「復活を信じなかった人々」             十六章九ー二○節


 今日学ぼうとしております箇所は、マルコ福音書では後の資料にもとずく添加の部分に入ります。本来マルコ福音書になかったものですが、だからといってここの部分が資料的にいって価値が低いというわけではありません。事実に相違しているというわけでもありません。九節から出てまいりますマクダラのマリヤに復活のイエスが最初にその姿をあらわしたという記事は、マタイ福音書やルカによる福音書にもありますし、一二節からでてまいります、ふたりの弟子が田舎の方を歩いている時にイエスがその姿をあらわしたという記事は、ルカによる福音書にもっと詳しくでてまいります。ですから、ここの部分が聖書的に言って価値が低いという事ではありません。
 
 この九節からのイエスの復活の記事を読んでいて、非常に印象に残る所は、「信じなかった」という言葉が繰り返し出てくる事であります。

 マクダラのマリヤが、よみがえったイエスが自分に現れた事をイエスの弟子に伝えにいきますと、「彼らはイエスが生きておられる事と、彼女にご自身を現された事を聞いたが、信じなかった」と記されております。そして復活の主に出会った二人の者もほかの人々の所に行って話をしたが、「彼らはその話を信じなかった」と記されております。そして後にイエスはユダを除く十一人の弟子に現れた時、イエスは彼らの不信仰と心のかたくなな事をお責めになった。「彼らはよみがえられたイエスを見た人々のいう事を信じなかったからである。」と記されているのであります。

 イエスの復活を「信じなかった」という言葉が繰り返しでてくるのであります。
今日の説教の題は「復活を信じなかった人々」という題をつけましたが、本当は「復活を信じなかった」という題にしたかったのであります。しかし、この説教題は教会の外に看板として書いていただいて、外の人々の目にもふれますので、「復活を信じなかった」という題だと、何か変に聞こえるのではないかと思って、苦心して「復活を信じなかった人々」という題にしたのであります。何かこうした題をつけますと、復活を信じた人と信じなかった人がいるような印象を与えてしまいますので、あまりふさわしい題とはいえないと思いながら、そういう題にしたので、本当は「復活を信じなかった」という題にしたかったのであります。つまり、イエスのよみがえり、死人の復活という事は、おいそれと信じられる事ではない、みんな始めは、よみがえりの主イエスに実際にお会いするまでは、復活を信じなかったのだという事を言いたいのであります。そして、始め復活を信じなかった人々も後に、実際のよみがえりの主イエスにお会いして、信じるようになったのだという事を、「復活を信じなかった人々」という題で言いたかった事なのでありまます。

 マルコ福音書の添加の部分で、弟子達がイエスの復活を「信じなかった」と繰り返し書かれているのは、イエスのよみがえりを信じるという事は如何に困難な事かという事を示していると思います。これは「ただ聞いて信じる」というわけにはいかない。イエスのよみがりという事実は、そのよみがえりの主イエスに出会って、始めて受け入れる事ができるのであります。よみがえったイエスに出会った人の証言にもとずいて、その事をただ聞いただけでは信じるわけにはいかないという事であります。イエスの方から、よみがえりの主イエスの方から、その姿を現してくださって、われわれの不信仰と心のかたくなさを打ち砕いていただかないと、イエスのよみがえりを受け入れて、信じるというわけにはいかないという事であります。
 
 しかしそれにも拘らず、もっと大切な事は、イエスの復活を信じる事はよみがえりのイエスを自分の目で見て、自分の手で確かめて信じるという信じ方ではいけないのだという事なのであります。なぜなら、よみがえったイエスが弟子達にその姿を現して、まず弟子達に言われた事は彼らの不信仰と心のかたくなさを叱責した、叱ったからであります。なにを叱ったのか、どういう不信仰と心のかたくなさをしかったのかといいますと、それは「彼らがよみがえられたイエスを見た人々の言う事を信じなかったからである」と記すのでありす。それはつまり、イエスの復活は、よみがえりの主イエスに実際にお会いしたから、信じるという事ではだめなので、復活の主イエスに会ったという人の証言を「聞いて信じる」のでないと駄目だという事でありすます。復活を信じるという事は、「お前は見たので信じたのか、見ないで信じる者はさいわいである」(ヨハネ福音書二○章二九節)という事であります。

 「見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである」というこの言葉は、ヨハネによる福音書に記されている言葉ですが、それはよみがえりの主イエスが弟子達に現れた時に、弟子のひとりのデドモと呼ばれているトマスはどこかに出かけていていなかった。帰ってみると、仲間たちが自分達は生き返ったイエスにお会いしたという話で持ちきりだったのであります。それを聞いてトマスはそんな馬鹿げたことがあるか、「わたしはそのよみがえったといわれるイエスの手に十字架につけられた時の釘あとを見て、わたしの指をその釘あとに差し入れて、またわたしの手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言ったのであります。
するとそれから八日の後に、イエスの弟子達が家の中にいて、戸を閉ざしていたとき、よみがえりの主イエスが再び現れたのであります。この時にはトマスもいたのであります。イエスはまっすぐこのトマスをめざして現れたように、この時トマスにだけ言葉をかけるのであります。
 「お前の指をここにつけて、わたしの手をみなさい。手をのばしてわたしのわきに差し入れてみなさい。信じないものにならないで、信じるものになれ」と言われたのであります。トマスはひれ伏して「わが主よ、わが神よ」と言った。するとイエスはせっかく信じたトマスに対して「お前はわたしを見たので信じたのか。見ないで信じるものはさいわいである」と言われたのであります。

 復活を信じるという事は、本来は「見ないで信じる」という事なので、見たので信じるというのでは、ただ「見た」という事だけに寄りかかって信じるという事になるので、それでは駄目だというのです。なぜ駄目かというと、見たという事は、結局は「自分が見た」という「自分の目」を信じるという事で、なにか証拠があったら信じるという事で、信じるという事の確かさが自分の目の確かさによりかかる事になる、それでは本当に信じた事にならないではないかと、イエスは言われて、トマスを叱ったのであります。この時トマスは、このよみがえりのイエスにお会いするまでは、自分は自分自身の指を実際にイエスが十字架に掛けられた時にくぎがささったその手の釘あとに入れて、これは本当に十字架にかかったイエスだ、幻のイエスでないと自分の指で確かめてみないと信じない、といっていたのですが、実祭のよみがえりの主イエスにお会いした時には、もう自分の指を入れて、確かめようとはしないで、よみがえりの主イエスの前にひれ伏して「わが主よ、わが神よ」と告白したのでありすます。ある人がいうには、「この時トマスはもはや、自分の手も、自分の目も信じなかったのだ、そし てただ主イエスだけを信じたからだ」と言っているそうであります。

 それでは信仰は何故「見たので信じる」という事ではいけないのか。「聞いて信じる」という事でなければいけないのか。それは聞くという事は、自分の心を空にして相手の言う事を聞こうとする事だからであります。聞くという事は、自分の言い分を放棄して相手の言う事を聞く、相手を信頼して聞くという事なのであります。信仰は相手を信じるという事、相手を信頼するという事ですから、信仰は聞いて信じるという事が大切だということになるのであうります。

 しかしイエスのよみがえりは、よみがえりのイエスに出会ったという人の証言だけを聞いただけでは信じられなかった。「聞いて信じる」というだけでは、イエスのよみがえりを信じられなかった。弟子達は聞いただけでは信じられなかった。

 それはつまり聞いて信じるためには、聞いて信じられるようになるためには、われわれの心のかたくなさとわれわれの不信仰をまずイエスによって打ち砕いてもらわないと駄目だという事であります。そのわれわれの心のかたくなさと不信仰をうちくだくために、イエスはご自身の姿を弟子達に現したのであり、トマスに、「お前の指をわたしの釘あとに入れてみよ」と言われ、「信じないものにならないで、信じる者になれ」といわれたのであります。
 
 禅宗の言葉で「そったく」という言葉があります。「そつ」という字は、口偏に卒業の卒という字を書きます。「たく」は、石川啄木の「啄」です。禅の用語で、「そっ啄同時」という言葉として辞書に載っておりましたが、それは「今まさに悟りを得ようとしている弟子と、それを導く導師の教えが絶妙に呼応すること」という説明がついております。何かの本で読んだのですが、この「そっ啄」という言葉を説明して、卵からひながかえる時は、親鳥が卵の殻の外から殻をくちばしでこつこつと突っつく、そうすると卵の殻の中ではひながその親鳥が突ついている箇所を内側からこつこつと小さなくちばしで突っつく、そうして卵の殻を破って、ひなにかえるのだという事であります。もちろんこれは実際にはそんな事ではないのです。それは嘘のつくり話であります。しかしそれにしても大変美しい嘘であります。
 
 聖書の中にもヨハネの黙示録(三章二○節)には、イエス・キリストが「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と書かれております。信じるという事はそういう事ではないかと思います。

 何故イエスはわれわれの心の中をこじあけて、入ってこようとしないのでしょうか。何故イエスは辛抱強く、われわれの心の外からわれわれの心の扉を打ち叩き、われわれの方で、心を開くのを待っておられるのでしょうか。それは「聞いて信じる」という時、その「聞く」という事は、心から聞くという事でなければ聞いた事にはならないからであります。心理的なごまかしで、洗脳するような事で聞かせても、聞いた事にならないし、信じないと地獄に行くぞと脅かして聞かせようとしても聞いたことにはならないからであります。心から聞かなければ、聞いた事にはならないからであります。だからイエスは辛抱強く、われわれの方から扉をあけるのを待ってくださっているのであります。

 復活の主イエスはトマスにご自分の姿を現したのであります。それなのに主イエスは「信じないものにならないで、信じるものになれ」と言われたのであります。もうそこに復活の主イエスがおられるのですから、本当は信じるも信じないもないと思うんです、それなのに「信じるものになれ」とイエスが熱を込めてトマスに語りかけているのはおかしいと言えばおかしいのです。何故なら、信じるという事は目に見えないものを信じるのであって、目の前にあるものを信じるも信じないもないからです。しかしイエスはトマスに「信じないものにならないで、信じるものになれ」と言っているのです。これはどういう事なのでしょうか。

 たとえば、親が子どもに向かって、親を信じて欲しいという時があります。それは親の存在を信じてほしいと言う事ではもちろんないわけです。それは親の愛を信じて欲しいという事であります。

 神を信じるという事もそれと同じであります。神を信じるという事は、ただ神の存在を信じるというう事はなく、神の愛を信じるという事であります。そして神の愛を信じるという事は、神と関わりをもって生きていくという事であります。神と交わりを持って生きるという事であります。ですから、ただ復活の主イエスがトマスにその復活のからだを現して、どうだ本当に自分はよみがえったのだといっても仕方のない事で、そのよみがえったイエスとこれから信頼関係をもって交わっていくという事が大切なのであって、それが「信じないものにならないで、信じるものになれ」という事ではないかと思います。

 イエスの復活は、ただ死んだイエスがよみがえったというだけではなんにもならないのです。その事実をわれわれの方でも受け入れ、そのよみがえったかたがわれわれの罪を背負って十字架についてくださったかたのよみがえりだ、という事を信じなくてはなんにもならないのであります。つまりそのイエスのよみがえりを通して、われわれが信じなくてならない事は、イエスをよみがえらせた神がおられると言う事、その神の愛を信じるという事なのであります。そして愛を信じるためには、こちらの心がかたくなでは、愛は成立しない、こちらの心をひらかなくてはならない、こちらの思いを本当は全部捨てて相手を信頼し、相手に賭けてみなくてはならない。

 それは大変勇気のいる事であります。そのためにイエスはわれわれの心の外に立って、私の心にむかってわれわれの心の扉を叩いてくれているわけであります。親鳥が卵の殻の外からたたくようにたたいてくれている。それに応えて、こちらも殻を打ち破るために幼いくちばしで、やはりたたかなくてはならない。この呼応関係でなくてはならないのであります。

 復活と言う事は、死人のよみがえりという事ですから、これは容易に信じられことではないのです。ですから、ただ人から聞いてだけでは信じられるないのは確かです。そのためにイエスは弟子に直接そのよみがえりのからだを見せて、弟子達の心のかたくなさとその不信仰をしかってくださって、そして「信じるものになれ」といってくれたのであります。それで復活を始め信じなかった人々も、後に信じるようになったのであります。

 われわれの場合でも同じだと思います。復活という事はそんなに容易に信じられるものではないし、また安易に信じる必要もないのであります。はい、信じますといって信じられるものでもないのです。これはやはりイエスの方から、神様のほうからわれわれの不信仰と心のかたくなさを打ち破ってもらわないと駄目だと思います。もうよみがえりの主イエスは天に昇られてこの地上にはおられないのです。しかしその代わりに神は聖霊をわれわれに与えくださって、われわれの心の扉を叩いてくれているのであります。それに応えてわれわれも心を開く時が与えられるのであります。必ずそういう時が来る事を信じたいと思います。

 信仰というものは、一方的なものではないのです。一方的なものではだめなのです。つまり信仰をもつという事は誰かに洗脳される事でも、なにかわれわれが自分の主体的な意志を失って、奴隷になるような事でもないのです。それはあくまで信頼関係であります。

 河合隼雄という心の病の治療家がいっておりますが、「われわれはそういう心の病をもった人の病気をいやそうとするとき、治すという言葉は用いない、治るという事を考える。治療に当たるものが、患者に対して、『わたしがあなたを治してあげます。』なんていう態度でいる時は、その治療に失敗する。『治る』というイメージよりも『治す』というイメージの方が強すぎるというのです。患者本人が自分の中にある自然治癒力をうまく発揮させて、治るように導くのだ。そのためには側にその患者を見守ってあげる人が必要なのだ。その本人が治っていく場を提供してあげる人が必要なのであり、それが医者の役割なのだ」という意味のことを言っているのであります。

 神様もわれわれを一方的に治そうとしたり、洗脳してしまおうというのではなく、われわれがわれわれの方から心を開くのをじっと待ってくださって、われわれが信じるようにと呼びかけてくださっているのであります。