「イエスはよみがえった」                十五章四二ー十六章八節


 イエスは十字架の上で、もう一度「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と声高く叫んで、ついに息を引き取られました。イエスは十字架の上で、この祈りの言葉のほかにも、他の福音書をみますと、色々な事をいっておられます。イエスが十字架の上で七つの言葉を語ったというところから、「十字架上の七つの言葉」という音楽も生まれているくらいであります。

 今われわれが学んでおりますマルコ福音書とマタイ福音書とは、この「わが神わが神」というイエスの絶望的な祈りの言葉しか記しておりませんが、ルカによる福音書には、「父よ、どうぞ彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです」とイエスを十字架にかけて、イエスをあざ笑う人々に、赦しの祈りを捧げている事を記しております。そしてルカによる福音書には、イエスは最後に「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と、言って息を引き取ったと記すのであります。
 いったい、どれがイエスが十字架の上で実際に語った言葉なのだろうか、マルコやマタイは神に見捨てられるという絶望の言葉を語り、ルカでは非常に落ちついた態度で、人間のわれわれの罪をとりなし、最後まで乱れることなく、神にご自分を委ねておられるイエスの最後を記しているのであります。どちらがイエスの本当の姿なのだろうかと、考えさせられるのであります。

 そんな事をずっと思っておりましたら、つい先日、秋谷 豊という人が書いた「クレパスに消えた女性隊員」という文をよんでおりまして、イエスの十字架の上での言葉は、どちらも本当だったのではないかと思い当たったのであります。これは、石垣りん、という詩人がいろんなかたの詩を紹介して、それに短い文章をつけるという本の中で、紹介されていた文章なのですが、石垣りんは、これを長文の詩として紹介しておりますが、形は散文であります。それは京都山岳登山隊のひとり、女性隊員白水ミツ子という人がボコダ氷河のクレパスに転落して死亡した事を書いた文であります。

 「クレパスの入り口は八十センチくらいの人間がやっとひとりくぐれるくらいの氷の割れ目だが、中に入るにしたがってさらに狭くなり、上から四メートルのところで少し屈曲して幅は五十センチくらい。そこで下の方にひかかっているザックが見えた。しかしそこからはさらに狭くなり、靴を真っ直ぐにしては入れず、アイゼンの爪が効かない。ザイルにぶらさがったままの状態で、少しずつ降ろしてもらい、ようやくザックに達する。『大丈夫かあ』と期待をこめてザックに手をかけるが、その下に白水さんはいない。声をかけると、応答はあった。が、まだはるか下の方であった。そこからは氷の壁はまた少し屈曲し、真っ暗で、さらに狭くそれ以上は下降できない。やむなくザイルの端にカラビナとヘッドランプをつけて降ろす。一○メートル(上からは二○メートル)降ろしたところで彼女に達したようだが、彼女自身どうにもザイルをつかまえることができないのか、ザイルはかすかな手ごたえを感じるが、そのまま空しく上がってくる。そういう作業を何度も『しっかりしろ』と大声で彼女によびかけながらやっている時に、『宮川さぁーん、私ここで死ぬからぁー』『宮川さぁーん、奥さんも 子供もいるからー、あぶないからぁーもういいよぉー』という声、かなり弱った声だったが、叫ぶような声だった。彼女自身でもう駄目と判断してのことだろう。まったくやりきれない気持ちだった。声がきこえてくるのに助けられない。くやしさが全身を貫く。十六時、彼女の声はまったく聞こえなくなった。カメラ助手の新谷隊員、そして当日頂上アタックした山田、大野両隊員もクレパスに降りた。しかし誰も宮川隊員が降りた位置より下に行けず、二十一時ついに救助作業を打ち切った。白水さんは二十九歳、独身だった。」

クレパスの下は全くの暗闇、その暗闇の中にひとり落下していこうとしている白水隊員の心境、そういう中で、自分を助けに来てくれる仲間に対して「もういい、私ここで死ぬから、もう危ないから、奥さんも子供いるから、あぶないから、もういいよう」と叫ぶ、その白水隊員の叫びは真実の声だったと思います。しかし自分の下に自分の死を呑み込もうとしている奈落の底を考えたら、それこそ「わが神わが神、どうして私をお見捨てになるのですか」と白水隊員は自分の心の中で叫んでいたのではないか。「もういい、私はここで死ぬから、あぶないから、もう来なくていい」という叫びはもちろん真実の言葉でりますが、しかし同時に「どうして自分はここで死ぬのか」という叫びもまたあった筈だと思います。

 イエスが、ちょうど狭いクレパスの中に落ち込んで、自分の下には自分の死を呑み込もうとしている暗闇が待ちかまえている、そうした中でイエスが絶叫して「わが神わが神、どうしてわたしを見捨てるのか」と祈ったイエスの祈りの言葉が真実であるのと同じように、その十字架の上で、「どうぞ彼らの罪をお赦しください」と祈り、「わが霊を御手に委ねます」と祈る祈りも真実だったと思うのであります。

 イエスはその十字架の上でついに息を引き取りました。ピラトが不思議に思ったほどにイエスは早く息を引き取ったようであります。それほどにイエスはその時、疲労困憊していたという事であります。十字架の横木をゴルゴダの丘まで担い切れないほどに、疲れ果てていたのであります。それはただこの時に疲労困憊していたというだけでなく、イエスのこの地上での三十年間の生活、人間の罪と闘った三十年の生活そのものがイエスを疲れ果てさせて、ピラトが不思議に思ったほどに早く息を引き取らせたということでありましょう。アリマタヤのヨセフがそのイエスの死体を引き取って丁重に墓に葬りました。そして、安息日が終わって、週の初めの日、即ち、日曜日、早朝日の出のころ女たちはイエスの死体に香料を塗ろうとして墓に急いだのであります。本当は墓に葬る時に塗る仕事だったのですが、ちょうど安息日が始まってしまっていて、それが出来なかったようなのであります。

 墓に行ってみますと、墓石はすでに転がされていた。その墓の中には、イエスの死体はなく、真っ白な長い衣を着た若者が座っていて、女達ににこう言ったのであります。「驚く事はない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。今から弟子達とペテロとの所に行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。すると、「女達はおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして人には何も言わなかった。」そしてマルコ福音書はこう記すのであります。「恐ろしかったからである。」

 これがマルコ福音書の終りの言葉であります。九節からみるとわかりますように、括弧に入っておりまして、九節以下の部分は本来のマルコ福音書にはなかった事を示しているのであります。この八節の終わり方があまりに唐突すぎるので、後の資料に基づいて、後に九節からが添加されたようなのであります。ですから、もともとはマルコ福音書は「恐ろしかったからである」という言葉で福音書は終わっているのであります。福音というのは喜ばしい訪れという意味であります。イエス・キリストはわれわれにその喜ばしい訪れ、救いの福音を語る為にこの世に来たのであります。そして十字架にかかり、そしてその十字架からよみがえったのであります。しかし、それはわれわれにとっては「恐ろしいことだった」と言って、福音書は閉じられたのであります。この事はわれわれが福音というものを考える時に大変大事な事ではないかと思います。
 
 福音は何よりも「恐ろしい事であった。」という事、イエスの復活という事実は喜ばしい事であるよりも、ものが言えないほどの恐ろしい出来事であったという事であります。
 イエスのよみがえりは、本当に恐ろしい事であった、喜ばしいという事よりも、なによりも恐ろしい事であったのであります。女達はどうしてそう感じたのでしょうか。イエスの死体がなかったからでしょうか。天使らしき若者がそこに思いがけずにいたからでしょうか。恐らく、それらすべてを通して、この事には神の御手が働いておられる、神が生きておられる、そのことを全身で女達は受けとめて震えたのではないでしょうか。

 信仰というのは、本当は非常に単純な事で、神が生きていたもうという事を信じる事、あるいは生きておられる神が存在している、この事を信じることだと思います。この事さえ信じられたら、すべては解決する、どんな問題でも解決する、この事を素朴に、単純に幼子のように信じられたら、もうわれわれは完全に救われるのであります。こんな事をいったら、おこられるかも知れませんが、この単純な事が信じられたら、われわれのプロテスタントの教会の礼拝のように、牧師のしちめんどくさい説教を聞かなくたって、カトリック教会のミサのように、聖書の朗読とただ短い紋切り型の説教と、そして儀式化された聖餐式を受けさえしたら、もうそれで充分なのではないか。長い信仰生活を送って、もう信仰のなんたるかが分かったかたは、恐らく理屈をこねた説教よりも、ただ聖書の朗読のような短い説教の方がありがたいだろうな、少なくとも、自分が牧師を引退して、どこかの教会にいこうかと捜す時は、そういう説教をする牧師の教会にいくのではないだろうか、と想像するのであります。

 信仰というのは、本当は非常に単純なことであります。神は生きておられる、この事さえ信じられたら、われわれは自分を主張しなくなるだろうし、傲慢にはならないし、他人に対してもっと思いやりがでてくるだろうし、というように、われわれの生活は救われた生活になるのであります。

 ただ、問題は、神は生きておられる、という事を自分の都合のよいように考えないで受け入れられかという事なのであります。神がお考えになっているように、神が生きておられるという事を受け入れているかどうかであります。
 イエスを殺しにかかった祭司長たちもみんな「神は生きておられる」「生きておられる神」の存在を一生懸命信じていたのであります。しかしそれは神が望んでいるようには信じなかった。結局は自分の都合のよいようにしか信じようとしていなかった。だから、自分と違うような仕方で、神を示そうとしたイエスをどうしても抹殺せざるを得なかったという事であります。

 それは祭司長たちだけではなかった。群衆も、われわれもみなそうだった。十字架にかけられたイエスに対して、人々はみなこういってイエスをののしった。 「他人を救ったが、自分を救うことができないイスラエルの王キリストよ。今奇跡を起こして十字架から降りて見よ。そうしたら信じよう」こう言ってイエスをののしったわけですが、これは民衆のキリストに対する、救い主というものに対する素朴な期待なのであります。自分を救おうとしない神、自分を救えない神では困るのであります。

 イエスはよみがえったのであります。しかしそれはこの十字架の上で、たとえば預言者エリヤが現れて、奇跡が起こって、イエスが助けられたのではない、おかしな表現かも知れませんが、つまりイエスは死なないでよみがえったのではないのです。あるいは、イエスがその十字架の上で、一時気を失って、そしてその十字架の上で息を吹き返したというような仕方で、よみがえったのではないのです。われわれが復活という事で期待している事は、そういう死なないで復活するという復活なのではないでしょうか。
 しかし、イエスの復活は、まさにそのようなわれわれの身勝手なご利益的な信仰が粉砕されて、神に徹底的に裁かれて、そのためにその人間の罪を担った神の御子が神に捨てられて、十字架で死ぬという事があって、その死んだ神の子をよみがえらせるという復活だったのであります。

 イエスは完全に死んだ。そして完全に墓に葬られた。使徒信条の告白では「死にて葬られ、陰府にくだり、」であります。そして「三日目に死人の中からよみがり」という、よみがえりかたなのであります。それはその時の群衆が期待していたような、われわれ人間が望んでいるような復活ではなかったのであります。それは女達を襲った、おののくような、口もきけないような驚きだったのであります。女達は男の弟子達に告げなさいといわれながら、その事も忘れてしまって、人には何もいわなかった、というような、恐ろしい出来事としての復活だったのであります。

 「恐ろしかったからである」という言葉で、福音書を終えるような出来事であり、福音だったのであります。
 
 神は生きておられるという事は、あの十字架で神に捨てられて、完全に死んで、葬られ、陰府にくだったイエス・キリストをその死人の中からよみがえらせた、という事で示された、神は生きておられるという事であります。神が生きておられるという事を信じるという事は、われわれが期待し、望むような形で、神が生きておられることを信じることではなく、神からその事を示していただいて、その神のお示しに従って、神が生きておられることを信じることが大切なのであります。そのためには、やはり単なる短い説教では語りつくせない、単なる魔術化された聖餐式ではだめなので、神の言葉である聖書の言葉と共に、聖餐式が行われなくてはならないので、毎週毎週、われわれの罪が明らかにされ、礼拝を通して、懺悔と神に対する感謝と神を賛美する心が与えられないと、正しく神が生きておられるという信仰は与えられないのであります。

 女達は、イエスの復活という事で、恐れおののきましたが、しかし、女達はイエスが十字架で死んでしまったという事に対して、この復活ほどに恐れおののいただろうか。悲しんだかも知れない、しかし驚いただろうか。考えて見れば、神にとっては、復活という事はたいしたことではなかったかも知れない。神にとっては、ひとり子を生き返らす事よりも、ご自分のひとり子を十字架で見捨てるという事の方がどれほど大変であったか。人間の罪を人間に分からせるためには、どうしてもイエスを見捨てなければならなかった、この事を決意し、そしてこのことを実行するために神はどんなにすべてのエネルギーを注がれたか。

 イエスが生前、自分は三日後によみがえると知っておりながら、その事をさいさい弟子達にも告げておりながら、十字架の前の夜あのゲッセマネの園であんなに思い悩み、苦しまれたのは、十字架で死ぬという事が中途半端にではなく、完全に神に捨てられるという事であり、それがどんなに大変な事かをよくわれわれに示してくれているのであります。

 われわれの代わりに御子イエス・キリストが十字架で神に捨てられたんだという
事の深刻さを知らないで、ただイエスはよみがったという事を知っても、それは復活を知った事にはならない。そのような知り方は、あの十字架の上で奇跡が起こって、イエスが死なないで生き続けたという奇跡を期待するという信じかたでしかないのであります。

 復活は、十字架で神に見捨てられた者の復活なのであります。神に捨てられるという事の重大性を知ったものが、この復活を通して、神が生きておられるという事を知るのであります。その事を自分の願望から自分勝手に想像するのではなく、神の方から、神のお示しに従って、知り、恐れおののき、その神の前にひれ伏すという出来事なのであります。それが福音という事であり、それが罪の赦しということなのであります。罪の赦しとは、神が生きておられるという事、そしてその神との交わりが回復されるという事であります。その事を神の方から正しく示されるという事であります。

 それが神の方から示されるという事は、十字架と復活によって示されるという事なのです。その十字架と復活を通して示された罪の赦しとは、どんな事があっても神はわたしを見捨てないという事が示されたという事であります。
 先週の受難週の説教の最後にも引用いたしましたが、パウロはローマ人の手紙で、罪の赦しと言う事、義とされるという事を説いてきて、その最後に結論のようにして、「どんなものもキリスト・イエスにおける神の愛から引き離すものはなにもない」といって、救われた者の喜びを語るのであります。イエス・キリストの十字架と復活を通して、神が生きておられれるという事を単純に信じたいと思います。