「御子の誕生によって」マタイ福音書一章一八ー二五節

 天使は、処女マリアに、聖霊によって宿った子に対して、イエスと名付けなさいと告げます。そしてさらにこう告げます。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」と告げるのであります。そしてさらに聖書は、「これは主が預言者によって言われたことが成就するためである、『見よ、乙女がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」と告げるのであります。インマヌエルとは「神われらと共にいます」という意味だというのです。

 イエスはインマヌエルとも呼ばれるというのです。それはイエスがこの世に生まれたことによって、インマヌエル、「神われらと共にいます」ということが実現するからだというのです。

 ですから、御子イエスの誕生を祝うということは、神我ら共にいますということが実現したことを祝うということなのであります。

 しかし、マタイ福音書は、「神われらと共にいます」ということを、ただ漫然と、神がわれわれと共にいてくださる、といっているのではないのです。その前に、この神の子イエスは、「おのれの民をそのもろもろの罪から救う」者となるといったうえで、このイエスは「インマヌエル」「神われらと共にいます」ということが実現してくださるかただというのです。つまり、この神われらと共にいますということは、もっと厳密にいえば、「神は罪人であるわれわれと共にいてくださる」ということであります。さらにもっと厳密にいえば、「神は自分の罪を知ったわれわれと共にいます」ということであります。

 それでは、われわれが罪人であるということはどういうことなのかということであります。マタイ福音書は、そのあと、人間の罪について語っていくのであります。
 
 イエスがベツレヘムで生まれたときに、東の国の占星術の博士達がエルサレムにきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みに来ました」と尋ね回った。
 なぜユダヤ人でもない人間がユダヤ人の王として生まれることになる幼子を拝みにわざわざ東から旅をしてきたのか不思議であります。

 彼らは東の方角に大きな輝く星をみて、それは何かを告げる星であるに違いない、その星の指し示すところを見てみたいと思っただけかもしれません。つまり、彼らはそのとき、別に救い主の誕生を祝うためにエルサレムに来たわけではないのです。ただなにか偉大な人が生まれる徴だろうと思った、その方角はユダヤをさしているから、それはユダヤ人の王として生まれるかたであるに違いないと思った。彼らはただ自分たちの占星術という科学的好奇心を満たすためにエルサレムにきただけなのではないかと思います。

 彼らは救い主の誕生を祝うために、まして神の子の誕生を祝うために来たのではなかった、ユダヤ人の王として生まれることになる人を一目みておこう、その人を拝んで見よう思っただけであります。

 しかし、そのことが後の大悲劇を生むきっかけになってしまったのであります。といいますのは、当時のユダヤの王ヘロデは、そんな人が生まれることになったならば、自分の王としての地位が危うくなる、早いうちに、その幼子を抹殺してしてしまおうと思った。しかし、その幼子を見つけられなかったので、その幼子が生まれたといわれていたベツレヘム一帯の二歳以下の幼子をことごとく殺していった。ここには、二歳以下の幼子とありますから、その殺戮は二年にわたって行われたのだということであります。
 その幼子を殺された母親の嘆き叫びが町中に響きわたった、幼子が殺された親は、「もう慰めてもらおうともしなかった、子供がいないからだ」、もうだれからも慰めの言葉をうけつけようとしなかった悲しみが町中に響きわたったというのであります。 

 マタイ福音書が描くクリスマスの出来事は、理不尽に自分の子供が殺された嘆き悲しむ叫び声が町中に響き渡ったと記すのであります。クリスマスは人間の罪という闇の中で起こったことを記しております。

 ルカ福音書は、神の子の誕生は、きらびやかな王宮とかあるいは神秘的な神殿の中で誕生したのではなく、たくさんの人が宿っている旅館の客間でもなく、そこから追い出されるようにして、その隣にある馬小屋の飼い葉桶のなかで誕生したのだと記しております。神の御子はわれわれ人間の貧しさのなかで誕生したのだとルカ福音書は告げるのであります。

 しかし、マタイ福音書では、神の子は、ただ貧しさのなかでの誕生ではなく、まさに人間の一番深い闇、人間の罪のただなかに誕生したのだと記すのであります。その人間の罪を救うために御子イエスは誕生したのだと告げるのであります。

 その人間の罪とは何かであります。

 イエスの弟子達は、先生であるイエスがいないところでは、「自分たちの中で誰が一番偉いか」ということを議論しあったというのです。さらに、あろうことか、イエスに直接、「あなたが天国にいったときに、わたしどものひとりをあなたの右に、ひとりをあなたの左に座らせてください」と、兄弟で願い出たというのであります。ほかの十人の弟子達も、このことで腹を立てたというのであります。

 自分が一番偉い者になりたい、自分が一番上座につきたい、あのすべてを捨ててイエスに従った弟子達の最大の関心事が、そのことであったというのであります。自分が王になりたいということであります。それはなにも国の中で王になりたいということではなくて、自分の属している仲間のなかで王になりたいということであります。それはあの人よりも、この人よりも、少しでも偉く思われたいという思いであります。

 そのためには、それを維持するためには、あらゆる手段をつくして王であり続けようとするのであります。それがヘロデ王による幼児虐殺の事件であります。自分の王位を危うくする者をなんとしてでも、抹殺するのであります。

われわれはそんなことは絶対にしないというかもしれませんが、われわれは少しは恥を知っておりますから、あからさまには、あるいは、自分のプライドを傷つけたり、自分の良心に恥じるようなことはしないかもしれませんが、あのイエスの弟子達のように、自分の心のなかにそのような根強い願望をもっていることは隠すことはできないと思います。

 ヘロデ王にあのような残虐なことをさせる切っ掛けをつくったのが、東から来た博士達であったことは考えさせられることであります。

彼らは初めは救い主の誕生をいわうためにエルサレムに来たのではないのです。まして神の子の誕生を知って、祝うために来たのでもないのです。ただ自分達の占星術という好奇心にかられて、大きな星を頼りに、ユダヤ人の王はどこに生まれるのかと探し求めて、エルサレムに来たのであります。

 しかし、彼らを導いた星は、エルサレムにくると途中で見えなくなってしまったようであります。それで彼らは町のなかをうろうろした。それがヘロデ王の耳に入った。それで王は民の祭司長や律法学者を集めて、メシアはどこに生まれることになっているかと尋ねた。律法学者たちは、聖書のミカ書を見つけ出して、「それはユダの地、ベツレヘムだ」というのです。そこではこう書かれている「ベツレヘムはユダの氏族のなかで決して小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者になるからだ」、その地にメシアが現れると預言されていると述べるのであります。そのミカ書には、そのメシアは「彼こそ、まさしく平和だ」と預言されているのであります。

 ですから、あの東から来た博士達をベツレヘムへと導いたのは、星ではなかったのです。聖書の証言、聖書で予言されていたという証言が彼らをベツレヘムに導いたのであります。彼らはそのことをヘロデ王から聞いて、ベツレヘムに向かって歩み出します。すると、九節をみますと、ここであらためて星があらわれて、東方でみた星が先立って進んで彼らを幼子イエスのところにいるところに導いたというのであります。

 ここで大切なことは、博士達をベツレヘムへ導いたのは、星ではなかったということです。律法学者たちが調べた聖書の証言だったということであります。

 聖書、つまり旧約聖書では、メシアは王として表現されております。しかしその王は、ヘロデ王に象徴されるような王ではなく、「かれこそまさしく平和だ」と告げられるような王であります。
 そのメシアとしての王はこういうかたなのだと、イザヤ書十一章に記されています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」彼は人間のこの世の王のように、「目に見ることによって裁きを行わず、耳にすることによって弁護をすることはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。・・・正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはらみ、その子は共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、なにものも害を加えず、滅ぼすこともない」と予言されているのであります。これがエッサイの株から生まれる王、イスラエルを支配する本当の王だと預言されているのであります。

 ベツレヘムに誕生するユダヤ人の王は、ヘロデ王のように権力をふるう王ではなく、「目に見ることによって裁きをなさず、弱い人のために正当な裁きを行う王なのだ」それが後に誕生する王、メシアなのだと予言されているのであります。

 東から来た博士達は、聖書の証言に導かれ、ベツレヘムにきたのだということ、これは見落としてはならないことであります。彼らがベツレヘムにきたとき、マタイ福音書の一章の九節をみますと、エルサレムで見失った東方でみた星が再び現れて、その星に導かれて幼子イエスのところに来るのです。

 彼らは幼子イエスを見いだし、その幼子にひれ伏し、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。黄金、乳香、王に献げるにふさわしい贈り物であります。しかし没薬はどうでしょうか。確かにこれも高価な香料であります、王に献げるにふさわしい贈り物であります。しかし没薬はイエスが十字架につけられたときに、最後にイエスに飲ませようとした飲み物でもありました。これはまた死の葬りの時にも用いられる香料であります。つまり、それは十字架を予兆する贈り物でもあったのであります。

 彼らは確かにユダヤ人の王として、幼子イエスの前にひれ伏したかもしれません。しかし、彼らはもはやそれは単なる王としてひれ伏したのではなかったのであります。少なくも権力ふるう王としてひれ伏したのではなかったのであります。
 幼子イエスにお会いし、そのかたの前にひれ伏したときに、あのミカ書で予言され、あのイザヤ書で予言されている王、本当のメシアとして、彼らはひれ伏しているのであります。

 なぜなら、彼らは、そのあと、「ヘロデ王のところへ帰るな」と夢で告げられ、ヘロデ王のところには帰らずに、ヘロデ王のいいなりになるのではなく、別の道を通って、自分たちの国に帰っていったからであります。

 彼らは幼子イエスに会うまでは、この世の王を拝もうとしてきたのであります。しかし、幼子イエスにお会いしたときには、変えられてしまった。この時、彼らは幼子イエスを、もはやこの世の王としての幼子ではなく、この世を救うメシアとして拝んでいるのであります。

 われわれもイエス・キリストを通して神を求めるとき、やはりイエス・キリストにお会いしたとき、どこか変えられているのではないでしょうか。確かに、われわれの信仰はどこまでいっても自分中心の御利益的な信仰を完全に捨て去ることはできないかもしれません、しかしそのなかでもやはりイエス・キリストを通して神を求め、神に祈るときに、人のために、人の利益のためになりたいという、単なる御利益的信仰を乗りこえた信仰があたえられているのではないでしょうか。そうでなければ、われわれは本当にイエス・キリストにお会いしたとはいえないと思います。

 東から来た博士達が、天使の御告げを受けて、ヘロデ王のところに帰らずに、別の道を通って帰ったばっかりに、皮肉なことに、そんな軽い言葉で言い表せない悲惨なことが、引き起こされるのであります。

 ヘロデ王は、博士達にだまされたと思い、怒り狂い、イエスが生まれたというベツレヘム一帯の二歳以下の幼子を殺していったというのであります。

 イエスは「インマヌエル、神われらと共にいます」という名前をもち、イエスが生まれたことによって、「神われらと共にいます」ということがこの世に実現した筈であります。それなのにかえって、このような悲惨なことが起こるとはどうしてなのでしょうか。

 それはイエスの誕生が、貧しさをあらわす飼い葉桶のなかでの誕生というだけではなく、人間の罪という飼い葉桶のなかでの誕生だったからであります。
 イエスはこういうのです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすために来たのではない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは人々を敵対させるために来たのだ」といわれるのであります。あのミカ書で預言されている「彼の名はまさしく平和」を裏切るようなことをイエスはいうのです。
 
 それはイエス・キリストによって与えられる平和は、単なる穏やかな平和ではなく、罪を克服するところの平和だからであります。それが「彼こそまさしく平和」だからであります。

 イエスが来たことによって、われわれ人間の罪はあらわにされ、罪の牙はいよいよむき出してくるのであります。それがヘロデ王による幼児虐殺という出来事であります。そしてそれが「神われらと共にいます」ということで起こることなのです。神が、自分の民を罪から救うためには、どうしても人間の罪をあらわに示すことが必要だったのであります。

 御子の誕生によって、より一層人間の罪があらわになり、人間の罪が猛威をふるいだすのであります。イエスがこの世に生まれたばかりに、罪のない幼児たちが無残にも殺されていった。その無残に幼児を殺された親たちは、イエスをうらんだかもしれません、御子をこの世に送った神をうらんだかもしれません。

 しかし、そのイエスものちに、あの十字架で人間の罪によって殺されていくのであります。この幼児達の悲惨な虐殺は、あの神の子の十字架の死の予兆だといってもいいのであります。

 終末を預言したヨハネ黙示録には、その六章には、神の言葉を宣べ伝えたために殺されて言った殉教者たちが、イエス・キリストにこう訴えたというのです。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの復讐をなさらないのですか」と訴えますと、そのひとりひとりに白い衣が与えられ、「お前達と同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つように」と告げられたというのです。

 この世の終末の時がくるまでには、まだまだ殉教者の数はふえていく、まだまだあの理不尽な幼児虐殺、人間の罪によって引き起こされる幼児虐殺は引き起こされるというのであります。

 そして現に、いまだに、世界の各地でそのような理不尽な悲惨な出来事はおこっているのであります。それは独裁者が支配している未開の地だけでなく、文明が発達しているイスラエルとパレスチナの地においても起こっているのであります。

 神の御子が罪を救うために、この世に降り、そしてその御子が十字架で殺され、罪を贖って、復活なさっても、依然として、理不尽な幼児虐殺、女子供の悲惨な虐殺は、今でもつづいていることにわれわれは目をつぶるわけにはいかないのであります。なにもそんな大げさなことだけではなく、われわれの身近においても、罪の猛威は依然として続いてることはわれわれがよく知っていることであります。

 それでは、御子の誕生はまったく無意味だったのでしょうか。

 東から来た博士達は、はじめは、ユダヤ人の王を拝もうとしてエルサレムに来ましたが、やがてベツレヘムで幼子イエスにお会いし、幼子にひれ伏して拝んでからは、もはや王に従うことはせずに、その道を変えられていったのであります。

 それはマリアの夫ヨセフもそうだったのです。

 ヨセフは、婚約者マリアが身ごもったことを知ったときに、それは不倫によるものだと思い、離縁しようとしました。しかし、そのとき、ヨセフは、当時の法律では、不倫した女は石で打ち殺されることを知っておりましたから、彼は正しい人であったので、そうなることを避けて、おもてざたにしないで、ひそかに離縁しようとしました。

 聖書は、「ヨセフは正しい人であったので」と記しますが、ヨセフは正しい人であったので、マリアの不倫に怒り狂って、マリアを告発して、離縁しようとしたとは書いていないのです。そこにヨセフの正しさを示そうとはしないのです。

 ヨセフは「正しい人であったので、ひそかに離縁しようとした」と、「ひそかに」というところに、ヨセフの正しさを示すのであります。不倫をしたマリアが痛い目にあわないように、ひそかに離縁しようとした、そこに、ヨセフの正しさをみているのです。つまり、ヨセフの正しさとは、とはヨセフ優しさだったと記すのです。それはわれわれ人間のもつ最大級の正しさであったと思います。

 しかし、そのヨセフに天使は告げるのです。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎内の子は聖霊によってやどったのである」とヨセフは告げられるのです。そのために、ヨセフは主の天使が命じたとおりに妻マリアを迎えたのであります。

 自分の婚約者マリアが、聖霊によって身ごもったのだといわれたって、ヨセフはそんなことはあり得ないと思ったと思います。しかし、ヨセフはそのときに、さらに、その子は「自分の民を罪から救う者となる。その子はインマヌエル、神われらと共におられる、と呼ばれる」と、天使から告げられるのです。

 そのときに、ヨセフはこの天使の言葉を信じた。神を信じた。そうして、人間の常識をすてた、自分のもっている常識を捨てて、自分のもっている価値観を捨てて、そして主の言葉を信じ受け入れて、妻マリアを迎えたのであります。

 ヨセフは確かに正しい人でした。それもただの正しさではなく、相手を傷つけないように、相手の過ちをある意味では赦すことのできる優しさをもった正しさでした。しかしヨセフはそのときは、それでもやはり離縁しようとしたのであります。離縁しようとした。それは結局は、自分の潔癖性を保持したいという思いがあったと思います。自分の価値観を捨てることはできなかったのであります。

 そしてそれは、自分の潔癖性にこだわる限りは、それは結局は、自己保身につながる正しさでしかなかったのではないか。それでは本当に人の罪を赦すことはできないのではないか。ここにわれわれ人間の正しさの限界があるのではないか。

 このときのヨセフの自己保身は、結局はあのヘロデ王が自分の王位を守るためにした幼児虐殺につながる自己保身でしかなかったのではないか。

 しかし、ヨセフはこのとき、天使を通して神の言葉を聞いた。その主の言葉を受けて、主の言葉を信じて、マリアを迎えたのであります。ヨセフは変えられたのであります。神我らと共にいます、インマヌエルという事実を知らされて、ヨセフは変えられたのであります。自分の潔癖性を守るという価値観を捨てさせられた。自己保身という姿勢を捨てさせられたのであります。

 確かにマリアは不倫とか姦淫とかという罪を犯したわけではないのです。聖霊によって身ごもったのです。しかしヨセフのほうからしたら、それをそのまま信じることはできなかったと思います。ただ神の言葉を信じるしかなかった。自分の価値観とか人間の常識を捨てて、神の言葉に従ったのであります。

 このときに、ヨセフは自分の潔癖性に執着するという自己保身という罪を克服できた。自己保身がただちに、罪といっていいかどうかわかりませんが、少なくもこれはあのヘロデが自分のの王位にしがみつくという罪とつながっていることは明かだと思うのです。ヨセフは神の言葉を信じて、その自己保身という罪を克服できたのであります。

 ヨセフは神の言葉に従う事によって、東の博士達がロデの道を歩むことを止めて、変えられていったように、ヘロデの道を歩むことをせずに、マリアを妻として迎え入れたのであります。

 われわれはこのようにイエスに出会うことによって、変えられていくのであります。それはただ自己中心的な歩みから、他者中心の道に変えられたということではないのです。われわれクリスチャンにとって、自己中心の反対語は、他者中心ではないのです、われわれクリスチャンにとっての自己中心性の反対語は、神中心なのです。神を中心にして生きるときに、われわれはただ他者のめだけに生きなくてはならないと歯を食いしばって生きるような生き方ではなく、自分自身も神によって生かされ、自分自身もまた大事にしていく生き方が赦されて生きるそしてそれと同時に他者のためにも生きることができるのであります。

自己保身がただちに罪だとか、絶対に離婚してはいけないとか、そんなことをいいたのではないのです。離婚したほうがお互いのためにいいということはいくらでもあると思います。なにがなんでも他者のために生きなくてはならないとか、そんな禁欲的な、歯を食いしばって生きる生き方をしなくてはならないというのではないのです。神を中心にした生き方をしているなかで、その自分のもっている自己保身的な生き方、自分の潔癖性だけにこだわるという生き方を疑ってみることが必要ではないかということなのです。

 それがインマヌエル、神われらと共にいます、ということを信じて生きる道、それが罪赦され、罪を克服しして生きる道なのであります。

 クリスマスはインマヌエル、神われわれと共にいます、という出来事であります。しかしわれわれ自身がよく知っているように世界は依然として人間の悪が支配しているように見える闇の世界は終末の時までは続くのであります。しかし終末の時が来た時には、神が全てにあって全てになってくださり、悪魔の支配は完全に終わるんだという希望を与えられて、われわれはその希望を失わないで、この現実の生活で、地道に一歩、一歩、クリスチャンとしてひとりひとりが自己中心の生き方を変えられて、神中心の歩みかたをしていく、それはひとりひとりがしていかなくてはならないことであります。

パウロは「死がアダムというひとりの人によってきたのだから、死者の復活もひとりの人によって来たのだ」といっております。このひとりの人というのは、いうまでもなく、イエス・キリストのことであります。しかし、パウロはすぐそのあと、この「キリストによってすべての人が生かされることになる」と述べるのです。そうであるならば、死がひとりの人によって来たように、われわれもキリストによって生かされ、ひとりの人に人によって、ひとりひとりの生き方をよって罪という死者からの復活の道を示さなくてはならないと思います。