「病人をいやすイエス」      一章二九ー三九節

 イエスは安息日に会堂で汚れた霊に憑かれた人から霊を追い出すと、すぐヤコブとヨハネをつれて、シモンとアンデレの家に入っていったというのであります。これは意外ではないでしょうか。何故ならイエスの弟子達はイエスから「わたしについてきなさい」と言われた時、すぐ網を捨てて、あるいは父を雇い人と一緒においてイエスに従ったと記されていたからであります。そこを読んだ時に、イエスに従うという事は、今までの家族関係を一切捨てて、過去を一切捨てて従わなくてはならないのだと思っていたかも知れません。しかしここにはイエスはシモンとアンデレの家に入ったと記されているのであります。そしてその時シモンのしゅうとめが熱病にかかっていて、イエスはそのシモンのしゅうとめの病をいやしたというのであります。

 イエスに従うためには一切を捨てなくてはならないのだとわれわれが思いこんでしまったのは、後にイエスが「だれでもわたしについて来たいと思うならば、自分を捨て」と言われ、そして「だれでもわたしのため、福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てものは、必ずその百倍を受ける」と言われているからはないかと思います。そしてルカによる福音書では、シモン・ペテロがイエスに従った時には、いっさいを捨ててイエスに従ったと記されているからではないかと思います。

 シモン・ペテロは後に伝道活動に入った時、始終自分の奥さんを伝道旅行に連れていっているようであります。パウロの手紙を見ますと、「わたしたちにはほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパ(つまりペテロの事ですが)のように信者の妻を連れ歩く権利がないのか。」と言っている所があって、これはペテロが自分の奥さんを連れて伝道していた事を書いているのだと言われております。

 こうして見ますと、捨てるという事は、捨てればいいということではなく、捨てる事によって、そこに新しい家族関係が生まれるという事なのだという事がわかります。特に血縁による関係は血のつながりという事で、お互いの人格が無視され、そこには甘えた関係が起こりがちですから、そういう家族関係、血縁関係を一度捨ててイエス・キリストを中心とした新しい人格的な関係を作るという事が大切なのだという事であります。捨てる事は、ある意味でたやすい事であります。自分にとってしちめんどくさい家族関係を捨ててしまいたい、その家族関係から逃れたいと思うかも知れませんが、イエスはそんな事を奨励したのではないことは、この時、シモン・ペテロの家に入ってそのペテロの妻の母、しゅうとめの病をいやした事でもわかるのであります。
 
 イエスはこのしゅうとめが熱病にかかって床についているのを知らされると、彼は彼女に近寄り、その手をとっていやしたのであります。その日、イエスは会堂で悪霊に憑かれた人をいやしましたが、ここでは熱病にかかっているペテロの姑をいやしたのであります。そしてそうした事が評判になって、安息日が終わった夕暮れになると、病人や悪霊に憑かれた人が大勢つれられて来て、イエスはそれらの人をいやしたというのであります。

 聖書では、悪霊に憑かれた人と病人とそしてらい病人と、それぞれ分けて書かれているのであります。そしてそれぞれいやしかたが違うようなのであります。らいにかかった人については、この後、四十節からの所で学ぶことになりますが、その「らい」をいやしてからは「自分のからだを祭司に見せて、モーセが命じた物をあなたのきよめのために捧げて、人々に証明してもらいなさい」と言っております。その理由についてはその時学びたいと思います。

 今日考えたい事は、汚れた霊につかれた人、つまり悪霊に憑かれた人のいやしと病人のいやしの違いであります。渡辺信夫がこの事を説明して、悪霊に憑かれた人の場合は、その人がイエスの前に来ると、悪霊どもははげしく抵抗し、結局逃げて行くというのです。悪霊は炭火を近づければ氷がとけ去るように、キリストの接近によって悪霊の支配は失せ去るのだ、それは機械的に起こるのだ、しかし病気は逃げ去らない、と言っているのであります。

悪霊はイエスを見ると、本当の聖なるかたを見ると、自らしっぽをまいて逃げ出していくという書き方がされているのに対して、病にかかっている人の場合にはそのように書かれていないというのであります。イエスは病にかかっている人をいやす時には、シモンのしゅうとめの場合のように、手をとって起こされたり、言葉をかけたりしていやしているというのです。それは何故かというと、病気は悪霊のわざではなく、それは神の送ったわざわいで、その原因は人の罪にあるとされているからだというのであります。それは後に学ぶ事になります、二章の中風の者の病をいやす時、「あなたの罪はゆるされた」といきなり言うことからもわかるというのです。

 もちろん、渡辺信夫は、聖書ではすべての病人を罪人としてみなすように書かれているわけではない、ヨブ記の例をみてもそれはわかるが、そんなに簡単に割り切れるものではないとは言っているのであります。しかし単純化してみるとそうなるというのです。悪霊は神に対抗するサタンの事ですから、イエスの姿をみると自らしっぽをまいて逃げ出していくが、人間の罪と深く結びついている病をいやす時には、イエスは手をとって、手をさしのべて、病をいやそうとする。手をさしのべるという事は和解を意味するのである、イエスは和解をもたらすものとして近づき、その罪を赦すのだというのであります。
 
そしてマタイによる福音書ではこの箇所で、旧約聖書のイザヤ書の言葉「彼はわたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」という「主のしもべ」の歌を引用しているというのです。そして渡辺信夫はこういうのです。
 
「イエスは悪霊を追い出す時には、『権威あるもの』として人を驚嘆させる存在として立つのに対して、病人をいやす時には、苦難のしもべとして、自分の身を低くして、罪の赦しを与える和解者として立つ。主イエスは病めるものの外に立つことなく、病めるものの内側にかかわっておいでになる」。

 渡辺信夫は、悪霊につかれるという事はは神に対抗するサタンのわざであるが、病気は人間の罪と深く結びついていると言っておりますが、そう簡単に分ける事ができるかどうかはわかりません。といいますのは、たとえばパウロが病気になった時、それはサタンの使いだとパウロは言っているからであります。「高慢にならないようにわたしの肉体にひとつのとげが与えられた。」と言い、「それは高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いだ」というのです。サタンがパウロを高慢にならないように、つまり謙遜にさせるために病気にしたというのはおかしいと言えばおかしいのですが、それは神がそうさせたと言った方が本当は適切だと思うのですが
、パウロは「サタンがわたしを打ったのだ」というのです。それは結局は神がサタンを使って、パウロの高慢を打ち砕くために病気にしたという事だろうと思います。それにしてもここでは、病気とサタンのわざとが微妙に結びついているのであります。

 渡辺信夫がいうように、確かにイエスは悪霊に憑かれた人に対する時と、病人に対する時と態度が違うという指摘は当たっていると思います。
 
 病気は人間の罪と深く結びついているという事はどういう事でしょうか。それは病気は人間が罪を犯した結果、その罰として病に陥るのだという事でしょうか。確かに旧約聖書には、そのような罰としての病気、あるいは罰として災難不幸があるのだという考えは一般的でした。ダビテがバテシバ事件を起こした時は、罰として子供が死ぬのであります。しかし同時にそういう考えに、真っ向から疑問を投げかけたのがヨブ記であります。

ヨブは全く正しい人間であったにもかかわらず、ある時突然ひどい災難に会い、ヨブ自身重い病気になるわけです。ヨブを見舞いに来た友人たちは最初はさすがに遠慮して言いませんでしたが、ヨブが自分の潔白をあまりに主張するので、とうとうたまりかねて、「あなたが病気になったのはあなたが罪を犯したからだ」というのです。それに対してヨブは絶対にそんな事はないというのであります。そして新約聖書では、ある時生まれつきの盲人に対して、イエスの弟子が「彼が生まれつき盲人なのは、本人が何か罪を犯したためですか、それとも両親が罪を犯したためですか」とイエスに聞きますと、イエスはそういう考えをきっぱりとしりぞけて、「そうではない、本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。ただ神のみわざが彼のうえに現れるためだ」というのであります。
 
ですから、病気を直ちに、罪の結果として、罪に対する罰として考える事はできないのであります。病気でない人、いかにも健康そうにまるまるふとった人は、罪を犯していないかと言えば、そんな事は到底言えないのはあきらかであります。
 
それでは病気が罪と深く結びついているとはどういう事でしょうか。こう考えたらどうでしょうか。われわれは病気になると、自分の罪に深く気づくようになるという事であります。健康な時にはあまり気がつかない事が病気になった時、われわれはつくづく自分の弱さに気づく、そして不安を感じ、思い煩うのではないでしょうか。パウロが病気になった時、必死になって神に祈り「どうかこの病をわたしから取り去ってください」と何度も何度も主イエスに祈ったのであります。そしてその祈りを通して、パウロは自分の高慢さに気づいていくのであります。自分の罪に気づいていくのであります。

 われわれも病気になった時に今までどんなに祈りが少なかったかという事に気づくのではないでしょうか。自分がどんなに自分勝手に生きていたかが身に沁みてわかるのではないでしょうか。そして自分はひとりでは生きて行けない事がわかるのではないでしょうか。自分の弱さがわかり、自分の高慢さがわかり、自分がいかに自己中心であったかがわかるのではないでしょうか。

 病気が深く罪と結びついているという事は、罪の結果が病気だというのではなく、罪を沢山犯したから病気になるという事ではなく、病気になるとわれわれは自分の罪がわかり出すということであります。そう考えた時、われわれも、パウロのように、この病は自分の高慢さを打ち砕くために神がサタンを用いて自分にこのような病を与えたのかも知れないと考え始めて、真剣に祈り始め、そして神の恵みがいっきにわかるようになるかも知れないのであります。
 
 イエスが病人に対しては、悪霊に対する時の様に、権威をもって、いわば力で押さえつけるようにして対するのではなく、われわれと和解を求めるように手をさしのべる、またある時には、「しっかりするのだ」と力強く諭し、またある時には「見えるようになれ」と優しく声をかけてくださる。それはすでに罪を自覚している人間に、イエスが対しているからではないでしょうか。まだ罪を自覚していない人間に対する時は、あのパリサイ人や律法学者に対したように「偽善者たちよ」と激しく迫るかも知れませんが、すでに罪を自覚し、その罪に泣いている人に対してはイエスは限りなく優しく、ご自分の身を低くして、「すべて重荷を負うて苦労している人はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と呼びかけ、招いてくださるのではないでしょうか。汚れた霊に憑かれた人間は、そのような意味で罪を自覚しない。イエスに対して、聖なる者に対して恐れを感じる事はあっても、自分の罪を感じる事はないのではないか。

 聖書では罪とは何も道徳的な事をさしているのではなく、神を信じない事、神を信じられないで、傲慢になったり、逆に卑屈になってみたり、どうせ神は自分のようなものなど省みてくれないのだと自分勝手に絶望したりすることなのであります。

 イエスは熱病にかかったシモン・ペテロの姑の手をとって起こしてやり、いやしたのであります。すると姑は熱が引いた時、すぐイエスをもてなしたというのであります。まことにさわやかな記事であります。病がなおり、罪がゆるされる事の様子がさりげなく書かれております。罪が赦された事を知った人間は何も大げさな奉仕をする必要はないのであります。自分のできる事を力まずにしていけばいいのであります。

 そうしたイエスの事を知って、人々は沢山の病人や悪霊に憑かれた人をイエスの所に連れてまいりました。そしてイエスはそれらの人々をいやしました。そして特に悪霊に物を言う事をおゆるしにならなかったというのであります。この理由については、すでに先週学びましたので、もう述べませんが、イエスは悪霊だけでなく、病気でいやされた人にも、この事は人に話すなと言われたのであります。それでもその評判はひろがって、沢山の人が来たのであります。朝早く、夜の明ける前にイエスは起きて、ひとりで寂しい所にいって祈っていたのであります。するとシモンとその仲間とがあとを追って来て「みんながあなたを捜しています」と言いますと、イエスは「ほかの付近の町々にみんなで行って、そこでも教えを宣べ伝えよう」と言われて、その所を後にしたのであります。イエスはご自分の使命はあくまで「教え」であるとお考えになっていたのであります。しかしイエスは、悪霊につかれ、病気で苦しんで人を前にして、「わたしが来たのは、教えを伝えるためになのであって、病人をいやすためではない」とは言いませんでした。

 イエスは自分の目の前で苦しんでいる人を見て、深く憐れみ、その病をいやし、また悪霊に対して、非常に怒り、それを追い出しはしましたが、しかしご自分の本当の使命はあくまで福音の宣教である事はいつも自覚していたのであります。悪霊を追い出したり、病気をいやしたりすることで、イエスの名声はあがり、あるいは人々はそれによって神を信じるようになるかも知れませんが、イエスはそのようにして得られる信仰にはいつも警戒していたのであります。自分がそのような教祖になることを拒否し、そのためにいつも寂しい所に身を引き、自分の本当の使命を見失わないように神に祈り続けたのであります。

 イエスはこの世での苦しい生活の厳しさの故にご利益を求める人に、決して冷たいかたではありませんが、しかしそのわれわれのご利益を求める信仰を満足させるだけでは、決して人間は救われない事もよく知っていたのであります。