「罪の増すところに恵みも増す」 ローマ書五章一二ー二一節  
                            詩編130編

 五章の二○節からの所はなかなか理解しにくいことが言われております。一つは「律法が入り込んで来たのは罪が増し加わるためでありました」ということです。

 律法というのは、神の戒めといってもいいと思いますが、律法はもともとは神が人間に与えたものであります。それがどうして罪を増し加えることになったのかということであります。そして、そのあと「罪の増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」というのです。これもわかりにくいところであります。

 なにかわれわれが悪いことをすればするほど、神の恵みがわかるということで、それではまるで罪を犯すことを奨励しているような気がするからであります。
 現に六章の一節をみますと、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と言い出す人がでてきたというのであります。当然のことだと思います。

 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためである」とはどういうことなのでしょうか。神様はわれわれ人間に罪を増加させるために、わざわざ律法を人間に与えたのだということなのでしょうか。

 神は人間に罪を犯させるために律法を与えたのではもちろんないのです。人間を正しく導くために律法を与えたわけであります。しかし与えられた人間が邪なために、結果的には律法は人間に罪を増し加えることになってしまったということであります。

 よく言われることですが、「この芝生に入るべからず」という立て札があると、かえって人は芝生にはいりたがるものだといいます。それと同じように、律法でこうしてはいけないと明確に言われると、人間はそのの律法に反することをしたくなって罪を増し加えるということなのだという説明がされることがあります。

 そういう面も確かにありますが、しかし「この芝生に入るべからず」と書いてあったら、その芝生に入らない人のほうが多いと思います。ですからこういう説明はあまり有効とは思えません。

 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためである」というのは、「律法が入り込んで来たことによって、われわれはその律法、その戒めを守ることによって、自分の正しさを主張し始めた、つまり、自分を自慢したくなる、そしてそれによって、律法を守れない人間を軽蔑し、裁き始めるようになった」ということであります。

 われわれは自分の正しさを主張するときには、ただ自分の正しさを主張するのではなく、他人の正しくないことを例にあげて、それと比較して、自分の正しさを際だたせて、自分の正しさ主張するようになるということなのであります。人を裁き、軽蔑することによって、自分の正しさを主張するようになるという情けない人間なのです。

主イエスが話されたたとえに「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人に対して」話された話があります。

 ここではふたりの人が祈るために宮にあがったというのです。ひとりはファリサイ派の人、ひとりは徴税人であった。ファリサイ派の人はこう祈った。「神さま、わたしはほかの人たちのように、奪いとる者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言って祈ったというのです。

 こんな人が神によって義とされたり、救われるはずはないことはわれわれもすぐ気がつくと思います。主イエスもこんな人は救われないのだ、義とされないのだと後でいうのです。

 これはまさに律法が入り込んできたために陥る人間の罪の一つの姿であります。律法があるために、人は律法を守ることによっと自己を誇り、そればかりでなく、律法を守れない人間を軽蔑し、差別し、裁いていくのであります。これはまさに律法があるために人間はまます罪を増したということであります。

 もう一つのことは、律法、戒めがきたことによって、われわれは罪の自覚が生じた、「自覚」が増したということです。そして罪の自覚が深まれば、われわれはすぐ悔い改めて、神に近づき、救われるのかといえば、そうではなく、罪の自覚が深まれば、われわれはますます神から遠ざかってしまうということなのです。それが問題なのであります。

 なにかと不正な徴収をしていた徴税人はどうしたか。彼は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸をうちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったというのです。

 この徴税人は確かに自分の罪の自覚は深いのです。だから、神様の目から遠く離れて立たざるを得なかった、目を天にむけることもできずに、胸をうちながら、うなだれる以外になかったのであります。

 彼は罪の自覚はあった、だからといって、ただちに救われたわけではないのです。ますます落ち込んでいったのです。ますますうなだれていったのです。ますます神から遠く離れていったのであります。

 彼が救われたのは、その後主イエスが「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」という主イエスの言葉を聞いた後であります。

 徴税人はファリサイ派の人にくらべれば、確かに神にずっと近いところにいたと思います。彼は自分の自覚から言えば、神から遠く離れていたでしょうが、しかし彼は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っている、神に必死に憐れみを乞うて、祈っているということから言えば、決して神から遠いところにいたわけではないのです。

 しかしそれでも彼がそのことに気がつかずに、天に目をあげることをしないならば、救われたとはとうていいえないのであります。

 罪の自覚だけでは、われわれは救われないのです。むしろわれわれを死に追いやるだけではないでしょうか。絶望に追いやるだけなのではないでしょうか。

二一節の「罪が死によって支配する」とは、そのことを言っているのです。つまり罪を犯すと、われわれは地獄に滅ぼされるのではないかと恐れる、それが罪を犯した人間にとっての死なのであります。それは人間を救いに導かないのです。われわれを絶望に陥れるだけです。罪はわれわれを絶望によって支配するといってもいいと思います。

 その時に恵みの光が上から来たのであります。主イエスの言葉が上からくだるのであります。「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない」という言葉が、その罪の自覚で苦しみ絶望している人間に対して、自分の上から、自分の外から聞こえてくるのであります。

 「罪が死によって支配するに至ったように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導く」ということであります。

罪は死によって、お前は地獄ゆきだ、お前はだめだ、だめだ、お前はもう死ぬほかないのだと訴えるのに対して、恵みは「わたしはお前を赦す、お前をまるごと受けとめる」といい続ける、それが恵みは義によって支配し、ということであります。義というのは、神の正しさということです、つまりそれは神の憐れみであり、神の赦しのことであります。

 そして次に学びたいことは「罪がましたところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた」というところです。

 ルカによる福音書の七章のところにこういう記事があります。イエスがあるファリサイ派の人から食事を招かれて、食卓についているとき、その町で罪ある女として評判の女が入って来て、香油が入っている石膏の壺をもってきて、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そしてその足に接吻して、香油を塗ったのです。

 それを見ていたファリサイ派の人が眉をひそめて、心の中で思った。「もしイエスが予言者なら、自分にさわっている女がどんな女かわかる筈だ。この女は罪深い女なのに」と思った。イエスともあろうという人がこの世で汚い女と接しているいって、不快に思ったのであります。

 イエスはそのファリサイ派の人の心の思いを見抜き、こういうのであります。「ある金貸しにひとりは五百デナリオン、ひとりは五十デナリオンを借りていた。ふたりともそれを返せないで困っていた。すると金貸しはふたりともまるまる許してあげた。このふたりのうちでどちらが彼を多く愛するだろうか」と、イエスはファリサイ派の人に尋ねます。
 当然、ファリサイ派の人は「多く許しもらった方でしょう」と答えます。

 するとイエスは「この女のしたことがお前にはわからないのか。お前はわたしがお前のに家に入って来たときに、足を洗ってくれなかった。ところがこの女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。お前は接吻をしてくれなかったが、この女は接吻をしてやまなかった。お前はわたしの頭に香油を注いでくれなかったが、この女はわたしの足に香油をぬってくれた。

 この女がどんなにわたしのことを愛してくれたか、それはこの女が自分の罪の大きさを知り、その罪をわたしによって赦されたことを知っているからそうしたのだ。少しだけ赦されたものは少ししか愛さない」と言われたのであります。

 そうしてイエスはその女に改めて「お前の罪は赦された」と言われたのであります。

 それはまさに「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」ということであります。

 この「罪が増し加わったところには、恵みはますます満ちあふれた」というのは、これは罪を深く自覚しているパウロの実感なのだと思います。たくさん罪を犯さないと恵みはわからない、というようなことではないのです。罪を犯して、自分は悪いことをしたという自覚がなければ、恵みがわかるはずはないのです。
 極悪非道の人は、神の赦しとか神の恵みなどわかる筈はないのです。ただ自分の罪の大きさに鈍感になっているだけであります。

 これは罪の自覚が深まれば、ということであります。それならばなぜ「罪の自覚が深まったところに恵みがますます満ちあふれた」とパウロはいわないのかということになるかも知れません。

 しかしそういってしまっては、今度は、その自分の「自覚」がなにか恵みを知る資格のようになってしまうので、パウロはそうは言いたくなかったのではないかと思います。
 われわれはなにかにつけて、自分の思いとか行動を自分が救われる資格とか根拠にしたいのです。
 自分が自分の罪を深く自覚したから救われるんだ、自分は自分の罪をこんなに深く自覚している、自覚できる高尚な人間なのだ思いこみたくなる。われわれは自分の自覚とか自分の意識の方ばかりにとらわれてしまう卑しい、浅ましい人間なのであります。そうしますと神の恵みはわからなくなってしまうのであります。

 パウロはの実感から言った、そんな風に「罪の自覚が深まったところに、恵みがますます満ちあふれた」などという言い方ではなく、そのままずばり、「罪が増し加わったところに恵みが満ちあふれた」ということだったのです。

 確かに罪の自覚というのは大事なのです。その罪の自覚というものは、どういうものなのでしょうか。

 鈴木正久という大変すぐれた説教者だった牧師がある説教のなかでこういうことをいっておりました。彼が何かの会合で、みんなから自分の罪を指摘された。彼はその帰り道、満員電車のなかで誰かに足を踏まれた。そのとき、ふだんの彼だったら、すぐ自分の足を踏んだ人に怒りをぶつける、少なくもその人に注意を与える人だった、しかし彼はそのときは、足を踏まれるままにしていたというのです。自分のような人間は、こうして人に足を踏まれ続けても文句が言えない人間なんだ、自分はこうして罰を受けなくてはならない人間なんだとずっと思い続けたというのです。

 罪を自覚するということはこういうことだと思うのです。自分が罪を自覚できたということで、自分は奥の深い人間なんだと自慢するようなことではないのです。

 罪を自覚するということは、罪を犯した自分を罰してくださいという言葉が最初に出てくると思うのです。そうしてその次に、罰をうけますから、罰してでてもいいですから、どうかわたしの罪を赦しくださいという訴えになると思うのです。最後にはわたしの罪を赦しくださいという訴えがでてこないような罪の自覚は、本当の意味で、まだまだ罪を自覚したことにはならないと思います。

 一度犯された罪は赦して頂く以外にないのです。どんなに償いをしてもそれは償いにはならないのです。どんなにお金で償おうとしても、本当は償いにはならないのです。最後のところでは、どうか赦してください、わたしは罰をうけますから、どうぞ赦しくださいという訴えになると思います。最後には、どうぞ赦してください、「主よ、憐れみたまえ」という祈りにならないような罪の自覚は本当に罪を自覚したことにはならないのであります。

 前にもお話したことがあったかもしれませんが、わたしが以前四国の愛媛県の大洲教会というところで、牧師をしていたときにこういう事件が起こりました。わたしの教会員の妹さんがすぐ近くの少し精神障害をもった青年に犯されて殺されてしまうということが起こったのです。わたしはすぐお悔やみにいきましたが、翌日お通夜がおこなれました。その妹さんは教会員ではなかったので、他の宗教で行われました。わたしはちょうどその夜は教会の祈祷会でしたので出席できなかったのですが、教会の青年達がそれに出席して、あとでその様子を聞きました。

 そのお通夜に、殺人を犯してしまった青年の両親がきたそうです。親は赦してくださいと土下座して謝ったそうです。そうしたら、その殺された娘の姉が、「妹を返してくれ」とその親に向かって絶叫したそうです。そうしたら、殺された娘の母親がその姉に対して、「そんなことをいうものではありません」ときびしく姉をしかったということであります。

わたしはその様子を青年達から聞いたのですが、その光景は脳裏から離れないのです。罪を犯した青年の親の「赦してください」という土下座して謝る姿、それに対して、「妹を返してくれ」と、あくまで償いを求める姉、それはもうできないことを知っていて、姉をたしなめ、じっと我慢する以外ない母親の姿であります。
 
 罪はあくまで償いを求めます。しかしひとたび犯された罪はわれわれ人間には償うことはできないのです。罪を犯した本人がどんなに悔い改め、あるいは真人間になったとしても、それは被害者の遺族にとっては、おそらく腹立たしいだけであって、それは決して償いにはならないのです。

 罪は赦して頂く以外にないのです。そして誰かにとりなしをしてもらって、その人に償ってもらう以外はないのです。罪を犯した本人が自分が償えばいいのだろうと開き直っていたら、それは到底償いにはならないのです。
もちろん、できる限りの償いはしなくてはならないのです。しかしそれで、償いができたのかと思いこむことはできないのです。どんなに償いをしても、償えるものではないことを承知しながら、償う以外にないと思います。

 罪を犯した本人ではなく、他の人にとりなしてもらって、その人に償ってもらって、罪を犯した本人は、ただ赦してくださいと謝り続ける以外にないのであります。罪を犯した、じゃあ、償えばいいんだろう、という態度では、決して罪を償ったことにはならないと思います。

罪は、罪を犯した本人が償えるものではないのです。罪を犯した本人が自分の罪は償えるんだと思っている限りは、自分の罪の大きさに気づいていないのです。自分以外の他の誰かによって償ってもらう以外にないのであります。
 
 神はこの償いを御子イエス・キリストを十字架で死なせることによって、果たしてくださったのであります。そうしてわれわれの罪を赦してくださったのです。われわれが罪赦される背後には、この御子イエス・キリストの償いがあったのであります。

主イエスは、あるときこういうことをいわれました。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」といわれたのです。

 これはルカ福音書だけにある主イエスの言葉なのですが、本当にこれはとてもおもしろい言葉だと思うのです。たった一日のうちに七回罪を犯し、七回悔い改めるということは、一度罪を犯して、悔い改め、そして二回目に罪を犯して、またすぐ悔い改める、それを七回続けるということは、この悔い改めということがいかいにいい加減な悔い改めであるかということであります。罪を犯し、もうやりませんからお許しくださいと悔い改める、その舌がかわかないうちにまた罪を犯すということであります。

 主イエスはそれでも赦してあげなさいと言われるのです。イエスがどんなにわれわれ人間の罪をゆるしたがっているかということであります。いや、どんなに神の赦しというものが、われわれのいい加減な悔い改めにくらべて、豊で深いものかということであります。

 罪の増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれたというのであります。

 詩編一三○編の三節には、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐えまえしょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ、敬うのです」と告白しているのであります。