「福音を宣べ伝えよ」           十六章一四ー二○節


 よみがえりのイエスは、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子に対して「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命ぜられたのであります。そのすぐ前にはイエスはその十一人の弟子達の不信仰を叱ったばかりなのであります。その弟子達に福音を宣べ伝えるという重要な任務を与えられのであります。これは不思議と言えば、不思議でありますが、しかしこの事は、福音を宣べ伝えるという事から言えば、大変大切な事ではないかと思います。福音というのは、何の欠点もない、信仰的に完全な人間によって宣べ伝えられものではないという事であります。自分の中に不信仰と心のかたくなさをもっていて、その不信仰と心のかたくなさをいつもイエスによって叱ってもらう用意をしている人間、そのようにいつもイエスに向かって、神に向かって心を開いている人間によって、福音が宣べ伝えられていく、伝えられていかなくてはならないという事であります。

 信仰的に完全な人とはどういう人のことなのでしょうか。信仰の完全とはどういう事でしょうか。何か修道院にでも入って修養を積む事なのでしょうか。そういう事ではないと思います。信仰が完全になるという事は、自分の弱さを完全に知る事であり、自分の不信仰を完全に知る事であり、その不信仰を克服するただ一つの道は、イエスによって叱って貰い、神によって、自分の心のかたくなさを打ち砕いて貰う以外に救われる道はない事を知るようになるという事であります。

 パウロという伝道者は大変優れた伝道者でした。彼は大変特別な啓示を受けたようなのであります。その事をある時パウロは誇った時もあったようなのであります。しかしその時、重い病気になった。その病は伝道者として致命的な病気のようだった。少なくともパウロ自身にはそう思われたのであります。そのために、パウロは必死に主イエスに祈ったのであります。しかしその祈りは一向に聞かれなかった。そして何度も何度も祈っているうちに、主イエスからこういう言葉が与えられた。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全に現れる」(コリント人への第二の手紙一二章九節)という事だったのであります。「お前は病気のままでいいんだ。そういう弱いお前にわたしの恵みは完全に現れるのだから」と言われたというのであります。

 神の恵みが完全にあらわされる所とは、われわれが修養を積んで、もうなにものにもたじろがないという所ではないというのです。そうではなくて、自分は弱い、こんなんでは駄目だと嘆いている所、そしてそのために必死に神に祈り、主イエスに助けてくださいと祈っている人間に、神の恵みは完全に現れるのだというのであります。われわれが自分の弱さを本当に自覚して、神に祈り求める所にわれわれの信仰の完全さはあると言う事であります。その時からパウロは「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう」と言い、「わたしは弱い時にこそ、わたしは強いからである」と言ったのであります。
 
 イエスは、そういう自分の不信仰をよく知っている人間に福音を宣べ伝える任務を与えられたのであります。ですから福音を宣べ伝える者は、自分はもう信仰的に完全になったから、もう卒業試験に合格したから、伝道者になったと思うのではなく、自分の弱さをかかえながら、自分の不信仰と絶えず闘いながら、福音を宣べ伝える事が大事なのであります。
 
 パウロも「自分はなんとかして人を救おうとししている。福音のために、わたしはどんな事でもする。」と言ったあと、「わたしも共に福音にあずかるためなのである」(コリント人への第一の手紙九章二二節)というのであります。「わたしも共に福音にあずかるためだ」というのですから、福音を宣べ伝えているパウロ自身、自分はもう完全に福音にあずかってるという自信などというものは一つもなく、彼自身必死に福音にあずかろうとして、福音を宣べ伝えているのだというのであります。そしてそのあと、パウロは「自分は自分のからだを打ち叩いて服従させるのだ。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」というのであります。福音を宣べ伝える者は、なにかもう信仰のことがなにもかもわかった完成者ではないのであります。絶えず自分の不信仰と心のかたくなさを主イエスから神様から叱られる人間によって、福音は宣べ伝えられなければならないのであります。それが福音の性格にふさわしい宣べ伝えられかたというものであります。

 イエスはその弟子達に「全世界に出て行って、すべて造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました。「すべて造られもの」という表現に注目したいと思います。「すべて造られたもの」というのは、具体的には人間という事でしょうが、しかしやはりこの言い方は、ただ人間に、というだけでなく、神によって造られたものすべて、という意味も込められているのではないかと思います。
 これもパウロの言葉ですが、こういう言葉があります。「被造物は実に切なる思いで、神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」(ローマ人への手紙八章一九ー二二節)
 
 ここでいう「被造物」は、人間だけのことではなく、人間を含めたすべての造られたものという意味であります。人間によって被造物がどんなに苦しめられているかという事であります。それはまさに今日の環境破壊の事をいっているようなのであります。人間の思い上がりで、人間中心という考えが自然をどんどん破壊してきた、それはまさに今被造物全体がうめいているというのであります。

 その「すべて造られたもの」に福音を宣べ伝えよというのであります。人間には言葉が通じますが、人間以外の造られたものには、どうやって福音を宣べ伝えたらいいのでしょうか。それはもう言葉ではなく、人間中心という考えかた、人間さえ便利になればいいという考えを改めるという事であります。人間は神によって造られたすべてのものに責任があるという事であります。「すべて造られたものに福音を宣べ伝え」なくてはならないのであります。
 
 次にイエスは「信じてバプテスマを受ける者は救われる」といいます。ある人がここを説明して、「信じてバプテスマを受けるものが救われるのであって、バプテスマを信じて救われるのではない」と言っております。

 われわれの不信仰と心のかたくなさを叱責してくださる、そういう主イエス・キリストの存在、そういう神の存在を信じて、バプテスマを受けるのであります。バプテスマとは、洗礼の事ですが、洗礼を受けたから、なにか自動的に救われるわけではないのであります。洗礼というものをそんなふうに魔術的に考えては危険であります。バプテスマを信じるのではなく、神の恵みを信じる、不信仰なものをいつも叱ってくださる神の恵みを信じるものが救われるのであります。

 しかし、ただ信じていればいいのか。信仰は心の問題だから、自分の心の中に信じていればいいではないかと思うかも知れません。しかしここでは、信じてバプテスマを受けるものは、というのです。パウロは「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」というのであります。口で告白するという事は、わたしの信仰が公になるという事であり、客観化されるという事であります。そのしるしとしてバプテスマというものがあるのであります。

 われわれの信仰の確かさが、ただ自分の心の確信とか、自分の決心の強さにあるのではなく、自分の外から与えられるしるし、バプテスマにあるのだという事はなんと有り難いことではないでしょうか。

 「しかし不信仰の者は罪に定められる」といいます。われわれはこの言葉を他人に対する言葉として読んでいいのでしょうか。
 ある時エルサレム神殿に遠い所から巡礼に来た人々がピラトによって酷い目にあった、何かの理由で殺されて、その血が彼らが携えて来た犠牲の動物の血と一緒にされて神殿に捧げられた。それを見て、人々は彼らがそんな災難にあったのは、きっと彼らがなにか罪を犯していたからだと噂をしあったというのであります。それを聞いてイエスは「それらのガリラヤ人がそのように災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」と言われたのであります。(ルカによる福音書一三章一ー五節)

 人が罪に定められるという事、人が裁かれるという問題は、どういう人が裁かれどういう人が罪に定められるかという問題としてではなく、自分がどういう状態になったら裁かれるかという、自分の問題として考えなくてならない、とイエスは言われているのであります。自分が不信仰になったら、罪に定められる、そのようにここを読みたいし、読まなくてはならないと思います。それならば、罪に定められないためにわれわれは何をしたらいいか、それは大変簡単な事なのであります。イエス・キリストをただ信じればいいのであります。自分の不信仰をイエス・キリストに叱ってもらうためにイエス・キリストに心を開けばいいのであります。

 パウロが、ローマ人の手紙の中で、色々と救いについて述べて来て、その結論のようにして言った言葉は、「こういうわけで、今やイエス・キリストにある者は罪に定められることがない」と言ったのであります。何か悔い改めて善行を積んで、あるいは修道院に入って、精進して一切の欲望を抑圧して、聖人になれたら救われるというのではないのです。ただ単純に「イエス・キリストにあるものは罪に定められることはない」という事であります。これは単純な事であります。しかしわれわれがこの単純な事にどれだけ徹底できるかという事であります。これにわれわれは何かを付け加えたくなるのであります。その時に、われわれの不信仰が始まるのであります。もうその時には、われわれはイエス・キリストのあの十字架において示された神の圧倒的な一方的な恵みを信じ切っていないからであります。

 そのイエスは「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」というのであります。渡辺信夫がその罪人とはどういう人の事かと説明して、「罪人とは、キリスト以外の人から受け入れてもらえない人のことだ」といっております。われわれもまたそうではないでしょうか。世間の人がどう自分のことを評価しようが、自分一人になって考えみれば、「自分は本当にキリスト以外の人から受け入れもらえない」という事を実感するのではないでしょうか。そうしてわれわれはイエス・キリストの招きに励まされて、イエス・キリストの所にいくのではないでしょうか。

 そして最後に考えなくてならない事は、実はあまり考えたくない事なのですが、「信じる者には、このようなしるしが伴う」という所であります。どのようなしるしかといいますと、「イエスの名によって悪霊を追い出すことができ、へびをつかむことができ、毒を飲んでも決して害を受けないし、病人に手をおけばいやされる」というしるしであります。

 今日では、悪霊に憑かれているような人がいたら、精神科の医者の所にわたしは連れていくでしょうし、へびをつかんでみても始まらないと思うし、毒を飲んでも害を受けないという信仰があれば、まずそれはまやかしだと疑うだろうし、そしてそれが事実本当の事であったとしてもそれ自体なんの意味があるかと思うし、病人がいれば、ためらわずに医者の所につれていくだろうと思います。手を置いて病人をいやすという牧師が時々いますが、そして実際にそういう事がある事をなにも必死になって否定する必要もないと思いますが、わたしはまずそういう牧師は牧師として信用しないだろうな、と思ってしまうのであります。そいうわたしがここの箇所をどう読むかという事であります。

 確かに使徒行伝をみますと、イエスの弟子達は奇跡を行っているようであります。あのキリスト教の誕生の熱気にあふれた時期というものは、そういうしるしが伴ってキリスト教が広がっていた事実は確かだろうと思います。そういうしるしがなかったらキリスト教はあんなに急速に広がらなかったろうなと思います。ある人が言うには、聖書をみると、奇跡が集中しているのは、あの出エジプトの時代とイエスの時代だ、というのです。その時期は、やはり特別の時代だったのだ、というのであります。これは科学的に、あるいは論理的にすべての人を説得できる説明ではないかも知れませんが、しかし神がこの歴史を支配しているという事から言えば、この歴史はいつも同じという平板な歴史ではなく、そういう特別な時、特別な時代というのがあったと考えてもいいのではないかと思います。

 しるしの問題は、実はイエス・キリスト自身が非常に警戒した問題で、しるしを求める時代は不信仰の時代だと断定しているわけで、われわれはイエスが言われたように、しるしはヨナのしるし以外、すなわちイエスの復活のしるし以外には与えられないという事を記憶しておきたいと思います。ただ一つ、信じる者には「新しい言葉を語り」というところを肝に銘じて置きたいと思います。

 そしてイエスはのこように彼らに語り終わって天にあげられて、今神の右に座しておられるのであります。
 これでマルコ福音書の説教を終わりたいと思います。