそ、十二弟子のひとりユダと、その名前が記されますが、その内に、もうユダとは記さず、「イエスを裏切る者」と記されるのでりあります。

 そして、五十一節には、一人の若者がイエスを見捨てて逃げていく事が書かれております。この一連の記事には、「裏切る者」「そばに立っている者」「若者」というように、固有名詞が記されていないのも、何かマルコ福音書の特別な意図があるのかと思いたくなります。それはちょうど、戯曲の台本などに、登場人物の中で「通行人A」とか「通行人B」とか記されているようなものではないでしょうか。通行人AとかBとか、記されている人物は、あまり大した重要な役でない登場人物であります。誰にでも代わりがつとまるような人物でしかないのであります。この一連の出来事の中で、ただひとり終始一貫その名前が記される人物イエス・キリストだけが、誰にも代わる事のできない人物だという事であります。

 そしてまた、われわれが罪を犯す時というのは、固有名詞を記してきちんとその責任の所在を明らかにできるような主体性をもった人間では、もはやなくなっているという事でもあります。あのイスカリオテのユダですら、ただ「裏切る者」という抽象的な言い方でくくられてしまうような存在でしかないという事であります。われわれが罪を犯す時は、何か一番自分がしたい事をやる時で、一番自分の主体性を発揮出来る時だなどと、意気込むかも知れませんが、しかしあのイエスを裏切るユダも、ただの「裏切る者」としか呼ばれない存在に過ぎないののだという事であります。
 
 ここで登場してまいります、一人の「若者」は、マルコによる福音書だけに記されている人物であります。「ときにある若者が身に亜麻をまとってイエスのあとについて行ったが、人々が彼を捕まえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った」と、大変詳しく書かれておりますので、これはこの福音書を書いたマルコ自身ではないかという推測が昔からされているのであります。亜麻布というのは、高価な着物で弟子達がまとっているものではないというのです。昼間エルサレムで律法学者たちと議論していたイエスにひそかに後からついて来て、このゲッセマネの園までついていって、この事件に巻き込まれたのではないかというのであります。もしそうだとしますと、このマルコを書いたこの著者はこの記事をわざわざ書き、自分の無様な姿をこのようにして書き記して、あの情けない弟子達と自分が一つも変わらないものであることを、記したかったのかも知れません。われわれはみな罪人であるという点で、平等であるというか、共通しているのであります。
 
 そのようにして、イエスは捕えられました。弟子達はみなイエスを見捨てて逃げ去りました。イエスは大祭司のところに連れていかれ、そしてその夜のうちに全議会が集められ、裁判が開かれました。これは当時のイスラエルの裁判としたら、大変異常な裁判、不当な裁判であります。深夜にこうした裁判が行われているからであります。そして始めから「イエスを死刑にするために」証言を集めようとした裁判だからであります。しかも三人の証言を集めて、イエスを罪に定めようとしたというのですから、手続きだけは、法律に即していこうとしたところはいかにも正しさを装う政治家、法律家のやりそうな事であります。しかし三人の一致した証言は得られず、大祭司はとうとう困って、大祭司自ら、イエスに聞きただした。「何も答えないのか。これらの人々がお前に不利な証言をしているのに、どうなのか」と言っても、イエスは何も答えず、黙っていたというのであります。

 あのゲッセマネの園で、イエスの祈りに神が沈黙を守ったように、今度はイエス自身が沈黙を守り通すのであります。
 神の沈黙は、神の意志の堅さをいうのだと、先日の説教でいいましたが、この時のイエスの沈黙もやはりイエスの意志の堅さを表しているに違いないのであります。
そして大祭司が「お前はほむべきものの子、キリストであるか」と聞いた時、イエスは始めて口を開き、「わたしがそれである」と答え、「あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」と答えるのであります。
これが決定的なものになって、大祭司はその衣を裂き、「どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたはけがし言葉を聞いた」と言って、イエスは神を冒涜したという罪を受けて、死刑に断定されるのであります。決定的になったものが、ひとびとの証言ではなく、イエスご自身の証言だったという事がここの一連の箇所のただ一つの救いではないかと思います。

 イエスは他人の証言によって罪に定められたのではなく、自らの主体的な証言で、みずからの意志で、死刑という判決を受けるのであります。そして、人々が剣や棒をもって捕らえに来た時、イエスが言われた言葉「あなたがたは強盗に向かうように、剣や棒をもってわたしを捕らえに来たのか。わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて、教えていたのに、わたしを捕まえようとはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」という言葉にありますように、この十字架の道は、全てが神の意志によってなされていくのであります。全ては闇の中で、人間の罪という闇の中で起こり、行われましたが、その中を貫き通される神の意志、罪人を救おうとする神の強い堅い、そして激しい意志、聖書の言葉は成就されねばならないという、神の救いの意志が働いていたという事は、慰めであります。

 最初に人間の罪は三つに分けられる、それは傲慢という罪、虚偽という罪、怠惰という罪だと申しましたが、それでは十二弟子でありながらイエスを裏切ったユダはその内のどの罪に当たるのでしょうか。
 考えてみたら、そのどれにも当たるようでいて、そのどれにも当たらないようなのであります。それは本当に不気味な罪であります。そのためにルカによる福音書はこのユダに悪魔が、サタンが入ったのだ、と説明するのであります。

 罪はただ人間の傲慢、人間の虚偽、人間の怠惰というように、分析できないで、そうした人間の意志を超えて、もっと不気味な、人間を超えたサタンの力に引きずられるようにして、罪を犯すのかもしれないのであります。

 自分の罪を考える時、あまりの自分の弱さに直面すると時、自分は罪の被害者だ、サタンによる罪の被害者だとしかいいようがなくなる時があるのではないかと思います。神を信じ、神の愛を知らされながら、罪を犯してしまう時、ことさらそう感じるのではないかと思います。

 あのペテロも、イエスからお前はサタンだと言われたことがあるのであります。そしてあのパウロもクリスチャンになって、自分の罪に気づいた時、「自分の欲する善はこれを為さず、自分の欲しない悪が、自分の憎んでいる悪が自分を駆り立てて罪を犯させるのだ。それでこの事をしているのはもはや自分ではない。わたしの中に宿っている罪だ。」というのであります。そして「自分はなんというみじめな人間だろう。だれがこの死のからだから自分を救ってくれるだろうか」と悲痛な叫び声を発するのであります。(ローマ人への手紙七章一五ー)

 これは自分の罪に対する無責任な発言ではなく、罪の不気味さ、自分の罪に対する自分の弱さを深く知れば知るほど、このように嘆きたくなるという事であります。そうして、このようなわれわれ人間の罪が救われるためには、ただ神の救いのご計画が成就すること、ただ神の意志が貫徹されていく以外にない事をつくづく考えさせられるのであります。