「恵みの選びによって」 ローマ書十一章一ー一二節


 パウロは「神はご自分の民を退けられたのでしょうか」と問います。ここは口語訳聖書では、もっと端的に「神はその民を捨てたのであろうか」となっております。
 
 パウロは自分の同胞の民イスラエルが、しかもその民は神によって特別に選ばれた民、神の民、神のご自分の民なのですが、その我が子でもあるイスラエル民族を捨てたのであろうかというのです。それはイスラエルの民は現在イエス・キリストを救い主として受け入れようとしていない、信じようとしていないからであります。

 これは単なる思想上の違いの問題ではないのです。救いの問題、救われるかどうかの問題ですから、とても深刻な問題です。少し単純にいえば、死んだあと、あるいは最後の審判で、天国にゆくか地獄に落とされるかという深刻な問題であります。自分ひとりだけ、天国にいっても、自分の愛する者が地獄にいくのでは、身をさけるようにつらいことであります。そのために、パウロは自分の同胞の民が救われないならば、自分もキリストから離れ、自分もみんなと一緒に神に捨てられて、地獄にいってもいいとまでいっているのです。救いの問題というのは、単なる思想の問題ではないわけです。

 パウロはそのことを真剣に今問題にしているのです。パウロはそのことを論ずるときに、まず自分自身のことから考えてようとしているのです。自分もイスラエル人であり、アブラハムの子孫で、ベニヤミン族のもので、その自分が神の一方的な恵みによって救われたのだ、そうであるならば、今はキリストを受け入れようとしていないイスラエルの民もまた、恵みによって救われるのだと述べていくのであります。

 われわれもまた自分の愛する人が、家族がまだクリスチャンになっていない現実を前にして、心を痛めていると思います。そしてその愛する人が救われるのだろうかということは深刻な問題であります。
 そのときにわれわれにとっての一つの希望は、いや大いなる確かな希望は、この自分が救われたのは、自分が良い行いをしたからとか、なにか愛の人だったとか、あるいは自分が信心深い人間だから救われたのではない、ただただ神の一方的な選びによって救われのだから、彼らもまた自分が受けた恵みと同じ恵みにあずかって、神の恵みによって救われるに違いないと思うことが許されているということであります。

 聖書では、救われるということをしはしば選ばれるという言葉で表現しております。そしてその選びは恵みの選びだというのです。
 それは選ばれる側の成績や理由に束縛されていないということなのです。それをパウロは、「従って、これは人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものだ」といっているのであります。

 選びの根底には、神の自由な恵みの意志があるのだというのです。だから本当に安心なんのだというのであります。まず、「神は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」、まずそれがあるというのです。それがイエス・キリストの十字架と復活によって示された神の意志、神の恵みの意志だったのだというのです。神の恵みの選びというものが、キリストの十字架と復活によってなおいっそう明らかにされたのだというのであります。

 預言者エリヤは、アハブ王の迫害にあって、もう本当の神ヤーハウェを礼拝しているものはことごとく殺されていって、自分しか残っていない、自分のように熱心、真実にあなたを礼拝しているものはいない、その自分が殺されようとしていると神に訴えたときに、神はこう言われたのです。「いや、わたしはバアルにひざをかがめなかった者を七千人残している」といわれたのです。

 それはもう預言者エリヤのように自分の熱心さとか、信仰心の厚さではなく、ただただ神が残された、神の恵みの意志で残しているといわれたのです。

それは行いによってではなく、ただただ神の恵みによって残されているのだというのです。われわれの行いによって選ばれるということならば、それでは恵みは恵みでなくなっているというのです。

 そして神は、その神の深いご計画から、イスラエルの民のすべての人を今救うのではなく、パウロをはじめ一部の人々を今救っているけれど、他の人をかたくなにさせたというのです。わざわざ旧約聖書を引用してそのことをパウロは述べるのです。神がかたくなにされたのだから、また神がそのかたくなさを解くときがくるといいたいのです。

 そうして十一節から、パウロはいいます。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れてしまったということなのか」と問うて、「決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らに妬みを起こさせるためであったのです」と、述べるのです。

 これはどういうことかといいますと、ここでいきなりユダヤ人という言葉になっておりますが、これはイスラエルの民のことです、今イスラエル人がキリストをうけいれようとしないのは、もうこれで永久に救われないということになったのかと問うて、そうではないといい、それはかえって、キリストの救いがユダヤ民族、選民というイスラエル民族だけに注がれるのではなく、異邦人にまで、全世界にまで及ぶことになるためなのだというのです。

 もともと、旧約聖書を読んでいけば、神がイスラエル民族をご自分の民として選んだのは、その名もない貧しいイスラエルの民を神の民として選ぶことによって、その小さな民を基として全世界を救おうとなさろうとしたのだと記されているのです。

 神はイスラエルの父祖アブラハムを選んだときに、こういわれているのです。「わたしはあなたを大いなる民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の基となるように。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のすべての氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束しているのです。

 つまり、神はイスラエルの民を通して、それを基として、全世界を救おうとしているのだ、イスラエルはただその道具にすぎないといわれているのです。

 使徒言行録をみれば、キリスト教徒たちは、ユダヤ人から迫害されて、異邦人にその伝道は広げられていったことが書かれております。ですから、今では、イスラエルの民は依然としてユダヤ教を信じていますが、そのイスラエル民族の数よりも、恐らく何十倍もキリスト教徒の数はふえていったのであります。福音はイスラエルという一民族を超えて、全世界に宣べ伝えられることになったのです。それはイスラエルがキリストを受け入れず、キリスト教徒を迫害してくれたお陰なのです。
 
 そのあとで、パウロは大変奇妙な論理を組み立てるのです。「それは彼らに妬みを起こさせためであった」というのです。
 つまり、わかりやすくいえば、選民イスラエルの人々は、異邦人がキリストを受け入れて、どんどんキリスト教徒が増えていく様子をみて、そしてその救われていく様子をみて、その異邦人の幸福な救われかたを見て、イスラエルの民はそれを妬んで、やがて自分達も悔い改めて、自分たちもキリストを受け入れて、クリスチャンになろうとするだろうというのです。神はそのように計画されたのだから、イスラエルの民は決して倒れ放しではないというのです。

 こんな理屈が通るでしょうか。これはもうパウロの屁理屈ではないかと思わざるを得ないのです。現に、イスラエルの人々は全世界のキリスト教徒をみて、それを妬んで、キリスト教に改宗したかといえば、そんなことはないわけです。彼らは民族として依然としてユダヤ教徒として、ユダヤ教をまもっているわけです。もちろん、パウロのように、一部の人は熱心なユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した人はいると思いますが、民全体としてはそんなことは起こってはいないのです。もうキリストが死んで二千年も経っているのに、そんなことは起こっていないのです。

 ここのところを読んでいて思うことは、パウロという人は、自分の同胞の民の救いのことを考えて考えて、もう何とかして、イスラエルの民は神に見捨てられないのだということを考えようとしているんだということなのです。そうして見いだした理屈が、妬みという人間の感情だったのです。

 ユダヤ人は異邦人が救われている様子をみて、それに嫉妬して、やがてキリストを受け入れることになるだろう、神はそのようにして、妬みを起こさせるために、異邦人を救ったのだという理屈をパウロは考えだした。それはパウロの同胞の民の救いを願うあまりの屁理屈ではないかと思えてならないのです。
 
 これは確かにパウロの屁理屈であるかもしれません。たしかに、そうであるかもしれません、しかしよくよく考えてみれば、これはパウロだけの個人的な思いではなく、実はパウロの以前から旧約聖書に流れている思想だということなのです。それは一○章の一九節で、モーセの言葉として「わたしはわたしの民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」といっているのです。

 ここにもう「ねたみ」という言葉が出ているのです。ここにすでに神は異邦人を幸せにすることによって、イスラエルの民に妬みを起こさせる、つまり異邦人を救うことによって、イスラエルの民にねたみを起こさせて、回心させようという神の救いのご計画のことが記されているのであります。 

 妬みということでわれわれがすぐ思いだすのは、人類最初の殺人事件を引き起こしたカインのアベル殺しであります。カインとアベルが神様にそれぞれ捧げものをしましたら、神様はなぜかカインのささげものは目を留めないで、アベルのささげものだけを目に留めた。それでカインは激しく怒って、アベルを殺してしまったということであります。

 これが人類最初の殺人だったというのです。ここには妬みという言葉は使われていませんが、まさに妬みから出た殺人といってもいいと思います。

 そしてそれは今日われわれの世界においても、妬みによる殺人はいたるところで起きているわけです。殺人にまでいたらなくても、たとえば、学校で子供が先生から特別に愛される子がいたら、他の子供たちはその子を妬んでいじめがはじまるのは、日常茶飯事であるといえます。

 そして妬みというのは、われわれのもつ感情の一番いやしい、そしてまた一番激しい情念であるといってもいいと思います。

 一番卑しいといったのは、妬むということは、人の幸福な状態をみて、それをうらやましむということで、なんとかしてその人の幸福な状態をこわしてしまうという感情であります、もっともわれわれのもつ自己中心の思いの現れだからであります。

 そして妬みという感情がもっとも激しい情念だというのは、それは愛情の問題がからんでいるからであります。ある人の愛情が自分に注がれるのではなく、他の人に注がれるている、それを妬むのであります、それが我慢できないのです。それは自分もその愛情にあずかりたいからです。自分もまたその人以上に愛されたいのです、そこから妬みが起こるのです。もしその人に愛されたいという思いがなければ、妬みなどという情念は起こることはないのです。

 われわれはそれほどに誰かに愛されたい、誰かに愛されないと生きていけないのです。それはしばしば、この自分だけに注がれる愛でなければならないのです。自分だけにえこひいきしてしてくれる愛をもって注がれる愛でなければならないのです。
 それは言葉をかえていえば、深い愛ということであります。だれにでも平等に公平に注がれる愛などという愛ではだめなのです。

子供は、親からそのように深い愛をもって育てられなければ、正しくすくすくと育っていかないのです。それはこの自分だけに注がれる愛であります。そのような深い愛によって子供は、愛というものを身をもって体験し、人間として成長して行くのではないかと思うのです。誰にでも平等に、公平に注がれるそんな愛ではだめなのです。
 
 それは子供の時だけでなく、大人になっても、自分が本当に困難に陥っているときには、誰にでも公平に注がれる愛なんかではなく、この自分だけに献身的に注いでくれる愛でなければ、われわれは立ち直れない、慰められない時があると思うのです。妬みをひきおこすぼとの深い、あるいは強い愛でなければ、われわれは支えられない時というのがあるのです。

 われわれを救おうとする神は、妬む神なのです。新共同訳では、残念なことにそこは「熱情の神」と訳されてしまっていますけれど、口語訳では、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」と訳されているのです。リビングバイブルでは、ここはこう訳しています。「あなたの神はこのわたしだけだ。わたしは嫉妬深いから、わたしとほかの神を同時に愛することは許さない」と訳しているのです。

 わたしは妬む神である、だからわたしだけを愛しなさい、わたしもそういう愛をもって、お前だけを愛するのだから、ということであります。

 お前だけを愛するということは、お前だけを深く愛するということで、それは愛の深さを示す言葉であります。生きた愛というのは、そのようにこの人だけに、注がれるという集中性というものをもっているものであります。ある意味では、愛はいつもえこひいきの愛として示されるものであります。それはコンピューターのように無機質に誰にでも機械的に公平に注がれる愛ではないのです。

 われわれはいつも、というよりは、自分が困難に、危機に陥ったときには、自分だけに注がれる愛によって、そういう深い愛によって支えられ、救われて、生きることができるのではないか。それは妻の愛かもしれない、夫の愛かもしれない、親の愛、子供の愛、あるいは場合によっては、ペットとの交流という愛かもしれません。われわれはともかくそういう愛によって支えられているのではないか。

 その土台に、神様の妬むほどに自分だけに注がれる深い愛があるということなのです。

 聖書で示された神の愛は、もちろんただ深い愛としてだけではなく、広い愛、すべての人を愛する愛、ただ選民イスラエル人だけを愛するあいではなく、全世界のひと、異邦人も愛する広い愛、豊かな愛として示されています。あるいは神の愛は高い愛、崇高な愛、ご自分を犠牲にしてまで愛する崇高な愛としても示されています。賛美歌の四九二番には、「神の恵みはいと高し、神の恵みはいと深し、神の恵みはい広いし」と歌われているとおりであります。

 しかしわれわれが本当に危機にあるときに、われわれを支えてくれるのは、広い愛でもないし、崇高な愛でもないし、ただただこの自分だけに注がれるえこひいきの深い愛なのではないか。そしてその愛が自分以外に注がれたときには、妬みを引き起こすような愛なのではないか。

 神の愛がいま異邦人に注がれている、それを見てイスラエルの民は妬みを起こして、悔い改め、回心し、その深い神の愛に預かりたいと思うようになるのだとパウロは信じているのです。
 それは、パウロ自身がその深い神の愛に触れて、回心し、キリスト教徒となったからであります。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と語るキリストの声を聞いて、パウロは自分に注がれた生きた神の愛に目覚めて救われたのであります。

 だから今、パウロは、今異邦人に注がれている深い神の愛に気づいて、必ずや、イスラエルの民は悔い改めるだろう、神はそのように選民イスラエルを導く日外ない、だから、イスラエルは神から見捨てられる筈はないと確信しているのであります。

 カナンの女の記事を思いだします。異邦人の女カナンの女の娘が悪霊につかれて苦しんでいるので、イエスに娘から悪霊を追い出してくださいと執拗に頼むのです。するとイエスは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えて、その女を退けるのです。
 つまり、自分は今はイスラエルの民の救いのことで一杯で、とても異邦人の人にかかわってはおれないのだというのです。それでも女はあきられないで、執拗にイエスに食い下がって、「助けてください」と懇願しますと、イエスはさらに「子供のパンをとって子犬にやることはできない」と、答えます。すると女は「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と、答えたのです。
 「確かに異邦人であるわたしの娘は、犬かもしれません。しかしその犬でも、主人であるイスラエルの人の食卓からそのパンくずくらいは、そのおこぼれに預かることはゆるされるのではないですか」と食い下がったのです。イエスはこの女の信仰に非常に感心されて、その娘の病をいやしたというのです。

 異邦人の女は、選民イスラエルの民だけに注がれるイエスの深い愛に、妬んだわけではないでしょうが、その深い愛にうらやんで、その深い愛のおこぼれでにでも預かって娘の病をいやして欲しいとイエスに迫ったのであります。イエスはその女の謙遜なけなげな信仰に深く感心されたというのです。

 パウロからすれば、選民イスラエルの民は、今、全く逆の立場に立たされているのであります。今イスラエルの民は、この異邦人の女の立場にたって、異邦人に注がれている神の愛を妬んで、うらやんで、奮起して、この神の愛に預かりたいと願うことになるだろうとパウロはいうのであります。

 「わたしは妬む神である」という神の深い愛にわれわれも預かりたいと、いつもいつも願っていきたいと思うのであります。