「人に捨てられ、神に捨てられ」          十五章一六ー四一節


 谷川俊太郎が書いた詩に、武満 徹が作曲した合唱曲に「死んだ男の残したものは」という題のついた曲があります。それはこういう内容の歌詞です。
 「死んだ男の残したものは、ひとりの妻とひとりの子ども、他には何も残さなかった、墓石ひとつ残さなかった。死んだ女の残したものは、しおれた花とひとりの子ども、他には何も残さなかった、着もの一枚残さなかった。死んだ子どもの残したものは、ねじれた脚と乾いた涙、他には何も残さなかった、思い出ひとつ残さなかった。死んだ兵士の残したものは、こわれた銃とゆがんだ地球、他には何も残せなかった、平和ひとつ残せなかった。」

 このあともう少し続きますが、そういう歌詞の曲です。「死んだ兵士の残したものはこわれた銃とゆがんだ地球、他には何も残せなかった、平和ひとつ残せなかった。」それまでは、死んだ男も、女も、子どもも「他には何も残さなかった」と、繰り返される所を「死んだ兵士」の所になりますと、「残さなかった」ではなく、「残せなかった」と、微妙に助詞を変化させて歌うのであります。「こわれた銃とゆがんだ地球、ほかには何も残せなかった、平和ひとつ残せなかった」。兵士達自身は、祖国のためにという純真な気持ちから銃をとって、戦場に向かうわけですが、武力では結局、ゆがんだ地球を残しただけで、他には何も残せなかった、平和のためにと戦いながら、平和ひとつ残せなかった、残そうにも残せなかったというのであります。

 イエス・キリストは死んで何を残したのでしょうか。死んだ男や女のように何も残さなかったのか。それともあの死んだ兵士のように、何も残せなかったのか。イエス・キリストは、われわれに福音を宣べ伝えようとして、権力と戦い、パリサイ人、律法学者、祭司長達と戦い、そして虐げられた人々を解放するために、慰めるために、戦いながら、結局は十字架で殺されてしまうわけで、それこそイエスは何一つ残さなかったのでしょうか。いや残せなかったのでしょうか。

 人々は、そのイエスに最後まで期待をかけていたようであります。十字架の上で最後のどんでんがえしが起こるのではないか。奇跡が起こるのではないかと期待していたようなのであります。イエスが「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた時、人々はイエスが預言者エリヤを呼んでいるんだと思ったのであります。そしてエリヤが助けに来てくれるのだと期待したようなのであります。それは旧約聖書にそのように預言されているところがあるからであります。「エロイ、エロイ」が旧約聖書の預言者エリヤの名前と似ていたものですから、イエスはそのエリヤを呼んでいるのだ、エリヤがイエスを助けに来るのだと期待したのであります。しかしエリヤは助けに来ないで、イエスはもう一度「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれて息を引き取ったのであります。何も奇跡は起こらなかった。

 イエスは何も残さなかった、何も残せなかったのでしょうか。イエスの弟子達はみなもうこの時はイエスを見捨てて逃げているわけですから、あのイエスの宣教を受け継ぐ者ももう四散してしまったのであります。イエスは本当に何も残せなかったのでしょうか。何も残さなかったのでしょうか。

 われわれはこのイエスが三日後に神によって甦らされて、このイエスの十字架の死が決して敗北でなかったことを知っております。ですから、イエスは何も残せなかったのでないことはよく知っております。イエスの十字架の正しい意味は、復活の光に照らされて始めて明らかにされることは確かであります。しかし今日は受難週の聖日です。こういう見方は無理があることは承知で、今日はその復活をまだ知らない者として、まだ復活の事実を知らないものとして、イエスの十字架をみたらどうなるのか、それを考えてみたいのであります。そんな見方は出来るはずはないのですが、といいますのは、この福音書自体が既に復活を経験した弟子達によって伝えられた証言をもとに書かれた福音書だからであります。しかしそれでも今日は復活を知らないで、イエスのこの十字架の死をみた時にどうなるのかという事を考えてみたいのであります。死んだイエスはわれわれに何を残したのか。その十字架の死そのもは、われわれに何も残さなかったのか、残せなかったのかという事であります。

 一つの手がかりがあると思います。それはこの十字架のもとでこのイエスの処刑の番をしていた百卒長の告白であります。イエスが息を引き取った様子を見ていて彼は「この人はまことに神の子であった」と言ったというところであります。彼はなにを見て、イエスを「まことにこの人は神の子だった」と思ったのでしょうか。

 イエスの死にかたは一つも立派ではなかったのであります。堂々としていないのです。あのジヤン・ダルクのように火あぶりにも耐えて、神を賛美しながら死んだわけでもないのであります。この時の十字架刑は当時としたらもっとも過酷な死刑だったそうであります。十字架の上で、二日でも三日でもそのまま放置された状態のままで次第次第に身体が弱っていく、そして手足を固定するためにうちつけた釘からの出血とで、疲労と出血で息を引き取るのだそうで、槍で心臓を一息について息を止めるとか火あぶりにするとかという事ではなく、最後まで意識をはっきりさせながら、死を迎えなくてはならないという死刑のやりかたで、大変過酷な刑なのだそうであります。

 イエスはその十字架の上で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、すなわち、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて、恐らくこの事を二度叫ばれて息を引き取ったのであります。決して堂々と死んだわけではないのです。百卒長は、聖書を引用しますと「イエスに向かって立っていた百卒長は、このようにして息を引き取られたのを見て言った『まことに、この人は神の子であった』」となっております。何も劇的なことは起こらない、イエスが神の子らしく神秘的に息を引き取ったわけでもない。ただ「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大きな声で叫ばれて息を引き取った、それを見ていて、それだけを見ていて、百卒長は「まことに、この人は神の子であった」というのです。何故彼はそう言ったのでしょうか。

 マタイによる福音書は、これには困ったらしくて、こう付け加えるのであります。「イエスはもう一度、大声で叫んでついに息を引き取られた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人に現れた。百卒長、及び彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろの出来事を見て非常に恐れ『まことに、この人は神の子であった』と言った。」となっております。

 これは明らかにマタイの創作であります。イエスの十字架の出来事がわれわれの救いになったという事をイエスの復活を通して経験したマタイが、この十字架の事実を劇的にあらわそうとして、このように書かざるを得なかったということだろうと思います。実際のところ、地震が起こったとか、まして墓が開けて死人が生き返ったというような事はなかったのであります。
 マタイは、マルコ福音書が記すように、百卒長がイエスが「わが神わが神」と叫ばれて、死んでいった様子をただ見ただけで、ただそれだけで「まことに、この人は神の子であった」と言う筈はないと思って、地震やいろいろの出来事を見て、と注釈をつけたくなったのかも知れません。

 ちなみに、ルカによる福音書はどういうふうに書いているかといいますと「イエスは、声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』。こう言ってち、ついに息を引き取られた。百卒長はこの有り様を見て、神を崇め『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言った。」となっているのであります。ルカによる福音書には、「わが神わが神どうして」という、あのイエスの最後の叫びはなく、イエスは非常に落ちついていて、静かに、最後まで父なる神を信頼して息をひきとったのだとその様子を描き、それを見て百卒長は「ほんとうにこの人は正しい人であった」と言ったと書かれていて、この百卒長の告白はごく自然だとわれわれを納得させてくれます。ルカはそのようにイエスの十字架の死を解釈したのであります。

 しかし恐らく一番最初に書かれたと思われますマルコによる福音書は、何の解釈も施さずに、イエスの死の最後をそのまま記し、そしてそのようにして叫んで息を引き取られたイエスを見て「まことに、この人は神の子であった」と百卒長が言ったと記している。そしてこれがイエスの死のありのままの姿だったのではないかと思います。

 どうして百卒長はそう思ったのでしょうか。それはこういう事ではないでしょうか。イエスが「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた姿をみていて、この人がどんなに神から見捨てられることに絶望していたか、どんなに神から見捨てられる事に苦しまれていたか、それは逆に言えば、どんなにこのイエスが神と切り離されることをいやがっていたか、イエスがどんなに神を愛していたかということを、百卒長が感じとったという事ではないかと思います。子どもが親から引き裂かれることを恐ろしがるのと同じように、この人は神から引き裂かれることを恐がっておられる、それはなによりも、この人が「まことに神の子だった」という証拠ではないかと思ったのではないか、という事なのであります。これは確かに、あまりにも心理的な解釈だと言われるかも知れない。あるいは、そうかも知れません。ここは、マルコの神学的解釈を百卒長の唇に託したと言った方がいいのかも知れません。どちらでもいいのですが、どちらにせよ、あのイエスの最後の叫び、最後の祈り「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、そういう意味だ ということなのでりあます。

 イエスが十字架にかけられたのが、朝の九時に十字架に掛けられ、そして昼の十二時になると全地は暗くなって三時に及んだ。これはこの砂漠地帯の特有のシロッコという現象で、風が砂漠の砂を巻き上げて太陽を隠してしまう現象だったのだろうと言われております。ですから、別に奇跡が起こったわけではないということであります。

竹森満佐一が言っている事ですが、「イエスは十字架の上で何を考えておられたか。昼の十二時に全地が暗くなり、三時に及んだ。そして三時にイエスは大声で叫んで『わが神わが神』と言われた。そうするとイエスは昼の十二時から三時まで、この三時間の間十字架の上で、何も仰せにならなかった。三時間の沈黙があった。そしてその三時間の後で、主イエスがこの言葉を言われた、これが大事なところだ。この間イエスは何をしておられたか。この三時間の間、イエスは苦闘していたのだろう。祈りつづけておられたのだろう。そしてその結果絶叫するように、この祈りをなさったことが非常に大事なことだ」と言うのであります。

 イエスは祈り続け、考え続け、そして最後に、その祈りの結果「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てなったのか」と叫ばれたのであります。イエスがどんなに神に見捨てられることをこわがったか。苦しまれたか、悲しんだか。それはイエスがなによりも神の子だったからではないでしょうか。

 われわれは人に見捨てられことは恐いと思っています。こんなに悲しいことはないし、淋しいことはないのであります。しかし神に見捨てられることが大変なことだと、切実に思っているだろうか。確かに、人に見捨てられた時、まるで神に見捨てられたと思って悲しむかも知れませんが、しかしそれは本当は、ただ人に見捨てられたことが悲しいと思ったたげなので、その悲痛な表現として、まるで神に見捨てられたように感じたというだけなのではないか。われわれは神に見捨てられても、人に見捨てられなければいいと思っていないか。神から見捨てられる事をそれほど悲しいとは思わないのではないでしょうか。われわれが神を頼ろうとするのは、人から見捨てられないようにしてくださいと頼むために、神を信じようとしているだけなのではないでしょうか。

しかしイエスは人に見捨てられことには耐えられても、神に捨てられる事はどうしても耐えられなかったのではないか。それがあの十字架の上での、あの最後の悲痛な叫び、祈りの言葉になったのではないでしょうか。

 われわれは神に見捨てられても、人に捨てられなければ大丈夫なのでしょうか。それほど人間は頼りになるのでしょうか。何も人間を頼るなと、奨励しようというのではないのです。ただ人だけを頼っていいのかという事なのであります。われわれは人だけを頼って生きようとするから、人に捨てられないことばかりに気を取られて、人に媚びる事ばかり考えて、正しいことも曲げていく、戦々恐々と生きることになっていないか。そして人は余り頼りにならないと思うと、やはり何と言ってもお金だということになっていくのではないでしょうか。

 人だけを頼っていて、われわれは死を乗り切れるだろうか。あの死の蔭の谷を歩めるだろうか。死んだ後どこにいくのか、死後の世界に何があるのかという事は、われわれにはわからないのです。聖書も本当のところその事についてはあまり明解には書いていないのです。ただわかる事は、そこは神が支配しておられるという事であります。自分の死のことは神に委ねなさいという事であります。その神に見捨てられたとしたらどうなるのでしょうか。

 日頃、神に見捨てられることにそれほど痛みを感じていない人間が、日頃人間だけを頼り、あるいは自分だけを頼り、あるいは財産だけを頼って生きている人間が、死のまぎわに、あわてて神に見捨てられることをこわがったとしても、それは本当には、神に捨てられる事が恐いとか、神と親密な関係に立ちたいと言う事ではなく、ただ天国にいって、安楽な死後を送りたいというだけの話で、もう天国にいってしまったら、その天国に神様がいる事はかえって邪魔なので、煙たいので、神様に少し遠慮して欲しいと思いだすのではないでしょうか。

 神に見捨てられることの本当の悲しみを知っている人、それを本当に恐ろしいことだと感じられる人は、日頃から、神を深く愛している人ではないでしょうか。神と切り裂かれたら、もう自分は生きていけないと思っている人ではないでしょうか。
「アバ、父よ」、「お父さん」と幼い子どもが親しそうに神に祈っていたイエス、神をあんなに深く愛していたイエスだからこそ、今十字架の上で神に見捨てられる恐さを知って「わが神わが神、どうしてわたしを」と叫ばれたのではないでしょうか。それをみて百卒長は、ああこの人はこんなにも神を愛しておられた、「この人はまことに神の子だった」と言ったのではないか。
 死んだイエスがわれわれに残してくれたものは、この十字架の上での、この祈りの言葉ではないでしょうか。神から捨てられると言う事がどんなに恐ろしいことであるか、どんなに人間にとって大変な危機か、そのことをイエスはわれわれに身をもって教えてくれたのではないか。
 
 イエスは何故、神に見捨てられたと思ったのでしょうか。それは今イエスが人間の罪を担って、罪人のひとりになりきって、十字架についているからであります。このような人間、このような罪人は神に見捨てられる以外にないと思ったのであります。神に頼るよりは自分が頼りだ、あるいは人間に頼った方が安心だと思い、そしてその事から人間のあらゆる罪が形を変えて噴出してくる、そういう人間の罪が、神と人間を切り裂こうとしているのであります。

 イエスは今神から見捨てられる事の悲痛さを訴え、しかしそれでも最後に「わが神わが神」と、神に祈ることをやめなかった。罪を犯した人間が、この神からもう一度赦され、神から交わりの手を差し伸べて貰うためには、われわれが自分の罪を悔い改めて何か善行をしようとする事では駄目なのです。このイエスが最後に祈ったように、ただ子どものように「わが神わが神」と、心の底から神に祈ることなのであります。その祈りの言葉を死んだイエスはわれれに残してくれたのではないか。

 後にパウロはローマ人の手紙で、十字架の救いを述べてきて、最後に結論のようにしてこういうのであります。「どんなものも、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのである。」この言葉の本当の力強さがわかるのは、今イエスとともに「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と祈る人なのではないでしょうか。