「イエスのあわれみ」         一章四0ー四五節

 人間の不幸とか悲しみとか、悲惨は様々なことが原因で引き起こされると思いますが、聖書ではそれを三つに分けて示しているのではないかと思われます。その二つについては既に学びました。一つは霊に憑かれたことから引き起こされる苦しみ悲惨であります。もう一つは自分自身の罪によって引き起こされる悲惨であります。
そしてもう一つは、人は他人の罪によってつき落とされる悲惨であります。

 今日学ぼうとしております、らい病のいやしなどはその例であります。聖書にでてまいります「らい病」は、今日でいう「らい」だけでなく、皮膚病も含んでいたようですが、ともかくそのようにらい病にかかった人は、汚れた人とみなされて社会から隔離されていたようであります。レビ記には「患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口髭をおおって『汚れた者、汚れた者』とよばわなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まわなければならない。すなわち、その住まいは宿営の外でなければならない」と規定されているのであります。

 「汚れた者、汚れた者」と呼ばわるのは、他人がそういってはやしたてるのではなく、自分が自分の事を「自分は汚れた人間だ、汚れた人間だ」と呼ばわりながら通りを歩かなくてはならないというのであります。イエスの時代には、らい病患者は白い着物を着て、通りを歩く時には、鈴をならし、これかららい病患者が通るから、気をつけろと、自分自身で呼ばわりながら歩いていたそうであります。
 汚れた者とは、ただ衛生的に汚れた者という意味ではなく、宗教的に汚れた者とされたのであります。ですから、その病が治った時には、ただ治ればいいというのではなく、祭司の所に行って、「けん祭」のささげものをして、つまり罪のあがないのささげものをして、これで宗教的にきれいなりました、罪ゆるされましたと、祭司に証明してもらう必要があったのであります。

 らいとか、重い皮膚病にかかった人は、衛生的に汚れているというだけでなく、宗教的に汚れた人間とされたというのであります。それはなぜかといえば、らいとか重い皮膚病の場合には、人に不快感を与えたからだろうと思われます。そしてそれ以上に、そういう人に触れると、その病が伝染すると思われたからではないか。そのためには、そのような病気にかかった人を自分達の社会から隔離したい、自分達の目に触れる所から遠ざけたいのであります。しかしそのような事はやはりなんといっても後ろめたいわけです。そういう人たちはかわいそうな人であることは確かだからであります。そんな人を追い出してしまったら、自分たちの良心がゆるせないわけであります。自分の良心の呵責に悩まされないで、その人々を隔離するにはどうしたらよいか。

 それで考え出されたのが、宗教的汚れという事であります。その人たちはただ病気なのではないのだ、宗教的に汚れた人間なのだ、だからあんな悲惨な目にあったのだ、神の罰を受けたのだ、と考えた。それならば、われわれがあの人たちを隔離し、差別してもいっこうにかまわないではないか、そういう心理がいつのまにか働いて、自分たちにとってそういう都合のよい口実を考え出して、やがてその病気の人々をそのようにして村八分にしていったのではないかと思われるのであります。
 
そしてその病に陥った人自身も、そのように考えるようになってしまった。自分は祖先の罪の結果、その罰を受けてこういう病気になったのだと思うようになったのであります。

 レビ記は、神の清さをわれわれにに訴える書物であります。「わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なるものである。地に這う者によって、あなたがたの身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」というのが、レビ記の中心テーマであります。

 そしてその清さをきわだたすためには、その反対に汚れた物を指定して、それに触れない事によって、清さをあらわそうとしたのであります。つまり何かと比較する事によって、清さを強調しようとするわけであります。たとえば、われわれは自分の頭のよさを味わうためには、ただ自分が試験でいい点をとったというだけではあまり自分の頭のよさを味わえない、そういう時に、彼はあんな点しかとれなかったけれど自分はこれだけの点をとれたと、他人と比較して自分の頭のよさを味わおうとするわけであります。

 汚れたものから自分を離す、汚れたものに触れないという事を通して、自分の清さを維持しようとするわけであります。

 レビ記が、あんなに煩雑に、清い食物と汚れた食物とを分けて、汚れたものは食べてはいけないと規定したのは、この世には清いものと汚れたものがあるのだという事を強調し、そして汚れたものから自分を離し、ただ清いものだけを求めなさいと教えようとしたのであります。

 それが食べ物にだけ言われている間はよかったかも知れません。それはやがて人間にまで及んでいった。人間の間にも、清い人間と汚れた人間がいるのだという事にまでなったのであります。選民イスラエルの民は清い民だ、何故なら自分達は「割礼」を受けているからだ、異邦人は汚れた人間だ、何故なら彼らは「無割礼」だからだといって、人種を差別していったのであります。そして人種だけでなく、人間を差別していくのであります。

 宗教や信仰はいつも清さを追い求め、いつも正しさを追求するものであります。そしてそれがいつも人を裁き、人を差別し、そして自分を誇り、自分を絶対化する事に働くのであります。

 イエス・キリストが一番問題にしたのは、取税人の悪徳商法ではなく、パリサイ人律法学者たちの宗教的な誇りであります。自分達は「見える」と言い張り、「この取税人のような罪人でない事を感謝します」といって信仰深い祈りを捧げるのがな好きなパリサイ人の罪を問題にしたのであります。そういう意味ではイエスが一番問題にしたのは、宗教的な罪、宗教者の陥る罪であります。そしてイエスはならず者によって十字架につけられたのではなく、立派な宗教家たち祭司長、律法学者たちによって十字架につけられたのであります。

 一人のらい病人がイエスの所に来たのであります。人々の罪の犠牲者であるらい病人がイエスの所に来たのであります。「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言ったのです。ずいぶんもってまわった言い方ではないでしょうか。目の見えない人がイエスのところに来た時には、「イエスよ、わたしたちをあわれんでください」と卒直に、訴えております。 らい病人は、ある意味では、卑屈になっているのであります。自分は「神のみこころからはずされている人間かも知れない」と考えいたようなのであります。

 「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」というらい病人をみて、イエスは深く憐れみ、手を伸ばして彼にさわり「そうしてあげよう、きよくなれ」といわれたのであります。らい病人に手を差し伸べ、その手に触れたのであります。あのレビ記で禁じられている事をイエスは破って、汚れた者に触れたのであります。イエスは律法を破ったのであります。
 
 後にペテロは夢ごこちになっていた時に、幻をみた。天が開けて、大きな布のようなものが四隅をつるされて、地上に降りて来た。その中には地上の四つ足や這う者、また空の鳥など各種の生き物が入っていた。そして天から声があった。「ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい」と聞こえて来た。ペテロは驚いて「主よ、それはできません。わたしは今まで清くないもの、汚れたものは、なに一つ食べたことがありません」といいます。すると天からの声は「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない」と、ペテロにいったのであります。この事でペテロは啓示を受けて、異邦人を差別しないで、異邦人にも福音を宣べ伝え始めたのであります。その天からの声が主イエスの声だとははっきりとは書いておりませんが、ペテロの「主よ」という呼びかけた態度からすると、やはり主イエスの声だったに違いないと思います。

 イエスは「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」と断言し、あのレビ記の清い者と清くないもの、即ち、汚れた者との差別をあらわす律法を破棄したのであります。

 「神は聖なるものであるから、あなたがたも聖なる者になれ」という律法は大切であります。われわれが聖なるものにおそれおののき、清いものにあこがれ、美しいものに感動することは大切なことであります。しかしもしその事が、いつのまにか自分が清いものになったのだとか、そして清くないものをしりぞけ、汚れたものを差別する方向に働くならば、神がわれわれに求めておられる清さとは全く違うものになっていくのであります。いわゆる潔癖症になった人がどんなに悲惨であるか。その人はただ他人を汚いといって差別し、しりぞけるだけでなく、自分自身が汚いといって、自分自身を憎み退けようとするわけですから、自分の中に自己分裂を引き起こし、自分で自分を受け入れられないわけで、神経症におちいっていくのであります。

 ある人が言っているように、人間はしばしば神よりも完全主義者になりたがるのであります。
 
 神の清さはそういう清さなのでしょうか。神の清さは人間の汚れを退けるのではなく、われわれ人間の汚れを受け入れ、洗って、清めてくださる清さなのではないでしょうか。

 イエス・キリストは十字架につく前に、弟子達のひとりひとりの足をお洗いになったのではないでしょうか。われわれの一番汚れている足を洗う事によって、われわれとかかわりをもとうとしたのではなかったでしょうか。

 神の義が、神の正義が、決して人を裁き粉砕する正義ではなく、神の義は人の罪を赦す義であり、神の義は神の愛であることをイエス・キリストはお示しになったのであります。
 それと同じように、神の清さは、われわれの汚れを退ける清さではなく、われわれの汚れた足を洗ってくださる清さなのであります。
 ペテロがイエスの中に神の聖さを見いだした時、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と思わず叫んだのであります。その時、イエスはそのペテロを決して退けずに「恐れることはない。今から後、お前は人間を取る漁師になるのだ」と言われたのであります。

 聖なるものにおそれおののき、清いものにあこがれる事は大切なことであります。そしてそれは、「聖なるかたはただひとり神だけなのである」と、その聖なるかたの前にひれ伏すという事、それだけでいいのではないでしょうか。そしていつも「主よ、離れてください、わたしは罪深いものです」と自分のことを告白し続ける事が大切なのではないでしょうか。自分が何か清い人間になったとか、聖なるものになったとか、そこに一歩近づきたいとか思う必要はないのではないでしょうか。
 
 聖なるものにいつもあこがれる、そして聖なるものにひれ伏す、それがわれわれが清くなるということなのであって、自分自身が聖なるものになったとか、汚れたものと自分を切り離し、汚れた者を差別して、ひとりいい気になって、自分は清い人間になったなどと思い始めると、大変滑稽なグロテスクな聖人になるだけであります。
 
イエスは「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われて、そのらい病をいやしたのであげます。そしてその後「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」といったのであります。イエスは先には、あのレビ記の律法を破って、らい患者の身体に触れたのであります。あの「人を清い人間と汚れた人間と差別する律法」を破棄したのであります。

 そういう意味では、イエスは律法破壊者なのであります。しかし今度は、律法に沿って、祭司の所に行って、病気がいやされた事を証明してもらいなさいというのです。もしイエスがいきなり社会を改革しようとする革命家であったならば、あんな律法は直ちに、破棄せよ、そんな祭司の証明など必要ないといってもよさそうであります。しかしイエスはそうなさらなかった。そんなことをしたら、今目の前に苦しんでいるこのらい病人を救うことにはならないからであります。イエスは社会の革命家になろうとしたのではなく、一人一人の苦しんでいる人を救おうとなさったのであります。そのようにして、社会を改革しようとしたのであります。
 
「ヘブル人への手紙」をみますと、はっきりとこのレビ記の祭儀律法がイエス・キリストの十字架によつて廃棄されたことが述べられる事になるわけであります。

 イエスは悪霊に憑かれた人に対しては、権威をもって「汚れた霊よ、出ていけ」と霊に憑かれた人をいやし、病人にたいしては、みずから身を低くして、多くの患いをご自分が背負っていやし、このらい病患者に対しては自ら律法を破って、直接汚れた体に触れて、その病をいやしたのであります。イエスがどんなに一人一人の病の性格を見抜き、それにふさわしいいやしかたをなさったかという事であります。
 
 それにしても、このらい病患者のいやしの奇跡の記事を読むときに、いつも不思議に思う事は、今日多くのらいの人がこの記事を通して、慰められ励まされ、救われているという事実であります。その人たちはイエスを信じたら、この聖書の記事と同じように、自分たちも「らい」という病が奇跡的に治るなどと考えたり、期待したりしてはいないはずであります。それなのにこの記事を読んで慰められ励まされ、救われているのである。その人たちがどんなに深く聖書を読んでいるかという事であります。