「神はわたしたちの味方である」ローマの信徒への手紙八章三一ー三九節


 三一節をみますと、パウロは「では、これらのことについて何といったらよいだろうか」といいます。この上に何を言ったらいいのだろうかというのです。パウロは今まで、このローマの信徒への手紙で、一章から、特に、三章の二一節からわれわれの救いについて懇切丁寧に語って来たのであります。われわれが救われるのは、われわれの業ではない、われわれの行いではない、われわれが良いことをしたから救われるのではない、ただ一方的なイエス・キリストの十字架の贖いによって示された神の愛を信じる信仰に救われるのだと語ってきたのであります。この上に何を語ったらいいのかというのです。

 そういわれても、われわれとしては、語ってもらいたいことがあるのです。それは、救われたわれわれが、これからもずっとこの信仰をもっていけるのかということであります。信仰を保っていけるのかということであります。

 それに対して、パウロはとどめをさすようにいいます。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」というのです。

 「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか」「誰がわたしたちを罪に定めるのか」というのです。つまり、この最後の問題は、まだ救われない者の不安ではないのです、すでに救われた者、神によって選ばれたことを自覚しているクリスチャンのもつ不安であります。
「だれがわれわれを訴えるのか、だれがわれわれを罪に定めるのか」、それは神でないことは十分教えられてきたのです。神が弱いわれわれ、罪深いわれわれを救ってくださったということを今まで懇切丁寧に教えられてきたからであります。それでは誰が、われわれを訴えたり、罪に定めたりするのでしょうか。もう神様でないことはわかっているのです。

 誰がわれわれを訴えるのでしょうか。誰がわれわれを罪に定めるのでしょうか。それは何よりも、自分自身ではないでしょうか。われわれ自身がわれわれを一番訴えるのではないでしょうか。われわれ自身が自分を一番罪に定めようとするのではないでしょうか。こんな自分ではダメだ。神に選ばれて、神に愛されておりながら、こんなだらしのない自分でいいのかと、自分で自分を責めるのではないでしょうか。

 ある人がいっておりますが、「われわれは神はわれわれの味方であるということ、神がわれわれの味方になってくださったということに目をつぶって、自分が神の味方にならなくてはならないとばかりに、気が焦るのだ」といっております。

 われわれは信仰者なのだから、もうクリスチャンになったのだから、少し大げさにいえば、殉教も覚悟しなくてはならないのではないかと心配する。、われわれは自分が最後まで神の味方になっておれるだろうかと考えて、不安でしかたないのではないかと思うのです。

 しかし、大事なことは、われわれが神の味方になることではないのです、神がわれわれの味方になってくださったということなのです。

われわれクリスチャンは特に、きまじめなクリスチャンほど自分を責めることが多いのではないでしょうか。

 パウロはコリントの信徒への手紙のなかで、こういっているのです。「わたしは自分で自分をさばくことはしない。自分には何もやましいところはない。しかしそれでわたしが義とされているわけではない。わたしを裁くかたは主である。だから主がこられるまでは、先走って何も裁いてはいけない」といっているのです。
 「自分にはなにもやましいことはない」とパウロはいいきっていますが、われわれはパウロと違って、そんなことは到底言い切れないと思いますが、しかしその後パウロは、「だからといって、わたしは義とされているわけではない」というところがパウロの信仰であります。自分を裁いてくださるのは神なのだ、だから神がこられまで先走りして裁いてはいけないというのです。先走りして裁くということは、先走りして自分で自分を裁くということです。

 われわれはどんなにいつも先走りして自分で自分を裁いてしまっていないか。神によって正しく裁いていただく、正しくということは、神様の恵みによって、ということです、神の正しい恵みによって裁いて頂く前に、われわれは自分で先走りして、自分で自分を裁いてしまっていないか。
 
 「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めるのか。死んだかた、否、むしろ復活させられたかたであるキリスト・イエスが神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださっている」というのです。

 われわれが神の味方になることではないのです。神がわれわれの味方になってくださったのです。だから、われわれも神の味方になることができるのです。

 パウロは「だれがわたしたちに敵対できますか」と、問いかたけあと、「その敵対する」ということを言い換えて、「だれが神に選ばれた者を訴えるのか」「誰がわたしたちを罪に定めるのか」といったあと、三五節で「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができるのか」といいます。

 つまり、われわれに敵対するということは、われわれをキリストの愛から切り離そうとするということなのだということなのです。逆に言いますと、われわれがキリストの愛から切り離されないかぎり、われわれにどんなに敵対するものがあっても大丈夫だ、安心だということであります。

 われわれを不安にさせ、われわれを脅かし、われわれに敵対するものに対して、われわれがどのように戦うということは、それはわれわれがしっかりとキリストの愛のなかにとどまっていることだ、われわれがしっかりとキリストの愛を信じることだとパウロはいうのです。それが三二節にいわれていることなのです。

 これからわれわれが敵に対抗するための武具はキリストの愛を信じるという武具なのです。そのために、パウロは「だれが、誰が」という問いかけを中断して、三二節で、神がどんなにわれわれを愛しているか、キリストの愛というものがどんなに深く、力強いものかということを語るのです。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたかたは、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」というのです。

 神はイエス・キリストと共に、われわれにとってすべてのものを与えてくださっているというのです。神はそれほどにわれわれを愛してくださっているというのです。

 このことについて、ある人がこういっています。「ひとり子とえも、惜しむことなくお与えになった神が、他のものを惜しまれる筈はない。このひとり子と共に一切のものを、賜物としてくださるにちがいないではないか」というのです。そして続けて「与えられないものがあったとすれば、それ神が惜しまれたからではない。その一切によって、御子を賜ったことの意味がいっそう深く理解されるのだ」というのです。

 これはどういうことかといいますと、われわれは自分自身を顧みて、自分にはいろいろと欠けているものが沢山ある、もっと才能があったら、もっと体が丈夫だったら、神様はなぜもっと自分に才能を与えてくださらなかったのだろうか、なぜもっと健康な体をあたえてくれなかったのだろうかと不満だらけかもしれないのです。しかし、神は御子と共にわれわれにとって必要なものはすべてをあたえくださっている、これからも与えてくださるというのです。

 これを言っているパウロは、自分の体の弱さについて嘆いたことがあります。パウロは自分に肉体のとげがあるというのです。それが具体的にどのような病気だったかはよくわかりません。いろいろな説がありますが、パウロは極度の近眼で目がわるかったのではないか、あるいはときどきてんかんを起こす病をもっいたのではないか、あるいはくる病だったのではないかといわれています。パウロはあまり見栄えのしない人物だったようなのです。

 それでパウロはこの病が治るとようにしきりに祈ったのです。しかしこのときに与えられた神からの答えは「わたしの恵みはお前に十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」ということだったのであります。

 パウロにとっては、重い病は自分の欠けたところだったのです。しかし神からみれば、神様は、その欠けたところも含めて、御子と共にそのパウロにすべてのものを与えていたというのです。それを知ったパウロは、「自分はキリストの力が宿るように、むしろ、大いに喜んで自分の弱さ誇ろう」というのであります。そして「わたしが弱いときにこそ、わたしは強いのだ」というのであります。

 パウロは弱いからこそ、神の恵みを十二分に人々に伝えることができたのであります。パウロはその肉体の弱さをもっていたからこそ、傲慢にならずに、慎み深く、謙遜になって伝道者としての道を歩むことができたのであります。

 われわれも自分のことを顧みたときに、あれも足りない、これも欠けていると思うかもしれない、しかし、神はわれわれにとって必要なことはすべてもう与えておられるのです、あるいは、これからもわれわれにとって必要なことはすべてあたえくださるのです、それがキリストを通して与えらた神の愛なのです。必要なものはすべて与えられたのです。余分なものは与えてはくださらないのです。
 
われわれはこの愛をもって、われわれをおびやかすあらゆる敵に対すればいいのです。このキリストの愛から切り離されない限り、大丈夫だというのです。

 そしてパウロはわれわれにとって最大の敵は、死だ、死にまつわることだといいます。「艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」といいます。これはパウロが実際に遭遇した迫害のことだろうといわれております。

 われわれにとって最大の敵は死だというのです。三八節で、パウロはこういいます。
 「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」というのであります。

 ここでパウロはわれわれをキリスト・イエスによって示された神の愛から引き離すものとして、「命とか天使とか」いろいろとあげておりますが、最初に「死」をとりあげております。パウロは別のところで、われわれにとって最後のそして最大の敵は死だといっているのです。

 その最後の敵である死も、キリスト・イエスにおいて示された神の愛から引き離すことはできないというです。誰も、何者もわれわれに敵対するものはないというのです。神がもしわれわれの味方ならば。
 われわれがよく交読文で読む詩編に、二三編があります。詩編のなかで一番よく読まれる詩編であります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けるところはない」という句で始まる詩編です。

 「主は羊飼い」、ここは口語訳では、「主はわたしの牧者であって」となっていて、「わたしの」という言葉がついているのです。文語訳でも「エホバはわが牧者」となっております。「わたしの」「わが」というところが大事だと思うのですが、新共同訳ではなぜかそれを省いてしまっていて残念ですが、それはともかく、ここでは、「主はわたしの羊飼いだ」というのです。すぐつづけて、「わたしには何も欠けるところはない」というのです。

 神がわたしの羊飼いである、このことだけを信じたら、このことだけを信じることができたら、もう何も欠けるところはないと言い切れるのです。

 詩編の二三編は続いて、「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たとい、わたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と続くのです。

 主はわたしの羊飼いである。そのことだけを信じることができるならば、たとえ死の陰の谷を歩むときも安心だというのです。神がわれわれと共にいてくださるからであります。

 そしてさらに詩編はつづきます。「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴をもうけ」というのです。わたしの前には敵がいる、わたしの周りには敵が一杯いるかも知れない、しかしその敵の前でわれわれは宴会をひらいて、楽しむことができるのだというのです。敵がいないわけではないのです。敵はいるのです、しかしもし神がわれわれの味方であるならば、敵がいても大丈夫だ、わたしに敵対するものはなにもないというのであります。

 新しい年を迎えました。この一年を歩み始めるにあたって、最後に学んでおきたい聖書の箇所があります。それは旧約聖書のヨシュア記の言葉です。

 ヨシュアは出エジプトを指導した偉大なモーセの後を引き継いだまだ若い指導者です。神はそのヨシュアを指導者として召されたときに、こう言って励ますのです。「一生の間、お前の行く手にたちはだかるものはない。わたしはモーセと共にいたように、お前と共にいる。お前を見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ」といって励ますのです。つまり、神はヨシュアに対してわたしはお前の絶対的な味方として立ち続けると約束したのです。

 それからしばらくして、ヨシュアがエリコのそばにいたとき、朝早く目をさましたときに、自分の目の前に抜き身のつるぎを手にした男がたっていた。ヨシュアはすかさず「お前は味方か敵か」と問うのです。

 おそらくこのときのヨシュアはこれから民を引き連れて行かなくてはならないヨルダン川の向こうの土地には、自分たちを待ちかまえている敵が一杯いるので、そのことで頭が一杯たったようなのです。それで目の前にいる男をみて、すぐ「あなたはわたしの味方か敵か」と問うたのです。

 すると男は「いや、わたしは主の軍の将軍である」と答える。神から遣わされた者だというのです。それでヨシュアは、地にひれ伏し、「わが主はこのしもべに何をお言いになるのですか」といいますと、主の軍の将軍はヨシュアにいいます。「お前の足から履き物を脱げ。お前の立っている場所は聖なる所だ」といったのです。それでヨシュアはその通りにした。

 ヨシュアの「あなたはわたしの味方か敵か」という問いに対して、主の使は、「わたしはお前の味方である」と答えてもよさそうであります。なぜならば、ヨシュアに対して神はわたしはお前の絶対的な味方である、お前を決して見放すことも見捨てることもしないといっているからであります。

 しかしこのとき、神の使いはヨシュアに対して「わたしはお前の味方である」とはいわないのです。その代わりに「お前はお前の足から履き物を脱ぎなさい。そして聖なるかたの前にひれ伏し、聖なるかたを礼拝しなさい」といわれたのであります。

 われわれは自分中心にして、だれが自分の味方でだれが敵かと判別するときにどんなに大きな過ちを犯すかということであります。すべてを自分を中心にして、自分のちっぽけな頭で、自分の利益ばかりで、だれが味方で誰が敵かと判断してしまうのであります。それがどんなに危険なことかということです。

 大事なことは、そうした自分中心の価値判断をすてて、今まで自分をささえてきたかに見える履き物を脱ぎ捨てて、聖なるかたの前にひれ伏し、聖なるかたを仰ぎ見る、そのようにして、神を礼拝する、そのことがどんなに大事なことか。

 神がわたしの味方であるということは、わたしが神の味方になってあげるということではもちろんないし、また自分にとって都合良く、神がわたしの味方になってくださるということでもないのです。神が神のお考えによって、わたしの味方になってくださるということであります。

 それは具体的には、まず自分中心の思いを捨てるということです。自分が正しいと思っていることが、本当に正しいことなのかと疑ってみるということであります。

 聖なるかたを拝む、そのときに神がわたしの味方であるということが本当にわかるということではないかと思います。