「わたしは知らない」         十四章六六ー七二節


 パウロは「私達がまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者のために死んでくださった」と言っております。そして、すぐ続いて、「しかしまだ罪人であった時、私達のためにキリストは死んでくださったことによって、神は私達に対する愛を示されたのである」(ローマ人への手紙五章六ー)と言っております。始めに「弱かったころ」と言って、すぐ続いて「罪人であった時に」といっているわけで、われわれの弱さがわれわれの罪なのだというのであります。聖書の立場から言えば、強いという事が罪だということは、よくわかる事であります。自己主張が激しく、自我が強い人は、その強さのために人を傷つけるからであります。傲慢になっていくからであります。しかし弱さはどうして罪なのでしょうか。弱さはむしろ同情すべきことであって、いたわってあげるべき事であって、決して非難の対象などならないのではないかと思います。

 幼子は弱い存在ですが、幼子が罪人だとは誰も思わないだろうと思います。そうしますと、弱さそれ自体が罪だというのではなく、その弱さを認めようとしないこと、あるいはその弱さを素直に認めないで、強がりをいったり、正しく人に頼ろうとしないで、かたくなになったりする事が罪とつながるのではないかと思います。

 パウロが、「私達がまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心の者のために死んでくださった」と言っておりますように、弱い人間は不信心になりやすいので、その不信心な者のために、キリストは死んでくださったというのであります。
 強い人は自分一人で生きれるのだ、自分一人で生きるんだと言って、神を信じようとせず、人を信頼しようとしないのに対して、弱い人はその弱さのために、素直に神に対して、人に対して心を開こうとしないで、自分の心をかたくなにして、依怙地になって「不信心に」なっていくという事、それが罪という事なのではないかと思います。

 前にも、そしてたびたび紹介してきましたが、竹森満佐一が説教の中で「弱さ」ついて述べている言葉であります。「世の中で最も扱いにくいものは弱さではないかと思う。弱い人というのは大事にしすぎるとつけあがるし、厳しすぎるとひねくれるし、甘やかすとまとわりついてくる、という様に手に負えないものだ」というのです。この言葉を聞いて、みな思いあたるのではないでしょうか。そして弱さというのがやはり罪だという事もよくわかるのではないでしょうか。
 
 石原吉郎という詩人が、「弱者の正義」ということを書いております。石原吉郎という人は、戦争が終わった後、シベリヤに十年間も強制収容所で抑留生活を送った人ですが、その強制収容所で、仲間同士の密告がある、自分も針一本のために密告されたことがあると書いております。つくろいものをするために、針金から何日もかけて針をつくりあげたが、それが仲間から密告された。そしてその収容所の中での密告者は決まって老人とか病弱者の弱い人がするというのです。自分よりも少しでもいい条件を手にすることを彼らは許せなくて、針をもっているとかタバコを手にいれたとわかると当局に密告する。それによって自分はなんの利益にもならないのにそうするというのです。それは強い人に対する嫉妬心からそうするのだというのです。そしてその嫉妬心は、人間はみな平等でなければならないという正義感になって、自分のやることを正当化することになるというのであります。

 そして石原氏が言うには、その強制収容所で骨身にこたえて思い知らされるのは、弱者のいやらしさだったというのであります。強い人間の横暴さは単純明解でそれなりにわかりいいが、弱者の狡猾さは陰湿で怨恨にみちていて、無数の弁明によってひそかにささえられている、というのです。そして強制収容所では、だれしも弱者に転落するわけで、この弱者の狡猾さいやらしさは自分自身のことでもあるので、一層この弱者のいやらしさは骨身にこたえると書くのであります。

 イスカリオテのユダが先生であるイエスを裏切った罪が強い人間が犯す罪だとすれば、ペテロが三度にわたってイエスを裏切るのは、弱い人が犯す罪だといえないでしょうか。ユダはいわば積極的に、恐らく自分の思想と自分の信条と合わなくなって、イエスを裏切っていくのでしょうが、ペテロは自分の弱さのために、やむを得ず、消極的にイエスを裏切っていくのではないかと思います。

 イエスが捕らえられた時、弟子達はみなイエスから離れ、イエスを見捨てて逃げ去りました。しかしペテロだけは、遠くからイエスについていき、イエスが捕らえられ、裁判にあっている大祭司の中庭まで入り込み、その下役どもに混じって焚火の火に当たっていました。するとそこに、大祭司の女中が出てきてペテロを見て「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」といいます。すると、ペテロはそれをあわてて打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言う事がなんのことかわからない。」と言って、その女中から離れて、庭の出口の方にいくのであります。そういうことが三度あって、三度目にはペテロは「あなたの話している人のことは何も知らない」と、「何も」という言葉を付け加えて、イエスとの関係を全面否定するのであります。

 マタイによる福音書の方では、これは新共同訳ですが「そのとき、ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、『その人は知らない』と誓い始めた」となっております。

 この時この女はただ、ペテロに対して、「あなたはあのナザレ人イエスと一緒だった」と言っただけであります。何もそういって彼を大祭司に告発しようとしたわけではないのです。まして大祭司の兵士が来て、ペテロを問いただそうとしたわけでもないのであります。権力をもたないただの女中が、ただ「あなたはイエスの仲間ではないか」といっただけなのです。それなのに彼は「わたしは何も知らない」と、呪いの言葉まで用いて自分とイエスとの関係を否定したというのであります。

 女はペテロを大祭司に告発しようとしたわけではないのです。ペテロはイエスと一緒に裁判にかけられて、イエスと一緒に処刑されようとされたわけでもないのです。それなのにペテロの方は最大の言葉を使って、自分とイエスとの関係を否定しようとするのであります。女はペテロを告発しようとしたのでなく、ただペテロの方が、もしここで自分がイエスの仲間だという事になったら、直ちに捕らえられ、鞭打たれ、そしてもしかすると処刑されるかも知れないと思い込んだのであります。

 弱いわれわれはいつもこうして先取りして色々な事を心配し、思い煩い、勝手にあわてて行動を起こし、そして失敗するのではないでしょうか。明日がまだ来ないうちに、明日の事を思って思い煩うのであります。病気にもなってもいないのに、ガンでもないのに、自分はガンではないかとノイローゼになって思い煩うのであります。

 先取りして思い煩う、先取りして恐がるという事は、弱いわれわれがよくやる事ではないでしょうか。それが実際に起こる前に予防線を張っておこうとする、それが本当に起こってしまったときに、少しでもその恐怖感をやわらげておこうとする弱い人間特有の心理ではないかと思います。たとえば、入試の合格発表を見に行く時に、あらかじめきっと落ちていると自分に言い聞かせて、本当に不合格だったときの心の準備をしておくようなものであります。
 
 ペテロは始めは、「わたしは知らない。あなたの言う事はなんのことかわからない」と一種の責任逃れのような言い訳でかわそうとしますが、二度目三度目になっていくうちに、だんだんその否定の言葉は、激しくなっていくのであります。始めは、「あなたの言う事はなんのことかわからない」と消極的に否定するのであります。しかしそのうちに、次の瞬間には、もう積極的に、「その人のことは何も知らない」と否定し始めるのであります。

 この消極的な態度から積極的な姿勢との間に何があるかと言えば、自分の立場を弁護しようとする意志が働くのではないかと思います。 弱い人が弱さのためにやむを得ず、いわば消極的に犯す罪と、強い人が積極的に自ら進んで犯す罪との間は紙一重ではないでしょうか。

 弱い人はなんとかして自分を守ろうとして必死になるわけであります。弱い人が優しくするとつけあがり、厳しくするとひねくれ、甘やかすとまとわりついてくるというのは、自立していないという事であります。そして自立するという事は、何もかも自分一人で立たなくてならないとか、生きなくてならないという事ではなく、正しく人を信頼できるようになるという事であります。自立すると言う事は、何でも自分一人でやらなくてならないと、我を張って、自分を自分で守って生きるという事ではないのであります。自分の弱さを自分の限界をしっかりと見つめて、人に聞かなくてならない事はきちんと聞く、人にお願いしなくてはならない事はお願いする、人に信頼しなくてはならない事は正しく信頼するという事であります。

 弱い人は、弱いくせに、あるいは弱いが故に、人を信頼出来ずに、自分ひとりだけが頼りだと思い込んで、過剰に自分で自分を守ろうとし、そして始終自分の立場を守ろうとして、従って自分を正当化しようとするのではないかと思います。自立するという事は、ひねくれないで、甘えないで、正しく人を信頼するという事であります。他人に対して、心をひらくという事であります。

 ペテロは、なんの権力も持っていない女中から「あなたはイエスの仲間だ」と言われて、イエスを否認し始めるのであります。それは裁判の席で、イエスを否認したのではなく、われわれの日常の生活のなかで、イエスを否認したのであります。
日常性の中での出来事というのは、いつでも曖昧にされていくものであります。一日二日たてば、もう忘れていけるかも知れません。ペテロもこの女中の前から逃げ出せば、もうこの事は忘れたかも知れません。他の弟子達と同じように、もう大祭司の庭を一目散にあとにすればよかったのかも知れません。

 しかしその時、鶏が鳴いたのであります。そしてその鶏の鳴き声と共に、一気にあの、主イエスの言葉を思い出したのであります。ペテロが「たといみんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」と言った時、主イエスの言われた言葉であります。「お前によくいっておく。きょう、今夜、鶏が鳴く前に、そういうお前が三度私を知らないというだろう」と言われたイエスの言葉であります。そう言われた時、ペテロは「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言っていたのであります。

 自分のこの否認を既にイエスは知っておられた。イエスが既にそのことを言っておられた、もうこの否認はただ自分ひとりの心の奥深くに隠しておけばいいというものではなくなったのであります。その時ペテロは自分の罪を知ったのであります。罪は自分ひとりで自分の罪を知るだけでは、本当に自分の罪を知ったことにはならないのであります。罪は誰かに知られた時に始めて自分もまた自分の罪を知るのであります。自分だけが知っている罪は、いつでも自分の中で、自分を弁明し、自分の事を正当化して、それを罪にさせなくしてしまうのであります。石原吉郎がいう弱者のいやらしさ、狡猾さであります。弱い人は無数の弁明によって密かに支えられていると言う通りであります。

 ペテロは鶏の鳴き声と共に、イエスの言葉を思い出して、思いかえして泣き続けたというのであります。ペテロはこの時、自分が「たとえみんなの者がつまずいても、私だけは絶対につまずかない」とか「あなたと一緒に死にます」とか、大見得をきった自分の言葉も思い出したでしょうが、聖書は「イエスの言葉を思い出し、思い返して泣きつづけた」と記すのです。自分の言葉ではなく、イエスの言葉をペテロは思い出しているのです。そしてそのイエスの言葉を、自分を裁き自分を非難する言葉としてではなく、自分の弱さを見抜き、その自分のために十字架につこうとしているイエスの言葉として、思い出し、思いかえして、泣き続けたのであります。

 ルカによる福音書には、この時イエスはそういうペテロに対して「わたしはお前のために祈っている。だからお前が立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言っているのであります。イエスはその時、ペテロの弱さを見抜いて、自分の洞察力を誇るとか、自分の予知能力を誇るとか、そんな子供じみた事のために、「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と言ったのではないのです。

 ペテロがイエスのことを知らないと三度否認したとき、鶏が鳴いて、それがきっかけになって、このイエスの言った言葉を思い出して貰いたかったのであります。弱さのために懸命に自分で自分を守ろうとして、弁明し、知らない、知らないと言い続けようとするペテロに対して、彼のことを、何もかも見抜いている者がいることを知らせ、そしてそのために祈り、そのために十字架につこうとしている者がいることをペテロに思い出させようとするために、あらかじめ、ああいう事をイエスは言っていたのであります。

 自分の弱さが、自分の罪が誰かに知られているという事を知る事は恥ずかしいことかも知れません。恐ろしいことであります。もうごまかす事もできないし、時間をかけて自分が忘れさえすればいいという事ではなくなってしまうという事であります。しかし罪は、自分の罪がそのようにして誰かに知られて、いわば客観的になって、罪は始めて罪となってあらわにされるのであります。その時に、その罪を闇に葬るのではなく、自分の心の中に閉じこめてしまうのではなく、その自分の罪を認め、自分の弱さをごまかすのをやめようという気持ちになるのではないかと思います。

 ペテロはどうしたか。ペテロは泣いたのであります。泣き続けたというのであります。泣くということはどういう事でしょうか。大人になった人が泣くという事はどういうことでしょうか。大人になった男が泣くということはどういうことでしょうか。もう大人になった男は人前では泣かないものであります。人前で泣くような大人の男は世間ではあまり信用しないものであります。それですから、男の方でも泣きたくても泣かないものであります。その大人の男が泣くという事はどういう事でしょうか。

 もう自分で自分を抑えられなくなった時ではないかと思います。もう世間の事も、人の眼もすべて忘れて、ただ悲しくて、悲しくて、もう自分で自分を自制できなくて、涙があふれてしまうということであります。もう人の目を忘れているのです。ですから、そのようにして泣き続ける時というのは、自分の弱点が知られてしまった、自分の罪が誰かに知られてしまって恐ろしいというような、恐怖感はもう超えている時ではないかと思います。

 そのように、ただ自分の心の中だけで悲しむのではなく、涙があふれてきて泣けた時とは、もう自分で自分を守ろうとしないで、自分の心を開く時ではないか。自分のかたくなな心をもう明け渡してしまう時ではないか。ですからそのようにして、本当に涙があふれて、その涙が自分で止めようにも止められなくて、涙があふれるようにして泣けた時というのは、大変すがすがしい気持ちになるのではないでしょうか。パウロが言うように「神のみこころにそうた悲しみは悔いのない救いを得させる悔い改めに」(コリント人への第二の手紙七章一○節)導くのではないでしょうか。