盛谷聖子姉の葬儀説教  ローマの信徒への手紙八章二六ー三○節


 わたしと盛谷聖子さんとの関係は、盛谷牧師が愛媛県の近永教会の牧師、わたしがやはり愛媛県の大洲教会の牧師ということで、同じ南予分区に属しているという関係での交わりです。聖子さんとの最初の出会いは、盛谷牧師が神学校を卒業して最初の赴任地の愛媛県の宇和島の奥の近永教会に赴任して、バイク事故を起こして橋から転落して、大怪我をして、その盛谷牧師を見舞うために、聖子さんが広島から駆けつけたときに、その見舞の帰りに、ちょうどわれわれ牧師仲間も彼を見舞いにいって、偶然、その帰りの列車の中でお逢いしたのが最初でした。まだそのころは、婚約中だったと思います。列車のボックスのなかで、数人の牧師仲間が盛谷牧師の悪口を彼女に吹き込んだりして、牧師夫人というものがどんなに大変なものかを吹き込んで、楽しいひとときを過ごしたことを思い出します。

 それ以来のおつきあいで、そこはその愛媛県の南予分区というところで、田舎ということもあって、牧師仲間は大変仲がよく、家族ぐるみの交わりをいたしました。それ以来、愛媛県を離れてもそのつきあいはずっと続いて、家族ぐるみのつきあいをしてまいりました。盛谷牧師が長崎平和記念教会、茅ヶ崎教会、そして現在の教会に移ってからも、家族ぐるみで交わりが続いております。

 聖子さんのお好きな聖書の言葉は、コロサイの信徒の手紙の三章の言葉だそうです。「あなたかだは神に選ばれた者、聖なる愛された者であるから、あわれみの心、慈悲、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」という言葉だそうです。
聖子さんは、もちろん慈悲、愛の人でしたが、なによりも、わたしが聖子さんから受けた印象は、謙遜ということ、柔和ということ、寛容ということでした。
 彼女から人の悪口を聞いたことがありませんでした。およそ人を批判したり、裁いたりする言葉を聞いたことはありませんでした。

 しかし、わたしがそのなかでも、聖子さんとの親しい交わりのなかで、わたしが感じたことは、聖子さんという人は、不平というものを言わない人だったということであります。

昨日の前夜式のでの最後の盛谷牧師の挨拶のなかでもいわれていたことは、聖子さんは不平というものを言わなかった人だということであります。昨日の御主人である盛谷牧師の挨拶は、しみじみとしたお話で、わたしは胸をうたれました。あとで、娘さんの直子さんに、「お父さんの話は、ふだんの説教よりも良い説教だったね」と冗談でいったら、直子さんは笑って、大きな声で「そうだ、そうだ」とうなづいておりましたので、本当にそうだったのかもしれません。

 これも昨日ですが、盛谷牧師と話をしていて知ったことですが、盛谷牧師が説教ができなくて、苦労して、穴があったら入りたい思いで、説教をし終わって自宅に帰ってきても文句ひとつもいわないで、ニコニコして、「ご苦労さまでした」といって、暖かいお茶をだしてくれたというです。それを聞いてわたしはなんという良い牧師夫人だうと思いました。わたしにもこんないい牧師夫人がいたらなあ、と思いました。盛谷牧師はこういう奥様に支えられて、今日まで牧師としてやってこれたのです。

 わたしは彼女から一度も不平というものを聞いたことがありませんでした。近永教会時代は恐らく経済的にはとても大変な苦労をしたとおもいますけれど、それに対する不平というものを聞いたことがありませんでした。

 もちろん、いろいろ不満はあったと思いますけれど、不平を聞いたことはありませんでした。彼女の基本的な生き方は、自分の与えられた場所をそのまま受け入れるという姿勢だったのではないかと思います。その場所をその環境を、その運命を神様から与えられたものとして、常に受け入れていたということであります。そこにはもちろん忍耐はあったでしょう、しかしそれは歯を食いしばって我慢するというような忍耐ではなく、それはいつも、聖書がいっているように、いろいろな苦難のなかで、神の愛に支えられていることを信じて、生み出される忍耐、「苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」そういう忍耐のなかで、不平というものを口にしない、ただ口にしないだけでなく、神様によって与えられた運命を受け入れるという忍耐をもって生きられたのではないかと思います。

盛谷聖子さんは、間質性肺炎にかかりました。この病気は、現代の医学では治療法がまったくない病気だそうで、ほとんどなんの治療も行うことができず、真綿で首をしめていくような病気だそうです。聖子さんのおふたりのお姉さんもこの病気にかかり、なくなられたようです。聖子さんも、そのお二人のお姉さんの介護に献身的にあたってきたのです。ですから、その病気がどんなものかはその
様子をつぶさに見ているわけです。

 盛谷聖子さんは、この病気を発病してから、じつに五年間、この病気を受け入れて、一日一日を生きてきたのです。賛美歌の二八八番の二節に「行く末遠く見るをねがわじ、主よ、わが弱き足を、まもりて、一足、また一足、道をば示し給え」とありますが、聖子さんは、それこそ、行く末遠くみることなく、遠くみることをしないで、今日一日、今日一日、ひとあし、ひとあし、自分の弱さを守り給えと祈りながらこの数年間を生きられたようであります。御主人の盛谷牧師によれば、家内は決して死のことを思わず、いつも生きることを願って、毎日を過ごしているといっておりました。

 普段は午前中は寝るという状態がつづいたようですが、日曜日には教会学校の教師として、立ち、それができなくなっても、礼拝にはなんとかして出るようにしていたようです。いつも生きることを志していたということであります。
 
 聖書の言葉に、「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている」という言葉があります。

 ここは昔の聖書の文語訳では、「神を愛する者は、すべてのこと相働き益となる」となっていて、この聖書の言葉を読むと、神様を信じ、神様を愛してる者には、最後にはすべてのことが相働いて、最後にはなにもかもうまく働いて、うまくいくのだというように読んでしまうところであります。

しかし、われわれの実際の生活はどうでしょうか。神様を愛していても、神様を一生懸命信じていても、必ずしも、すべてのことが万事が益とならない、すべてのことが相働いて益とならないことがあるのをわれわれはよく知っているのではないでしょうか。
 どんなに祈ったって、病気を治してくださいと祈ったって、病気は癒されないで、死んでしまうということがあるのをわれわれはよく知っております。

 この聖書の言葉は、うっかりすると、われわれの信仰を単なる御利益信仰に導いてしまいかねない聖書の言葉であります。

 われわれの信仰は確かにみな御利益信仰から始まるのです。われわれが信じているキリスト教信仰だって、御利益信仰から始まるのです。

聖書には、主イエスもそのように御利益を求めてくる病人、貧しい人に対して、決してしりぞけたりせずに、その病をいやしてうげているのです。


 病気になったら、この病気を治してくださいと必死に神様に祈るのです。そのような祈りができない信仰、そのような祈りをしない信仰は、信仰ではないのです。
 しかし御利益的信仰でおわってしまう信仰は、われわれには救いにはならないことは明かです。なぜなら、われわれの人生には、自分の願っていることがいつも実現するとは限らないからでであります。

 われわれの信じているキリスト教信仰も、はじめはみな御利益信仰から出発しているのです。しかし、われわれはそのように神様に対する期待から祈りますが、しかし神に祈り続けるうちに、その御利益信仰はいつのまにか、神に対する信頼に変えられていくのであります。期待から始まる信仰が、信頼にかえられていくのです。
 期待というのは、自分中心の思いです。しかし、信頼といのは、相手を信頼することで、相手を信用することで、中心が自分から神様に移っていくのです。
 
 神様を信じていたら、「万事が益となる」ということは、すべてのことが最後にはわたしの願った通りになって、万事が益となるということではなく、たとえわたしの願いどおりにならなかったとしても、それはすべてのことがわたしにとって益となっているのだ、なぜならば、神が最後を取り仕切ってくださることを信じることなのです。

 それはたとえば、愛する者が重い病気になった。必死にこの病をいやしてくださいと神に祈った。しかし、その願いがかなえられないで、とうとう死んでしまった。それでもその死という現実に対して、「万事が益となった」と信じられるかどうかということなのです、信じなくてはならないということなのです。

イスラエルにダビデという偉い王様がおりました。その王ダビデは、ある時、大罪を犯しました。それが神に知られることになって、ダビデは自分の罪を悟り、悔い改めました。神はダビデを赦されました。しかし罰は免除されませんでした。彼の最愛の子が病気になった。彼は必死に我が子を助けてくれるように、断食してまで神に祈った。しかしそのかいもなく、子はは死んでしまった。

 彼は子が死んだことを知らされると、断食をやめ、食事をとった。それは家来たちを不思議がらせ、また不快にさせた。家来は「あなたのなさったことはなにごとか。あなたは子が生きている間は、その子のために断食して泣かれた。しかし、子が死ぬと、あなたは起きて、食事をした。これはどうしてか」と王につめよったのです。どうしてそんなにあっさりと断食をやめて食事ができるのですかと詰め寄ったのです。それに対してダビデはこう答えた
「子の生きている間に、わたしが断食して泣いたのは『主なる神がわたしをあわれんで、この子を生かしてくださるかもしれない』と思ったからだ。しかし、今は死んでしまった。わたしはどうして断食しなければならないのか。わたしは再び彼をかえらせることができるか。わたしは彼のところに行くでしょうが、彼はわたしのところには帰ってこない」と、答えたのです。(サムエル記下一二章)

 ここのところをある説教者がこう説明しているのです。
「子供がよくなるかどうかは神様のなさることだ。われわれは手をつくすにしても、どうなるものではない。神のなさることだと思うからこそ、神に祈ったのだ。しかし、もしそうなら、その神を信頼する以外には、なんの方法もない。神に祈りながら、神を信用しないとしたら、これくらい妙な話はない。自分の気に入るような結果が出たときだけは、神を信用し、思うようにならなければ、うらみごとをいうのでは、神を信じている、神を信用している、神に信頼しているとは、絶対に言えない。
 ダビデはそうでなかった。彼は神を信頼していた。だから、子供が死んだらもう全部終わったと思った。自分は、また、神を信じて、元の生活に帰りさえすればいいと思ったのだろう。一切を神に任せるというのは、こういうことだ。ここには悲しみはある。しかし不平はない。悔いもない。神のなさることに、すべてを任せるだけだ」といっているのです。

 「ここには悲しみはある、しかし不平はない」というのです。

 ダビデは子が死んだと聞いたときに、ただちに、断食をやめて、食事をとったのではないのです。彼は子が死んだと聞いたときに、起きあがり、身を洗い、油を塗り、その着物を替えて、主の家に入って礼拝したというのです。

 それから食事をとったのであります。

 ダビデ王は万事を益としてくださる神に礼拝をささげた。そのときに、我が子をなくしたという悲しみはあるが、不平はないという信仰に立つことができたのであります。

盛谷聖子の信仰は、不平を言わない信仰だった。自分の与えられた人生を、夫にしたがって、教会に仕え、どんなときにも、不平をいわないで、教会に仕え、また自分の母の介護に、またお姉さんの病気にも献身的に支え、そのようにして、自分の与えられた運命を受け入れて、受け止めて、生きてきたのではないか。

そうであるならば、この間質性肺炎になったときも、これはやはり神様に与えられた病気であると受け止めて、「万事は神様が益としてくださる」病気として、一日一日を、一足、一足をこの弱い足をまもってくださいと祈りつつ、最後まで生きたのではないでしょうか。

盛谷牧師から聖子さんの葬儀の説教をたのまれたときに、わたしがすぐ思い浮かべた聖句は「神は神を愛する者たちに働いて、万事を益としてくださる」という言葉でした。なぜならば、聖子さんはこの聖書の言葉を信じて、一日一日を歩まれたのではないかと思うからです。

 こんなことをいったら、怒られるかもしれませんが、この間質性肺炎という病気は、聖子さんにとってもっともふさわしい病気であったかもしれないと思います。この病気はそれこそ、行く先遠く見ることをしないで、一日一日、一足一足を神様に支えられて生きることしかできない病気、それはいっさいの不平を言わなかった聖子さんの生き方に、ふさわしい病気であり、聖子さんだからこそ、この病気に耐えて、最後を迎えることができたのではないか。
 
 聖書にでてくるヨブという人は、自分の財産も家族もいっさいを失ったとき、「主なる神は与え、主なる神は奪う。主なる神の御名はほむぺきかな」といったというのです。神様はすべてを与えてくださるのです。そうであるならば、また神様がすべてを奪いとるのです。
万事が益となるというのは、そういう信仰に立つということであります。

われわれキリスト教の信仰には、復活信仰というものがあります。しかしこの復活信仰というのは、ただ死んだ人がよみがえるという信仰ではないのです。そんな信仰はもっとも御利益的な人間の身勝手な願望の信仰でしかないのです。復活信仰というのは、そんな御利益的な信仰ではないのです。

 われわれの与えられている復活信仰というは、神がわれわれにすべてのものを与え、神がわれわれからすべてのものを奪い取り給うという信仰、そのようにして、神が、すべての者にあって、神がすべてになってくださる信仰なのであります。われわれ人間の浅はかな御利益を超えて、人知をはるかに超えた神の平安によって、死んだ者を包み込み、われわれの罪を赦し、われわれを慰めてくださるという信仰であります。

 われわれは盛谷聖子さんの死にさいして、悲しみはあります、しかし不平はないという信仰にたって、この葬りの式をしたいと思います。