「御子の誕生を祝う」 マタイ福音書二章一ー一二節

 
 クリスマスの季節になって、聖書のクリスマスの記事を読むときに、わたしがいつも引っかかる聖書の箇所は、マタイによる福音書の二章の一六節から一八節の記事であります。今日は本当はそこまで読んでもらうとしましたが、少し長すぎるので、その前の所までにしましたが、そこには、当時のイスラエルの王様、ヘロデ王によって、ベツレヘムとその周辺の一帯の二歳以下の男の子が一人残らず殺されたという記事であります。

 御子の誕生、われわれの救い主の誕生、神の子の誕生の背後に、このような凄惨な出来事がなぜ起こったのか。それがどうして救い主の誕生という喜ばしい出来事のなかで起こらなければならなかったのか。

 子供を不条理にも殺された母親はあまりにも悲しくて、もう慰めてもらおうともしなかった。そうした母親の悲しみの叫びがベツレヘム付近一帯にこだましていたというのであります。

われわれの救い主の誕生の記事にどうしてこのような悲劇が記されているのか。
なぜそのような悲劇が起こったのか。
 
 東から占星術の学者たちがエルサレムにきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにおられますか。わたしたちは東方でそのかたの星をみたので、拝みに来たのです」といって、エルサレムの街を尋ね歩き回った。

 そのことを知ったヘロデ王は自分の将来に不安を感じ、すぐ学者たちを集め、またその博士たちを呼び寄せて、「お前達がその子をみつけたら、わたしに知らせよ、自分も行って拝みに行きたいから」といって、その博士達を行かせる。

 そして博士達は、星に導かれて、イエスの誕生した場所をみつけ、家に入った。そこで幼子が母マリアのふところに抱かれている所をみつけ、ひれ伏して拝み、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を捧げた。

キリスト教の伝統的な解釈では、この博士達は異邦人でありながら、イエス・キリストを最初に拝んだ人々であったと評価するのであります。わたし自身もそのことになんの疑問も感じなかったのです。教会学校でも、降誕劇をするときには、この博士達は大切な登場人物で、ヨセフやマリアの次ぎに、いい役割を演じているのです。

しかし、今、教会の現場を離れ、牧師を引退して、あらためて、クリスマスの説教をしようとして、聖書を読み直したときに、この博士達は果たして、いい役割をしているのだろうか。本当の意味で、異邦人でありながら、最初にイエスの誕生を祝った人なのだろうかと疑いたくなったのです。

 なぜなら、この東から来た博士達があの悲劇を生み出したきっかけを作った人達だからであります。
 彼らがわざわざ東からエルサレムに来て、将来のユダヤ人の王として生まれるかたはどこかと尋ね回ったために、そのことがヘロデの耳にとどき、ヘロデ王がそのイエスを抹殺してしまおうとして、ベツレヘム付近の幼児虐殺という凄惨な悲劇を生み出した、そのきっかけを作った人達がこの東から来た博士たちでした。

もちろん、彼らに悪意があったわけではありません。彼らにその責任はないかもしれません。しかし、結果的には、彼らがその切っ掛けをつくってしまったという責任はないのだろうか。

 なぜそうなってしまったのか。それは彼らが、イエスを王として拝もうとしたということ、それが、その悲劇を生み出したのではないか。彼らが幼子イエスに捧げた黄金、乳香、没薬は、大変高価な貴重なもので、みな王に捧げる贈り物であります。彼らは王として、イエスを祝ったに過ぎないのであります。彼らは決して救い主としてイエスを拝んだのではないのです。

 ルカによる福音書のクリスマスの記事は、「大いなる喜び」が羊飼いたちに告げられ、それは天使たちがあらわれたりして、大変ロマンチックな色彩に富んだクリスマスの記事があるのに対して、マタイによる福音書に「喜び」という言葉がでてくるのは、二章一○節のただ一カ所であります。

 その喜びも、救い主の誕生を喜ぶという喜びというよりは、少し意地の悪い解釈かもしれませんが、博士達が東方で見た星が先だってすすみ、幼子のいる場所に上にとどまって、その星を見て喜んだというのですから、ああ、これで自分たちの占星術という知的好奇心は満たされたという喜び、あるいはもっと意地悪くいえば、これで旅は終わった、旅の疲れから解放されたという喜びだけであったかもしれません。
 星を見て喜びにあふれたとは記していますが、幼子イエスを見て、喜びにあふれたとは一言も書いていないのは、マタイの意図があるのかもしれません。

 東から来た博士達は、救い主の誕生を祝うために来たのではなく、王の誕生を求めて来た、彼らはユダヤ人ではないわけですから、自分たちの王の誕生を祝うために来たのではないかもしれませんが、しかし、彼らは救い主の誕生を祝うために来たのではなく、王の誕生を祝うために来たのであります。

 われわれが王の誕生を求めようとするときに、そこにはいつも権力の横暴という悲劇を避けることは難しいのではないか。

 旧約聖書をみますと、イスラエルに王様が誕生した経過が記されております。サムエル記上八章ですが、イスラエルにはもともとは王はいなかったのです。しかし人々は、自分達にも他の国と同様に王が欲しいと神様にいいだしたときに、神はそのときに大変不快に思い、お前達は、神様という王がいるのに、人間を王にするのかと怒り、また嘆いたという記事がのっております。

 しかしそれでも、人々が王が欲しいというので、王を制定するということは、お前達がその王の権力の前にひれ伏し、支配されることになるのだ、国はその権力のもとに徴兵制度が敷かれ、軍事国家になるのだぞ、それでも、お前達は王が欲しいのかと問うのです。それでも人々は王を求めた。それで神は譲歩しして、イスラエルの王をおくことを許したというのです。そうしてできた王は、神がいわれたとおりに、権力を振り回す王で、やがて国は崩壊したいったのであります。

 イスラエルの歴史では、わずかにただ一人ダビデだけが、彼にもいろいろな問題がありましたが、ダビデは最後のとろこでは、神の前にひれ伏し、神に悔い改めることのできた者として、評価されているだけであります。

われわれが神を王として拝むのではなく、神のみを王として拝むのではなく、人間を王として求めるということは、われわれがその権力者に支配されるという悲劇を生み出すのだということであります。

 後に皮肉にも、イエス・キリストは、「ユダヤ人の王」という罪状書きを記されて十字架で死んでいったのであります。

しかし、イエス・キリストという「ユダヤ人の王」は、主イエスがいわれたように、人々を支配する王、人々の上に君臨する王ではなく、人々に仕えるしもべ、人々にご自分の命を捧げる僕、みずから十字架についてくださる王なのであります。

われわれの救い主、イエスが誕生したときに、そのイエスが将来の王になるのではないかと恐れた。ヘロデ王が、その王の権力にしがみつき、王の権力をふるって、なんとかしてイエスを抹殺してしまおうとして、ベツレヘム付近の二歳以下の男の子をことこどく殺していったという凄惨な出来事があったというのです。二歳以下というのですが、その殺戮は二年にわたってつづいたということであります。その切っ掛けを作ったのが東から来た占星術師たちだったと、マタイ福音書は記すのです。

 マタイ福音書の記すクリスマスの記事は、暗いのです。その暗さは人間の罪の暗さであります。

マタイ福音書のクリスマスの記事は、ヨセフの苦渋の決断から始まったことを記しております。
 ヨセフは自分の婚約者マリアが身ごもった事を知ったときに、自分の身に覚えがなかったために、マリアは他の男性と関係をもったのではないかと思い、ひそかに離縁しようとした。

 マタイ福音書はヨセフは正しい人であったと記します。ヨセフは「正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」と書くのであります。
 「ひそかに」であります。他の男と関係をもって妊娠したことが公になったら、たちまちそれは石打の刑に処せられることになり、みんなのさらしものになり、処刑されることになる、だからヨセフは「ひそかに」離縁しようとしたというのです。
 その「ひそかに」というところに、マタイ福音書は、ヨセフの「正しさ」をみているのです。
 
 そのヨセフの正しさは、姦淫をしたに違いないマリアに対して、その不倫をあからさまに糾弾するという正義を振りかざすという正義の士としての「正しさ」ではないのです。そうではなく、マリアをさらしものにしない、マリアの恥を覆ってあげるということにおいて示された優しさ、そのことをとらえて「ヨセフは正しい人であったので」と、それが彼の「正しさ」としてマタイ福音書は書いているのです。
 
 前にも紹介したことがあると思いますが、よく結婚式の披露宴など紹介される吉野弘さんの「祝婚歌」という詩に、こう歌われているのです。
 「二人が睦まじくいるためには、愚かでいるほうがいい、立派すぎないほうがいい」という言葉で始まります。そしてこう続くのです。「正しいとことをいうときには、少しひかえめにしたほうがいい、正しいことをいうときには、相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい」と歌われるのです。

 われわれは正しさを主張しようとするときには、必ずどこかに自分の正しさを主張しようとする、自分が自分がという、そういう自我が潜んでいるものであります。われわれは人間関係のなかで正しさを求めるとき、どこかぎくしゃくしたものを引き起こすものであります。親子の関係において、とくに夫婦の関係において正しさを求め、正しさを主張しようとするときに、ぎくしゃくしたものを引き起こしてしまうのではないか。

 ヨセフは正しい人でした。しかしその正しさは、ただ自分の正義を主張する正しさではなく、相手のことを傷つけてはいけないという優しさ、それがヨセフの正しさでした。それは吉野弘がいう「正しさ」であるかもしれません。
 
 ヨセフは人間がもつ最良の正しさをもっている人でした。

 しかし神はそのヨセフに対してこう告げるのであります。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と、告げるのであります。

このとき、ヨセフは「ひそかに」にではあっても、離縁しようとしたのです。確かに、ヨセフはただ正義を振り回す人ではなく、マリアの恥を覆ってあげるという優しさをもってはいたのです。しかしそれでも、ヨセフはひそかにではあっても、離縁しようとしたのであります。それはヨセフの潔癖感、それは正義感といってもいいかもしれませんが、ヨセフはそれを保とうとしたのであります。

 しかし、神はその彼のもっていた正義、潔癖感を捨てさせて、マリアを妻として迎え入れよ、といわれるのです。神はヨセフのもっていた正義感、それは人間のもつ最高の正義感であったのですが、それを捨てさせようとするのであります。

ヨセフのもっていた正義とは何だったのか。人間のもっている正義とはなんでしょうか。

 ヨセフは、マリアをあからさまに告発しないで、石打の刑から逃れさせようとして、ひそかに離縁しようとした。ここには人間のもつ最良の優しさがあるかもしれません。しかしそこでは、どんなにひそかにではあっても、離縁しようとする限りにおいては、まだまだ自分の正しさを守る、自分の潔癖性を維持するという、つまり、自分の立場を守るということ、自分を守るということは保持されているのであります。

 ここに、人間のもつ正しさの限界があるのではないか。このときヨセフがいだいた正義感は、自分の立場に固執するという人間の罪につながる正義でしかなかったのではないかということなのです。 
 
 ヨセフの優しさという正義は、自分の立場を守るという限りにおいては、状況によっては、あのヘロデ王の幼児虐殺につながる正義でしかなかった。ヘロデ王は自分の王という立場を守ろうとして、将来イスラエルの王として生まれたという噂のある幼子イエスを殺そうとして、ベツレヘムの付近の幼子をことごとく殺していったのであります。

 ヨセフがひそかに離縁しようとしたあの正義感、潔癖感は、あのヘロデ王の自己保身という罪に、いつ転落するかわからない、それとつながっているのだということをわれわれは知っておかなくてはならないと思います。

 善良な市民がいつヒットラーのナチズムに荷担して、罪のないユダヤ人の大量虐殺にまわってしまうかわからないのであります。あの罪のないユダヤ人の大量殺戮に加わったナチスの高官たちは、家に帰れば良きパパだった、モーツアルトの音楽を好む善良の市民であったということであります。

マリアの事が表沙汰になるのを好まず、ひそかに離縁しようとしたというヨセフの正しさ、ヨセフの優しさという正しさは、最後のところでは、自分の潔癖性を守る、自分の立場を守ろうとすることに固執する限りは、相手の過ちを赦すということはにならない、相手の罪を赦すということにはならない、それは本当に人を愛するということにはならないのではないか。

なにも離婚することが悪いというのではないのです。ある人の言葉に、人は誤って結婚する場合があるが、離婚するときは正しい理由で別れるといっております。
 離婚にはさまざまな理由があると思います。家庭内離婚という地獄のような関係を維持するよりは、離婚したほうがよほどいいという場合があると思います。しかし、離婚という危機の寸前まできても、なんとかそれを乗りこえて、忍耐して忍耐して、離婚しないで、晩年を迎え、いまでは、お互いに支え合っているという夫婦を何人もわたしは見ております。

 われわれ人間のもつ正しさは、その最良の正しさでも、優しさをもつ正しさでも、やはり、最後のところでは、自分の立場を守る、自分の潔癖性を守るという限界を突き破ることはできないのではないか。

  それでは、神の正しさとは何か。それは御子イエス・キリストの誕生によって示された神の正しさであります。つまり、神の子が、その神の子であることを捨てて、神の子であることに固執することを捨てて、その立場を捨てて、われわれ人間の姿をとってこの地上に降りて来てくださったという正しさであります。

 聖書はこういっているのです。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿であらわれ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」というのであります。

 キリストはご自分の正しさを主張することに固執しなかった。キリストはご自分の立場を守り、自分の潔癖さにこだわることに固執しなかった。かえって、自分を無にして、しもべの身分になり、われわれ罪人と同じ者になったというのです。
 そのために神は御子を王宮や神殿のなかで誕生させないで、貧しい飼い葉おけのなかに誕生させたのであります。

 神は、自分の正しさ、自分の潔癖性に固執して、自分の立場を守ろうとするヨセフに、「恐れないでマリアを妻として迎えよ」といわれるのです。
 「マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのだ」というのです。他の男と不倫してできた子ではない、だから、恐れないで、妻として迎えなさいというのです。
そしてヨセフは、その神の言葉を信じて、マリアを受け入れたのです。

 ヨセフは、不倫したマリアの罪を赦したということではないかもしれません。なぜなら、マリアは不倫したわけではないからであります。しかし、ヨセフは、人間の常識からいったら不倫をして妊娠したとしか思われないマリアを、受け入れたのであります。神の言葉を信じてであります。自分の正義感とか自己保身的な潔癖感を捨てて、神の言葉を信じて、神の正しさの前に立ったのであります。
 そしてまた、マリアのなんの悪びれることのない振る舞いを通して、ヨセフは神の言葉を信じたのかもしれません。

 自己保身そのものは、罪ではないかもしれませんが、しかし、それはいつでも、そのために人を排除し、人を殺しかねない罪と深くつながっているのではないか。

 そういう意味では、やはりヨセフも罪人であった。それはこの世の正しい人といわれている人、あるいは善人であるといわれている人のもっている正しさ、善、あるいは、優しさ、その中ひそんでいる罪、最後のところで守ろうとする自己保身の罪であります。そういう意味では、聖書に書いているとおり、この地上には、「正しい者はいない、一人もいない。善を行う者はいない、一人もいない」ということであります。

ヨセフは正しい人でした。マリアのことを表沙汰にしないで、ひそかに離縁しようとする優しさをもっている正しい人でした。しかし、離縁しようとした。しかし離縁していたら、やがてそれは表沙汰になり、みんながよってたかって、彼女を非難し、辱めたことは予想できることであります。そしてイエスは父なし子として、あるいはみんなからいじめられ、ゆがめられた環境のなかで成長することになったかもしれません。そうしたならば、あのイエスのもっていた愛の豊かさ、愛の深さは成長しなかったかもしれません。

 神はヨセフのもっていた優しさという正しさを、もっと徹底して深めさせたのであります。自己保身という罪のために中途半端になってしまう優しさではなく、自分を捨てて、相手を受け入れる、相手の弱さを受け入れる、相手の罪を赦すという優しさにまで、その優しさを徹底させなさい、と神はヨセフに迫ったのであります。

ヨセフはその神の言葉を受け入れた。そのために、イエスはマリアを中心とした深い豊かな愛情のなかで幼年期、青年期を過ごしたのではないかと思うのです。

 マタイ福音書のクリスマスの記事は暗いのです。それは正しい人であったといわれているヨセフの罪を含め、そしてあのヘロデ王による幼児虐殺という大きな罪にいたる暗さであります。

 そうした人間の罪のただなかに御子イエス・キリストの誕生があったのだとマタイ福音書はわれわれに告げるのです。このかたは自分の民を罪から救うメシアなのだと告げるのであります。そしてこのかたは、インマヌエル、神我らと共にいますかたの象徴なのだというのであります。
インマヌエルという出来事、神われらと共にいますという出来事は、美しい星の輝くところに起こった出来事ではなく、まさにわれわれ人間の罪の闇のなかで起こった出来事なのであります。

 あの幼子に出会った東から来た博士達は、夢のなかで神から「ヘロデのところに行くな」と告げられるのであります。それで別の道を通って自分たちの国に帰ったというのであります。博士達は、神の子イエスの誕生の場所をヘロデ王に教えなかった。そのためにイエスはヘロデ王の手から逃れてエジプトに逃れることができたというのです。

 王を求めてはるばる東からきた博士達は、幼子イエスに出会ってから、もはや人間の王に従わない道を歩み始めたというのです。

 そのために逆に皮肉にも、ベツレヘム付近一帯の幼児虐殺が始まったとマタイ福音書は記すのであります。それを隠そうとしないのです。やがてイエスは十字架で殺されることになりますが、イエス自身が、自分の誕生の背後にこうした幼児虐殺の事件があったことを知ったかどうかはわかりませんが、すくなくとも、マタイ福音書は、その救い主の誕生の背後には、罪のない幼子たちの犠牲があって、それはやがてイエスの十字架の死を指し示す出来事なったのだということをわれわれに告げようとしているのであります。

  マタイ福音書のクリスマスの記事は、大変暗いのですが、しかしそのなかにインマヌエルを告げるのです。それはパウロがいうように、「罪がましたところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた」ということ、それがクリスマスの出来事だったのであります。