「神の子の誕生」 マタイ福音書二章一ー一八節

 神の御子の誕生の記事、クリスマスの記事は、ルカによる福音書とマタイによる福音書の二つの福音書に記されておりますが、ルカによる福音書のクリスマスの記事は、天使が現れて、賛美の大合唱が記されていたり、あるいは夜野宿している羊飼いのところに天使の御告げがあったりして、大変クリスマスにふさわしい美しいというか、心温まる、いわばクリスマスにふさわしい神の御子の誕生の記事であります。
 
 それに対してマタイによる福音書のほうは、そうした美しい話はひとつもなく、ある人がいうには、それは少し大げさにいえば、血に染められたクリスマスの記事なのであります。

 それはどうしてかといいますと、当時のユダヤ人の王が、自分の王位が危うくされるかもしれないことを恐れて、将来のユダヤの王として生まれることになるかも知れないイエスを抹殺しようとして、イエスが生まれたという噂のたったベツレヘとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺させたという記事があるからであります。二歳以下というのですから、その殺戮はクリスマスの時だけでなく、クリスマスを契機として二年に渡って続いたのかもしれません。その殺戮は、神の御子の誕生、クリスマスの時から始まったのであります。

 そのようにして幼い子を殺された母親たちは、悲しくて、悔しくて、その悲しみがあまりにも深いために、もう人からの慰めの言葉すら拒否したというのであります。

 われわれの救い主の誕生の背後には、そのような悲劇があった、そのような残酷な出来事があったのだということを聖書は告げるのであります。それがどうしてわれわれを救う救い主の誕生になるのかということであります。

 どうしてそのような悲劇が起こったのかを見ていきたいと思います。そのきっかけになったのが、東から占星術の学者のエルサレムへの旅でした。彼らは自分たちの国で不思議な星をみたというのです。それは自分達の学問からいうと、ユダヤ人の王として生まれるという徴の星だというのです。

 異邦の国の学者たちがどうしてユダヤの国の王のことに関心を抱いたのかはわかりません。その王はただユダヤを支配する王としてではなく、自分達の国にとっても大事な王、大事な支配者になるかもしれないという予想と期待があったのかもしれません。

 ともかく彼らはの星に導かれてエルサレムまで来た。そして、エルサレムの街で「ユダヤ人の王として生まれたかたはどこにおられますか。わたしたちは東方でそのかたの星をみたので、拝みに来たのです」と、探し回っていた。そのことが当時のユダヤ人の王ヘロデの耳に入った。王は恐れた。自分の王位が奪われるのではないかと思ったからであります。それはエルサレムの人々も同様であったというのです。

 それで王は祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシア、これは当時は王としての意味をもった言葉です、メシアはどこに生まれることになっているかを調べさせた。学者たちは預言書を調べて「そこはベツレヘムでしょう」と答えたのであります。

 そこでヘロデ王は東から来た学者たちをひそかに呼び寄せて、星の現れ方を聞き、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わたしも拝みに行くから」といって、彼らをベツレヘムへと送り出したのであります。

 彼らが王の言葉を聞いてベツレヘムへと近づきますと、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとまった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共にいた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 マタイ福音書の神の御子の誕生を祝う記事は、ただそれだけであります。ここには、ルカ福音書が記すような天使の合唱もなければ、羊飼達に天使が現れたという記事もないのです。

 ここには、天使たちの祝福にみちた賛美の合唱の代わりに、ユダヤ人の王ヘロデの自分の王位にしがみつこうとする自己本位の執着心と、それに追従する祭司長たち、律法学者たちの自分たちの学者としての成果の進言があり、その結果起こったベツレヘム周辺の二歳以下の幼子の殺戮という悲劇、それを悲しむ母親たちの泣き叫ぶ合唱があるのであります。

 こんなことを考えるのはおかしいかもしれませんが、もし東から博士達がエルサレムに来なかったならば、このような悲劇は起こらなかったのです。もし東から来た博士たちが「ユダヤ人の王として生まれることになっているかたはどこにいるか」と、エルサレムの街でうろうろしていなかったならば、こんな悲劇は起こらなかったのであります。

 もちろん、東から来た博士たちに悪意があったわけではありません。彼らは自分達のいわば学者としての知的好奇心から、異常に輝く星をみて、その星のありかがなにを意味するかを探ろうとして、エルサレムに来ただけであります。

 しかし、彼らは「ユダヤ人の王になる人はどこに生まれたのか」と尋ねてエルサレムまで来たのであります。それはユダヤ人の王としてではあったとしても、それはやがて自分たちの生存にもかかわる王になるかもしれないという期待もあったかも知れませんが、ともかく彼らは「王」を求めてエルサレムまで来たのであります。

 彼らは幼子イエスにあった時に、黄金、乳香、没薬を献げたとありますが、昔からこの三つの宝物については、いろいろな解釈があるのですが、この捧げ物、乳香にせよ、没薬にせよ、それは黄金に匹敵するくらいの高価な香料であって、これは黄金はもちろんのこと、乳香とか没薬という貴重な高価な香料は、王様に献げるにふさわして贈り物で、彼らは幼子イエスを王として贈り物を献げたと考えていいと思います。

 博士達は、イエスを王とて奉り、拝もうとしてはるばるやってきたのであります。ユダヤ人の王として生まれるかたはどこかと探し求めた、それを知った現役の王が反応した、ヘロデは将来、自分の王位を脅かす者を幼いうちに抹殺してしまおうとして、ユダヤ人の学者たちを呼び集めて、それを探ったのであります。

 東の博士たちは、神の子である救い主の誕生を喜び、その神の子である救い主を拝むために来たのではなかった。そのことが大きな悲劇を生むことになったのではないか。

 イエスは王として誕生したのでしょうか。

 イエスがたくさんの病人をいやしたときに、人々はイエスを王として奉ろうとしたのであります。そのとき、イエスはどうしたか。イエスは自分が王として奉るれることを拒否して、彼らから退かれたのであります。

 われわれが王を求めようとするとき、誰か人間を王として奉ろうとするとき、たとえ、自分自身が王になろうとするのではなくても、誰かを王にして、誰かを独裁者にして、自分たちの安泰を求めようとするときに、そこには必ず悲劇が起こるのではないか、王のもとでは、われわれには救いはやってこないのではないか。

 昔から、イエス・キリストの三つの職能として、王、祭司、預言者が挙げられております。そういう意味では、イエス・キリストは、王であります。われわれの王であります。しかし、イエスは、ヘロデ王にみられる権力をふるう王として君臨しようとしたのではなく、あくまで、僕として人々に仕える王なのであります。

 東の博士たちに悪意があったわけでないことは確かなのです。彼らはただ自分たちの占星術、あるいは天文学としての知識を追求して、星に導かれて、エルサレムまで来たのであります。自分たちの知的好奇心を満たすために、「ユダヤ人の王として生またかたはどこにおられるか」とエルサレムの街を歩き回った。

 それがきっかとなって、あのベツレヘムの二歳以下の幼児を引き起こしたのであります。ヘロデ王は、彼ら博士達にその幼子を見つけたら、わたしに知らせるように命令しておりましたが、博士達は夢で、ヘロデ王のところに行くなという知らせを受けて、違う道を通って帰り、そのことをヘロデ王にしらせなかった。それでヘロデは怒り、イエスが生まれたという噂のあるベツレヘムの付近の二歳以下の幼子をことごとく、殺させたのであります。

 博士達に悪意はなかった。彼らはただ知的好奇心の探求という思いだけかもしれない。しかしそれが悲劇を生んだ。

 ノーベル賞を創設したノーベルは自分が造ったダイナマイトで強大な富をつくりましたが、それが岩盤を爆破するために使われるだけでなく、戦争に使われることになったことを悔いて、自分の莫大な遺産をノーベル賞として、残したのだといわれております。ノーベルが特に望んだのがノーベル平和賞だったといわれております。
 彼は自分の科学者としての知的追求が、人を殺傷する戦争に使われるとは予想もしなかったと思います。

 第二次大戦のとき、科学者であるアインシュタインは、彼は科学者として、当時の大統領のルーズベルトの指導のもとて計画された「マンハッタン計画」に加わり、原子爆弾の製造を積極的に進言したというのです。それはもしドイツのヒットラーがアメリカよりも先に原子爆弾を造り、それが使用されたら、大変になることを恐れたからであります。

 ルーズベルトの次ぎの大統領トルーマンのときに、二つの原子爆弾が日本に使用されたことを知り、アインシュタインは、後にそのことを大変に悲しみ、痛恨したというのであります。そのことは、日本人の哲学者との文通で明らかにされております。

 アインシュタインに悪意はなかったかもしれません。しかしその知識がひとたび権力をふるう人間の手に渡ったときに、それはとてつもない悲惨な悲劇を引き起こしたのであります。
 それ以来、科学者の戦争責任がさかんに言われるようになったのであります。
 
 それはただ戦争責任という問題だけでなく、科学的知識のあくことのない追求は、今日の核開発、遺伝子工学もまた科学者に悪意がなく、たとえ善意だけであったとしても、その知識が権力をふるうことを常に求める人間の手にわたると悲劇はさけらないのではないか。それは金儲けの手段として使われたりしていくのであります。

 それは聖書が示しているバベルの塔の神話がわれわれに警告していることであります。人間が神のようになろうとして、善悪を知る木の実を食べたときから、行き着く先は、自分たちの手で、つまり神なくして、自分たちの手で天にまで達しようとする知的好奇心の追求であります。

 善悪を知る木の実を手に入れる、この聖書で言う「善悪」というのは、道徳的な意味の善悪ということではなくて、白黒という表現で、色全体を表現するように、善悪ということで、知識のすべて、つまり、神のようにすべての知識を知ろうとするということを意味しております。

 人間は神でもないのに、神のごとく全能者になろうとして、善悪を知る木の実を食べ、それはついには、神の手をかりないで、自分達人間の力だけで、天にまで達しようとしてバベルの塔を建てようとした。それが神によって壊されたという神話がバベルの塔の話であります。その神話は人間の知的傲慢、人間の王になろうとする傲慢を警告する記事なのであります。

わたしは、クリスマスの季節になって、このマタイ福音書のクリスマスの記事を読むときに、いつもひっかかるのが、ベツレヘムの二歳以下の幼児虐殺の記事であります。なぜ救い主が誕生するというのに、このような悲劇が起こり、聖書はそのことを隠すことなく、示そうとするのかということなのであります。

 愛する幼子を殺されて嘆き悲しむ母親の悲しみ、その悲しみがあまりにも深いために、慰められることを拒んだというクリスマスの聖書の記事を見過ごすことができないのであります。その幼子の無意味な死、それはイエスの十字架の死よりも、ある意味では、もっと悲惨、もっと空しい死だったのではないか。

 そのきっかけを作ったのが、東から来た博士たちであった。彼らになんの悪意はなかったのです。しかし人間の歴史においては、しばしばなんの悪意もなく、ただ善意だけで動いた人間が悲惨な悲劇を生んでしまったということはいくらでもあるのではないか。

 少し、脱線をしますけれど、わたしは今まで、牧師をしていて、四十年以上にわたって、クリスマスの説教をしてきましたが、東から来た博士たちを、こういう視点から説教したことはありませんでした。

 この東から来た博士たちは、異邦人でありながら、幼子イエスを選民イスラエルの人々よりも先に拝みに来た登場人物としてみたのであります。それ以外の視点で考えたことはなかったのです。この博士達は、いってみれば、善人として、異邦人でありながら、もっとも信仰深い人達としてしかみてこなかったのであります。それはやはり、教会学校でのクリスマスのページェントで、子供達がこの博士たちを演じるときに、そのイメージをこわしてはいけないという思いがあったからではないかと思います。

 しかし、変な話、いま現役の牧師を離れて、そうした教会学校のクリスマスから離れたときに、この東から来た博士達の行動を違った視点からみることができるようになったのであります。

 彼らは幼子イエスを誰よりも先に、神の子の誕生として、拝みにきた、祝福しにきたのだとは、思えなくなったのであります。彼らは、ユダヤ人の王として生まれるかたを拝みにきた、われわれがそのように王を求めようとするときに、ひとりの人間を、ただ権力をふるう王として奉ろうとするときに、われわれ人間には、救いはないということであります。

 博士達は母マリアにだかれた幼子イエスをみたときに、黄金、乳香、没薬という貴重な品を宝箱からとりだして、献げたのであります。それは確かにイエスを王として祝福しようとした捧げ物だったと思います。

 しかし、彼らは、それを献げながら、マタイには、そこが馬小屋であり、飼い葉桶に横たわる幼子とは記されてはおりませんが、しかし、彼らはそれを献げながら、権力をふるう王とは違う王を感じとったのではないか。

 なぜなら、彼らは、その後、夢で「ヘロデ王とのころに帰るな」とお告げを受けて、別の道をとおって帰ったからであります。もはやあのヘロデが待ちかまえているエルサレムの街を通らないで、別の道を通って帰っていたということだからであります。
 もうこのときに、博士達は、星に導かれてはいないのです。星ではなく、神の御告げを受けて、いわば神の言葉に導かれて、別の道をとおって帰っていったのであります。

 それにしても、あらためて、マタイによる福音書のクリスマスの記事をみますと、ここに登場するのは、みな力をもった人間ばかりだということであります。
ヘロデ王をはじめ、祭司長、律法学者、そして東からきた博士たち、みないわば偉い人たちばかりが登場するのであります。

 それに対して、ルカによる福音書に登場するひとたちはどうでしょうか。ナザレの町の名もないヨセフの婚約者マリアであります。彼女には確かに、祭司ザカリアという親類がおりましたが、マリア自身は名もない貧しい女でした。それは彼女自身が、あのマリア賛歌で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目をとめてくださったからです」と歌っているのであります。

 そして、権力もなく、豊でもない、恐らく貧しい羊飼いたち、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたちであります。その人たちが、飼い葉桶に誕生した神の子の誕生をお祝いしているのであります。それはもっともふさわしいクリスマスの祝いかたなのではないか。

 後に、主イエスが、成人したときに、自分の誕生のときに、自分の身代わりになって多くの幼児たちが虐殺されたのだということをイエスが聞かされたかどうかはわかりません。

 しかし、もし仮にイエスが後に、自分の誕生の背後に、この悲惨な幼児たたちの死のことを聞かされたならば、自分の十字架の死の意味をますます痛切に思ったに違いないと思います。

 イエスがどう思われるということよりも、われわれの救い主の誕生の背後には、いわばイエスの身代わりになって死んでいった幼児のたくさんの犠牲の死があったことをマタイ福音書は告げようとしているということであります。

 そしてそれはわれわれが救われるためには、それらの幼児たちの犠牲を含めての御子イエスの犠牲の贖いの死があったのだということであります。

 われわれが現在生かされているのは、誰かの犠牲的な愛によって支えられているのだということを知らなくてはならないということであります。そしてわれわれもまた誰を支え、生かすために、ある時には、自分も我慢して、犠牲になって支えなくてはならないということであります。

 このクリスマスに、主イエスの誕生を、権力をふるう王としてではなく、あくまで最後まで僕の道を歩んでくださった王として、祝いたいとと思うのであります。