「あなたの罪はゆるされた」        二章一ー一二節

 イエス・キリストがある家で話をしている時、この家はシモン・ペテロの家だったのではないかとも言われておりますが、ひとりの中風の者が天井からつりおろされて、イエスの前に運びこまれたのであります。するとイエスは彼らの信仰を見て、「あなたの罪はゆるされた」といわれたのです。

 中風という病をいやそうとしないで、「あなたの罪はゆるされた」といわれたのであります。そうしますとそれを見ていた幾人かの律法学者が心の中で論じた。「この人はなぜあんな事をいうのか。それは神を汚すことだ。神ひとりのほかにだれが罪をゆるすことができるか」と論じたというのです。

 イエスは病気をいやそうとしないで、ただ「あなたの罪はゆるされた」と宣言した、それは一体何なのか。「あなたの罪はゆるされた」などと言う事は見た目には何もわからないのです。もしわかったとしても、そんな事よりも中風という病のいやしの方が先決ではないか、もっと大切ではないか、もっとわれわれ人間にとって必要ではないか、われわれはみなそう思うのではないでしょうか。

 そういうわれわれの思いが、「中風のものに『あなたの罪はゆるされた』というのと、『起きよ、床を取り上げて歩け』というのと、どちらがたやすいのか」というイエスの問いかけを引き出しているのであります。

 「たやすさ」という事から言えば、律法学者はさすがに「罪のゆるし」の宣言の方が難しいとは思っているのであります。何故なら、それは神おひとりのほかにできない事を知っているからであります。しかし別の意味では、「罪のゆるし」はただ口で宣言すればいい、その具体的なあらわれはなくてもいいという事から言えば、病のいやしよりも、よほどたやすいと律法学者も考えていたのだろうと思います。ですから、律法学者も、そしてまわりにいる人々もみな二重の意味でイエスに不満をもったのだろうと思います。それは神だけができる「罪のゆるし」の宣言をイエスが不遜にもしたという事、しかも病そのものをいやそうとしないで、口先で「あなたの罪はゆるされた」と言ってお茶を濁しているという事であります。
 
 ここにいた人々はみな病のいやしをイエスに期待していたのであります。何故ならそれまでイエスはことごとく病をいやしておられるからであります。しかしこの時イエスは病をいやそうとはしなかった。少なくとも始めは病をいやそうとしないで「あなたの罪はゆるされた」と宣言しただけだった。イエスはこれで充分だと思った。これでこの病人を救ってあげたとお考えになった。しかし人々はそうは思わなかったのであります。

 ここでイエスが言われた「あなたの罪は赦された」とは、なにを意味しているのでしょうか。この中風の者が今まで罪をいろいろ犯して来て、その事で悩み、それがストレスになってこのような病気になったから、まずその病気の原因を取り除くために、今日でいう心理療法として、あるいは精神分析として「罪のゆるし」を宣言したのでしょうか。もしそうだとしますと、イエスの意図も目的もやはり病気のいやしであったと言う事になるのであります。

 しかしイエスは後で、「わたしが地上で罪をゆるす権威をもっている事があなたがたにわかるために」といって、中風のものの病をいやしているのであります。ですからイエスにとっては病のいやしは、罪の赦しを目に見えるようにわかってもらうためにするのであって、あくまで目的は罪のゆるしにあると言われたのであります。

 そしてこの記事は一章の二一節から始まる、汚れた霊につかれた人のいやし、病人のいやし、そしてらい病人のいやしの、一連の病気のいやしの記事、奇跡の記事の締めくくりの記事として、ここにおかれているのであります。そしてこの記事の後すぐ、取税人を召して、「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、イエスは宣言します。そして、その後の記事では、「イエスは自分が来た事によって新しい時代が来たのだ、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなくてはならない」と言われるのであります。

 つまり、あの一連の病のいやしという奇跡は、本当はイエスが神の子としてこの地上で罪を赦すために来た事を表すための奇跡であり、病のいやしであったのだという事であります。

 イエスが「あなたの罪はゆるされた」と言われたのは、どういう意味なのでしょうか。これは新共同訳では「あなたの罪はゆるされる」と現在形が使われております。ここでいう罪は、この人が何か今まで悪い事をしていた事をイエスが見抜かれて、その罪について言われたことではないのです。シモンのしゅうとめの病のいやしの時にも既に学びましたが、聖書では病と罪とは、深いかかわりがあるものとして見ています。何か罪を犯して、その罰として病がある、そういう考えが聖書にないわけではありませんが、むしろイエスはそういう考えに対しては、否定しているのであります。そんな風に考えてはならないとイエスは言われたのであります。病気でない人、健康そうにぬくぬくと肥っている人には罪はないのかと言えば、そんな事でないのは、イエスでなくても誰でもよく知っている事であります。

 病気の原因は様々であります。犯した罪に対する良心の呵責から精神的におかしくなる人もいるでしょうし、暴飲暴食という不摂生から病気になる事もあるでしょうし、そういう意味では、本人の罪が、わがままが、その人を病気にしたと言えるかも知れませんが、しかし親の遺伝で病気になる事もある事から言えば、それはもう本人の責任ではないわけですから、罪の結果病気になったなどとは到底いえないわけであります。

 病気になると、われわれは不安になる、思い煩う、望みを失う、もうこの世に神も仏もないのじゃないかと自暴自棄になるのではないでしょうか。そうしてはひねくれたり、ゆがんだりするのであります。そして周りの人を恨み、ただ自分の事しか考えられなくなっていくのであります。ですから、病気の原因が罪だというのではなく、病気になるとみな罪人になるという事であります。望みを失うという意味で、神を信じられなくという意味で、そして人を信じられなくなるという意味で、罪人になるという事であります。

 キェルケゴールという人が「死にいたる病」という本を書きましたが、その死にいたる病とは、望みを失うという事、希望をもてなくなること、それが死にいたる病気なのだというのであります。

 病になるとは、大なり小なりみな望みを失いかけるのではないでしょうか。そして病気の一番の問題は、痛みという点を除けば、希望を失う、この病気は死につながるのではないか、もう自分は生きていけないのではないかと望みを失うということではないか。そういう意味では肉体の病気は、大なり小なりみな死に至る病だと言えるかも知れないのであります。

 それに対してイエスは「あなたの罪はゆるされている。神は決してお前を見捨ててはいない」とさとしたのではないか。マタイによる福音書では「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言ったとなっております。新共同訳では「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」となっております。この「しっかりしなさい、元気を出しなさい」という言葉の宗教的な表現が、「あなたの罪は赦される」ということなのであります。

 「あなたの罪はゆるされたのだ」という事と「起きよ、床を取り上げて歩け」という事と、どちらがたやすい事だと、われわれは考えているでしょうか。あるいは、どちらが大事だと考えているでしょうか。どちらが必要な事だと考えているでしょうか。もし病のいやしという事だけをイエスに追い求め、神に願うならば、そういう奇跡だけを願うならば、われわれは「奇跡」だけが欲しい人間になってしまって、奇跡を起こしてくださる「神様」は実はどうでもいい事になってしまうのではないでしょうか。

 そうは言っても、われわれが病気になった時は、やはりなんと言っても一番神に望む事、祈り願う事は、この病気をいやしてくださいという事なのであります。もう後の事はどうでもよくなってしまうのであります。それこそ「罪のゆるし」などはどうでもよくなってしまうのであります。

 イエスもそのわれわれの弱さをよく知っておられるのであります。それでイエスは「人の子は地上で罪を赦す権威をもっていることが、あなたがにわかるために」と言われて、中風の者に「起きよ、床をとりあげて家に帰れ」と言われたのであります。その中風という病をいやしたのであります。

 ですから、われわれの病気をいやして欲しいという願い、そういう祈りをしてはいけないと、イエスは言わないし、そういう祈りをするわれわれをイエスは決して軽蔑したりはなさらないのであります。われわれが病になるという事は、この病気が治らない限り、もう自分の人生はないと考えてしまうという事であり、そういう人間の愚かさもひっくるめて、イエスはその人間を救おうとなさるのですから、イエスは具体的に病気そのものをもいやすという奇跡を起こして、その人間を救ってくださるのであります。

 パウロも病気になった時、必死にこの病をいやしてくださいと祈り続けたというのです。しかしその結果、神から与えられた答は「わたしの恵みはお前に充分注がれている。病気であるそのままのお前に注がれている。わたしの力は弱い所に現れるからだ」と言われたのであります。それを聞いて、パウロは恐らく生涯その病を背負いながら、「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と言ったのであります。「なぜなら、わたしは弱い時にこそ、わたしは強いからだ」というのであります。病気は治らないまま、しかしいっそう神の恵みを信じて生涯を力強く生きたのであります。(コリント人への第二の手紙一二章七ー)

 讃美歌の三九九番はこういう歌詞が繰り返し歌われます。
「なやむものよ、とく立ちて、恵みの座にきたれや。天のちからにいやしえぬかなしみは地にあらじ」という歌詞ですが、その後半の「天のちからにいやしえぬかなしみは地にあらじ」という部分は、繰り返し歌うようになっているのです。「天の力にいやしえぬ」とありますから、「天のちからにいやしえぬ病はない」とか、あるいは「天のちからにいやしえぬ痛みはない」と来てもよさそうなのに、ここでは「天のちからにいやしえぬ悲しみは地にあらじ」と歌うのであります。まことに深い歌詞だと思います。神がいまし給う限り、どんなに苦しい病でも、どんな痛みの中でも、その病がたとえ治らなくても、悲しみに圧倒されてしまうという事はないのだ、というのであります。

 この中風のいやしの記事を通して、不思議に思う事は、ここには中風のものの心の動きは一つも記されていないと言う事であります。中風のものを運んで来た四人の人の信仰について、イエスはその信仰を見てと、記されておりますが、その病人その人の信仰の事は何も書かれていない。律法学者の心の中のつぶやきや議論にはふれていますが、イエスから病気そのものをいやされないで「あなたの罪はゆるされた」といわれたその病人が、それを聞いてどう思ったかも書かれていない。そして中風の者がいやされて、立ち上がって、床をとりあげて、みんなの前を出ていった時、周りの人々が驚き「こんな事はまだ一度も見たことがない」と言ったという事は書かれていますが、いやされた本人の気持ちの事は一つもふれていないのであります。

 すべて彼をとりまくまわりの人の気持ちの動きだけが描かれているのであります。右往左往しているのは、周りの人で、病人自身はイエスから声をかけられ、イエスから「あなたの罪はゆるされた」と聞いて、もうそれだけで深い慰めを与えられていたのではないでしょうか。

 病が重く、もう死に向かう人を前にして、案外騒ぎ立てているのは、病人その人ではなく、周りの人が色々延命の治療してもらおうと必死になっているという事があるのではないか、案外本人はもう覚悟ができていて、神にすっかり頼りきって、平安なのではないでしょうか。本人は一番信仰的で、まわりの人々、家族の人たちが一番世俗的にしか考えていないのかもしれないのであります。